▲今朝の富士山(我が家の2階デッキから)
富士山が世界遺産に登録決定したそうだが、とても安易には喜べない現実が、次には待っていることだろう。
昨年の7、8月だけでも32万人もの人が登山している山だ。これ以上の入山者の増加は、自然破壊と俗化が決定的だろう。
霊山としての聖なるエネルギーを、どれほど人の意識が減退させていくか、また目に余る光景を見なければならないのは悲痛だ。
以前、5合目の山道を登っていたとき、同行の四次元知覚を持つ者が、我々の前に仙人が一緒に歩いているのを見たことがある。白装束で杖をついた闊達な老人だ。
そう、霊山といわれる山には、こうした仙人が今も山の崇高な霊気を守っているのだ。
8合目を越える頃の、この世とは思えぬ不可思議な光景は、この仙人のエネルギーそのものの具現化した世界である。自然が厳しければ厳しいほど、仙人のパワーも激しく表出される。
ここへ世界から続々と大行列を組んで人が押し寄せるようになるのなら、もう仙人を失うのと同じことになる。きっと何かしらの現象で、この危機を戒めることになるのではないだろうか。
大自然は単に穏やかなときだけではないのは当然のこと、厳格で過酷な自然環境は、仙人の意識が持つ性格を代表する。それだから、戒めは厳しいものになる。
富士は遠望する姿は優美このうえないが、登山した者は知るとおり、森林限界を越えると、もう石が流れ下るような溶岩の冷え固まった瓦礫の山である。
ご来光目当てに夜明け前の暗闇を登るとき、目線の先に白い鳥居が見えたときの驚きは、まさにあの世に紛れてしまったような心境に襲われる。
そこを聖地として修験の研鑽の行がおこなわれていたのは、霊山の所以である。
生と死の臨在が不確かになるような、いまわの際を彷徨するような世界・・・それが富士の山行が垣間見せる異界の旅である。
そんなことを感じられる山旅であるのなら、きっと仙人も導きの手を厚くするだろう。
人が今より遥かに超感覚的に自然に触れることが出来るのなら、きっと聖なる山の存在意義がこの上なくありがたいものに感じられるだろう。
▲宝永火口
▲今日の夕空(我が家の庭から)