ひとくちに“庭づくり”と云っても、人それぞれにその定義や意味は違うのであろうが、自分の場合はどうも、おこがましくも建物を含めた住環境の構築というか、植物と共につくる居心地のいい住空間の創造のように思っているところがある。
我が家の建築前の、山を削った荒地の姿を原型とすると、そこを如何に気持ちのいい、光と生気に満ちた場にするか、というのがいつしか家屋を取り巻く庭をつくりあげていく愉しみとなっていったのだと思うのだ。それは、今ある庭の姿から、一切の植物たちを抜きにした像を思い描いてみればわかるように、まったく潤いのない寒々しい殺風景なただの立地になるだろうことからも了解できる。
建物の棟数が増え、オブジェとしてのガーデングッズが建ち、そこへ様々な低木や花々が追加されると、季節毎、時期毎に植物がつくり出す新たな空間の意匠が形成されていく。色や形や香りや光や影が、それぞれの時間軸の中で魅力的なアングルを生み出していくのだ。
その日の終わりに、庭のいろいろな箇所にしばし佇んでみることをする。
鳥の餌台のあるコナラの樹の下から、夕日に染め上げられる我が家を見上げる。
ミニログのデッキに立ち、下の花壇やキッチンガーデンの様子を見下ろす。
“Tool Shed” の裏から芝生の先で風に揺れるフリシアの若葉を眺める。
白いバードハウスに並ぶバラの花壇で、花芽が膨らんだ蕾の開き具合を見つめる。
母屋の二階のデッキから、暮れかかる空に富士のシルエットが浮かぶ黄昏を望む、などなど・・・。
傾斜した土地と建物で入り組んだ様々な空間のひとつひとつが、豊富な視覚の愉しみを与えてくれる。アングルの変化はそのまま庭の様相の豊かさを与えてくれるし、面白味のある空間性をどれほど持っているかが、庭の味わいを高めるもとにもなる。空間の均質化を破るのは、この複雑系の空間創造が決め手になるはずだ。家は入れ物だけではなく、外に空間を形成する基点でもあり、庭はそれらを生かす活性剤でもあり、延長空間でもある。
命の力に満ちた豊かな空間に居ることができるのは、すなわち身体も意識もそれらの調和と解放のエネルギーに満たされるということだ。癒しや活力は自然にこの場の波動から生み出され、人のこころや意識、細胞の隅々まで光の粒子が行き渡る。
例えプライベートな狭隘な庭であっても、自分なりの光の場を創ることがそもそもの目的になっていたのかもしれない。地上に光を・・・・とは、きっと本来の希望としてあったもので、それは大仰なことでもなく、こんなひとつの日々の愉しみのなかにこそ、知らずと少しずつ果たされていくものかもしれない。