伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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カテゴリ:スピリチュアル( 48 )

風景を見て、左脳が休んで右脳が起きる、そんな場がここにある。~大海原を前に見る「禅」?を嗜む。~


a0282620_1418195.jpg
▲この場のエネルギーの素晴らしさは、とてもこんな小さな画像では表現しきれない。リアルに現場に佇むからこそ、感受出来るものであるはずだ。


正月の二日に巡った伊豆半島の一角に、以前からそこを通る度に不思議な感覚になる場所がある。
半島の付け根から東側の、身体で言えば肩のあたりに当たる西浦や大瀬崎を過ぎ、まるで密林のような樹林帯を越えたところから、駿河湾の外海が広大にひろがりはじめる。
木々のあいだから、その紺碧の大海原が垣間見える頃、地理的にも、地形的にも、エネルギー的にも世俗から隔絶された、ある崇高な領域に入った意識になって来るのだ。

この道路は県道17号線だが、ここを通る車はかなりまばらで、滅多なことではすれ違うこともなく、あたりはまるで人の生活圏から遠く隔たったような感がある。
距離的にはそれほど、主要な国道から離れている訳でもないのだが、どうも途中の海沿いにへばりついた小さな鄙びた漁村のいくつもつながる光景を後にすると、いつしかかなり遠くへ来たような感覚になるのが不思議だ。
そして、大瀬崎を過ぎて道を巻いて高度を上げて行くと、もう一切の民家はない。海から立ち上がった断崖の上に連なる、山々の襞を掠めて通る山道が、唯一の移動手段を与えている。

ここから戸田までは、わずかに井田しか集落はなく、それも道路から坂を下った海に開けた小さな平坦地に密集しているだけに、路上からは人の生活臭がするような雰囲気が皆無だ。
そして、戸田を過ぎて土肥までもまた同じような、海からは高度のある山襞を縫うようなくねった道が続く。

それよりも、対岸に見える淡く霞んだ静岡中部の低い山々の姿が、どこか古代の記憶を蘇らせるような古色蒼然とした大陸の雰囲気を感じさせ、その方にばかり気を取られる。
いつしか、タイムトリップしたように、古代のいでたちの自分が、かつて見ていたかのような風景のように思えて来る。
(自然の風景を前に、古代祭祀でも行っていたのであろうか?)

じっくり眺めたいと思いながらも、どこで車を停めたらと考える左脳的な思考がうまく働かなくなり、ぼーっとした至福感に包まれつつ、のろのろと車を走らせたままにしてしまう。
ようやくここというところで車を降りて、カメラを持ってぶらぶら歩く。

ここにいると、ただ海を眺めていたいだけになり、他の一切の想念が消え去るようだ。
よほど意識的に動作しないと、動くこともこの場にふさわしくない気がして来る。すべての能動的な動きがセーブされ、ただ、まさに座禅を組むように海に向かいたい気持ちになる。
左脳の思考が停止し、ぼーっとただそこにある感覚が、如何に幸福感に満たされた状態かを実感出来るようだ。
この時間の静止した、風がそよ吹き、陽光があたり、海鳴りが静かに下から上がって来る至福の場・・・。

人間の意識は、元来、こういう時間の枠から逸脱し、猥雑な思考からも解き放たれ、三次元世界にあって、そこよりさらに高次な世界とつながるような、そういう体感をどこかで求めていることもあるのではないか。
機会を求めて、その意識の天との導管が出来ることが、きっと自らの魂の落ち着きとバランスを取り戻すきっかけになるのではないか、そんな風にも思う。
人はそれを様々な方法で、無意識に追い求めているような気がするし、無数にある方法の、これもまたそのひとつなのかもしれない。

ただ、現実化するかどうかは別に、この場所にもし、“風景を見る禅”のためだけの、例えば何日か滞在出来る小さなタイニーハウスのようなものを持てたのなら、きっと、そこでの体験はとても有意義なものになる気がして、密かに夢想したりしてしまう。
そう言えば確か、その場の近くに、一軒だけ別荘のような建物があったはずだ。
まさか、こんな自分だけの特殊な感覚を、そのオーナーも持ってのここへの建築であるかどうかは知らないが、こんな周りに何もない土地に、ぽつんと隔絶された別荘を建てるほどの動機は、いったいどんなものなのだろう、と思いたくなる。
a0282620_14193811.jpg写真は撮って来なかったので、Google Map のストリートビューで見てみると、こんな建物だ。
ここまで立派なものでなくとも、トレーラーハウス仕様で、海側全面オーシャンビューのガラス窓から、如何なる天候のもとでも海を視界いっぱいに眺められるという建物があったら、どんなに素敵なことだろうか。
巷間からは遙かに隔絶し、ただそこに超然たる大海原が全面に広がる。その景観に包まれながら、端然と座を組み、そこに在ること・・・。

それほどのイメージを湧かせる場がここであり、試しに今度は、道路から隠れたわずかな平坦な場を見つけて、そこでシートを敷くか、折りたたみチェアーに座るかで、海と向き合って、意識下で時間を喪失しながら佇んでみたいと思っている。
ここに原生から生える樹木のように、断崖から大海原を見下ろして、静かに黙想してみたら、どんな感覚を得るのだろうか。
想像しただけでも至福感が満ちて来る・・・。


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▲まるで本土から離れた孤島からの風景のようだが、半島なのでつながっている土地だ。ただここは、半島の中でも、ましてや本土の中でも、他に二つとない唯一無二の場所だ。


by martin310 | 2017-01-09 14:21 | スピリチュアル | Comments(0)

あまりに艶めかしい空間に、その方は意識体として待っていられた。部屋に満ちる生気に包まれて・・・。


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それは、去年の6月のことだった。
ずっと気にはなっていたが、機が熟していなかったからか、それまで近くまでは行っても入場するまでには至らないでいた。それが、このとき行かねばという時を迎えて、漸く記念館へ足を踏み入れたのだ。

a0282620_14412581.jpgそこはポール・ラッシュ博士が“KEEP”の活動拠点にしていた「清泉寮」の生前の氏の執務室だった。
ポール・ラッシュ記念館の資料館からポール邸に入ると先にあるのは、異常に広い円形の堂宇のようなつくりの応接室がある。そこには全米や日本の支援者から贈られた様々な調度品や記念の品が飾られている。その余りの物の数の多さや色や形の多様な様子に、視覚的に騒然とした感に圧倒された後、隣のこの氏のオフィスへ目を転じたとき、何やら不思議な静粛さを感じた。
それと同時に、この氏が没してからすでに35年の時が経過している居室が、生前当時のそのままに見事に時が止まっているにしては、妙に艶めかしく感じたのに小さな戸惑いを感じた。艶めかしいというは、生めかしく、どこか生命が息をしている風に妙に生物的な気配が漂っていたのだ。
上の写真がそうであるように、光学的には何も特別なものは写ってはいないが、自分の視覚には、その範囲を超えた命を持った波動が空間に満ちているのがわかったのだ。

この場に立ったまま、思わず「生々しいな、この部屋」と独りごちた。ツレはどこがそうなのか、いっそうきょろきょろと見回していた。
次の瞬間、ぐっと胸の奥あたりから込上げるものが湧いて来ていた。それはまったく予期していなかった魂反応だ。
a0282620_2273414.jpgつまり、以前にも何度か経験していた、「感涙」→「嗚咽」→「号泣」という感情反応をしていく、自分の魂とそこに共振共鳴する相手の魂の波動による交感現象だ。(※このあたりの概要は、2014年6月24日のこの記事を参照されたい)

やがて溢れる涙でまともにあたりがよく見えなくなり、カメラを構えても像を結ばなかった。しばらく感慨のレベルがおさまるまで、そのままにさせていた。
その瞬間に、自分の意識の中に共鳴する相手の想いがわかるときがある。それを探るように、泣きながら感じ取っていた。(顕在意識は妙に冷めていて感情に動かされたものではないので、自己観察が可能なのだ。魂の共鳴現象は、波動的な様態変化なので感情の動静は通常は少ない)
自分が訪れるのを歓迎してくれていると同時に、何か晩年に抱いていた思いなのか、生前に担っていた責務の重苦のような辛さが同時にやって来ていた。そこには、伝えられる氏の輝かしい業績に満ちた生涯とは別に、故人の魂が抱いていた最も一個人としての正直な想いが篭っているものだ。


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アメリカ・インディアナ州生まれの氏がどうしてここまで、戦前、戦後にわたって日本の為に生涯を捧げる献身的な行動がとれたかに、一番の興味があった。しかも、なぜその地が清里だったのかも大いに気になるところだ。
後日買い求めた、山梨日日新聞社刊「清里の父 ポール・ラッシュ伝」には、唯一、氏の生涯が詳細にまとめられている。もちろん、そこにあるその理由は通例のもので一般の理解には当然のものだが、自分が求めるのはそういうものとは一線を画す魂の次元でのものだ。
このときの氏の魂からの想いと、氏の伝記を紐解いてみて、後々わかってきたのは、生前の氏自身も気づいていなかったであろう魂の類縁がこの地にあったからだということが、直観的に理解できてきた。魂の分霊の系譜からそう覆えるものだ。

a0282620_1442290.jpg年譜を見ればわかるとおり、氏の生涯の転機のステップアップぶりは尋常な跳躍ではない、人並み外れたものがある。しかも、本人はそれほど意図しているわけでもなく、上位者からの引き立てやまたは、懇願による熱烈な導かれ方をしている。次々に形成されていく人脈の豪華さには目を見張るものがあるが、当人は至って平然と惹起されて来ることに任せている風だ。
組織団体を発足、設立させたり、一大イベントを実施したり、組織を統率、教育したりするリーダーシップやオルガナイザーとしての手腕は類稀なものを持ち、構想から実現までの実践力やアイデア、意志の強靭さ、人々の導きなど、小さなアメリカ人から生み出される力は人々を魅了して止まなかったようだ。
ホテル経営を目指していた若者が、海を渡った魂の故国に奉仕する活動に生涯を捧げるように決意することとなるのも、まさに持って生まれた御魂の器の大きさがものを言っていることだろう。

そう、これだけの資質を持ち得て山梨の地へと骨を埋める決心をするようになるのは、まったく偶然に起きる気持ではない、何よりもそこに過去生があったからだ。つまり分化した魂を再び受け持ってその地に蘇って来たというべきだろう。
ポール・ラッシュという人の魂には、何を言おう、この地、すなわち甲斐の雄将、武田信玄の分け御魂があるからだ。このことは氏自身も生前知りもしなかったことだ。この日の件があってから、しばらくずっと氏の意識がそばにいるようだった。その中で氏にこのことを伝えたとき、かなり驚いていたようだった。そんなことがあることさえ、自分は知らなかったと・・・。分け御魂という仕組みについて、当時の氏が知る由もないはずだ。

ちなみに、信玄公の分け御魂はほかにもいるのを知っているだろうか。
一軍を率いて北へ向かって戦い散っていった、あの土方歳三もそうだ。
現代においては軍団のリーダー、あの石原裕次郎もそうだ。
魂の傾向として、ひとつのある共通項が見えて来るのがわかるだろう。
分霊、分け御魂というのはそういうものなのだ。
さらに言うならば、信玄公は頼朝公とともに、神代でいえば「天孫」と表わされる人物の同じく分け御魂である。霊脈というのは各時代に滔々と流れて存在し、様々な分霊を配しながら時代を形成しているのである。


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a0282620_14422664.jpgなぜかこの去年の6月頃、無性に訳もなく、八ヶ岳の山塊を背にした古い時代の風景が脳裡を離れなくなっていた。それがどの本の口絵写真を見たものか皆目わからず、ただ白黒写真の昭和の頃の風景イメージがずっと不可解な記憶としてあった。
それを知りたくて清里や野辺山付近のゆかりの人たちを探していたのだ。清泉寮もそのひとつで、行き着くところ、創始者のポール・ラッシュ氏はとても外せない人物だった。そして、この氏の歩く山の風景こそ、心惹かれるものだった。そして消失する以前の前期の清泉寮の古い建物にも、何か秘めたる情動を感じるところがある。
この懐かしい古きよき時代を憧憬する気持ちこそ、かつての意識の記憶の片鱗がどこかに潜在しているからなのだろう。それがポール・ラッシュ氏との結びつきを感じさせてくれたのだ。
by martin310 | 2015-02-02 14:45 | スピリチュアル

目に見えている世界以上に、目に見えない世界の変貌が劇的なようだ。2015年は顕現の年か?


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それにしても、気がつけば、この時空の闇のエネルギーの所在は、かつて最も酷いときから比べれば、格段に減少、減退し、もはや消失に近いほど一掃されたのではないかと思われるほどだ。

web上に挙がる世界的な動向からも垣間見られるが、特に自分の見渡せる周囲をよくよく観察するなら、それがもっともリアルに身近な現実感を伴って確信できる。
特に顕著なのは、自分が接する人々の言動や感情の動きや傾向、情緒や意識状態を省察していると、何かある意味、まるで憑きものがとれたように爽快にニュートラルになっているのがわかる。
もちろん本来のものはそのままだが、かつてはまったくわからないうちに意識介入され、知らないうちに自分ではないものに必要以上に煽られ、異常なほど感情を露にしたり、無軌道で無思慮な行動に急き立てられたりしていたものから解放されてきているのではないだろうか。

かつての闇の見えない手口というのは、カルマとして魂に残留している部分に侵入して、拡大、増強し、無意識を操縦してカルマの嵐のままに動かすようなコントロールを各人に施していた訳だが、それらが見事に外されたのではないだろうか。
これは自分との過去生からの因縁を深く持っている相手ほど、その変貌ぶりが顕著にわかるはずだ。闇のエネルギーは、この個々人の意識の深層、魂を覆うカルマ溜りを標的にして、その闇が闇である分離意識を最大限利用して操作を仕出かしていたのだが、その箍(たが)が外され、見えない次元からの操りが消失したようだ。
以前は、目の前で意識の中に闇が入った瞬間を目撃し、その為に自分が攻撃の矛先に向けれらたことも多々あったし、まったく見知らぬ人を使って妨害の駒として操作して来ることもあった。それはあらゆる手で意識を媒介に攻め立てて来ることが頻繁にあったものだが、おそらく2010年頃のピークを境に徐々に下降して、今年1年のあいだに劇的な闇の解除、敗退が起こったのではないかと感知できる。

地球上から闇の撤退は捗々しく完了しつつあるのではないか。もっとも、目の前の自国の状況は一見して、その真逆のように見えるのは致し方ないが、見えない次元での構造は以前とはまったく違った形に転換されているように思うのだ。

地上の各ポイントに張り巡らせてあった闇の地上局、闇波動の発信基地は、調査して巡った範囲では、既に機能不全というか、もう存在していた形跡以外には感じられなくなったほどだ。
今年、霊山があるエリアでの噴火や地震がいくつかあったが、それもおそらく地上基地の重要ポイントの破壊であったようにも思える。ひとつには、修験道の聖地にはほとんどこの闇の地上基地がその裏に築かれていたものだ。その最大規模のものが破壊されたと思っている。

闇エネルギーの供給ルートというのは、簡単に言えば、地球外宇宙→地上基地→下部地上局→人の無意識内という具合に、ネットワークが組まれていた訳だ。
この地球支配ネットが解除されたことは、過去数万年、それ以上の支配体制の崩壊を意味し、このあとはまったく今までとは異なる世界が現出することになることは、理屈の上からも理解できるだろう。

人の意識に残っているのは、もともとのオリジナルの魂の抱く業(ごう)と、この闇の支配下にあった時代のカルマの集積だろうが、おそらくそれらを解除させずに覆い尽くし、まるでバリアーの中に閉じ込めていた闇の力が消失したのだから、以前よりはかなり容易に気づきによって解消できる状態にあるのではないかとも思う。
もっとも、それも元来が闇意識の性向を持った魂のその人は、その意識さえ持たないかもしれないが、光の強度によっては魂の苦しみから気づきがもたらされる可能性はあるだろう。

国内の時勢の推移を眺めているだけでは、最悪の階段を転げ落ちていくように見えてしまいがちだが、その裏ではまったく別の驚異的な世界の進捗が進んでいるようだ。時空の波動状況もまた、案外それに似て、まるでエアーポケットに入ったように空虚な感じが続いていたが、ここに来て急激にその実情を知らせるように、意識に何ものかが起き出したように感じるので、今これを記しておこうと思ったのだが・・・。

グレゴリオ暦の妥当性には異論が多いが、一応それに沿った年の境目が近づいていることで、宇宙も一様にこの2015年への移行期に何ものかを放っているのだろうか?


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by martin310 | 2014-12-24 10:40 | スピリチュアル

「9歳、宇宙のしくみを語る」 ~運命っていうのは、自分のこと、自分がすることがわかっているんだ。~


YouTube でたまたま発見した9歳の子が語る宇宙のこと。
3分あまりの短い動画だが、宇宙や人生についてかなり深いことを語っているので、ここに取り上げておこう。
いわゆるクリスタル・チルドレンという、かなり進化した意識を持つ魂としてこの地球にやって来ている存在だが、語り方を見ていると、高次なスピリットからそのままダイレクトに分化した魂のようで、子供のわずかな地球での経験からでない既知の叡智をそのまま語っているような凄さがある。地球への転生の意味とスタートラインが、既に我々とは違った役割を持ってやって来ているのを示しているのがわかる。
地球の進化は、既に緊急発動の時を迎えている証左ではないだろうか。


「9歳、宇宙のしくみを語る」
https://www.youtube.com/watch?v=0elS0Y5x_vU

「地球人のためのスピリチュアル・レッスン」より
http://VastStillness.com


 (文字起こし)
僕たちは地球にいる。この地球はたくさんある銀河の中のほんの一つの惑星にすぎないんだ。言ってみれば僕たちは、この庭にいるアリと一緒なんだ。アリは、この庭の外の世界なんて知らないでただ歩き続けているよね。他にもいろんな世界があって、自分たちがその一部なんだってこともわかってないんだ。人間も同じようなものだよ。外の世界がわかった時、初めて、自分たちが巨大な銀河のほんの一部に過ぎないことがわかる。


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a0282620_1382777.jpg僕が思うには、この宇宙にはさまざまな種類の生命体が存在している。細胞や有機物、目に見えない存在もいるし、発見されていない存在たちもいる、僕たちが行くことのできないところにもいる。彼らは僕たちと同じような考え方をするかもしれないし、違うかもしれない。いつか彼らを発見するかもしれない。でも、今のところわからないということだよ。捜し求めれば必ず見つかるってもんでもないんだ。その確証はない。つまり、自分が何を探しているのかも知らないで永遠に探し続けているのと変わらない、ということだよ。


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そうだね、実際たくさんの宇宙があるかも知れないし単なる空想かもしれない。簡単に答えることはできないね。だって、宇宙に何かあるって証拠は何にもないじゃないか。証明できるのは、自分自身だけじゃないかな。それと、宇宙の中で自分がいる場所、それだけは確かなこと。僕たちは理論は作れるけど。真実はわからないんだよ。


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これは一番難しい質問だね。僕が思うには、人生の意味というのは自分次第で、どんな人生を自分は生きたいのかだと思うんだ。他人がどうしろとか、どうこう言えるもんじゃないと思うんだ。自分で決めるしかないんだ。自分のことは自分しか決められないんだよ。かりに、ほとんどの人に反対されたとしても、それが完全に無理だってことはないんだよ。


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a0282620_1384135.jpg僕たちの人生は、たぶん運命づけられているんじゃないかな。だけど、その運命は変えることが出来る。(そうなんだ~でも、知れてよかったよ)僕の言ってることは間違ってるかもしれないけど、人生はある程度のことは決められている。ドラマみたいにシナリオがあって、僕たちは自分で知らず知らずのうちにその役通りに行動しているんじゃないかな。だとしてもだよ、運命っていうのは、自分がすでにわかっていることを教えてくれるものなんじゃないかな。運命っていうのは、自分のこと、自分がすることがわかっているんだ。これもまた僕が間違っているかもしれないけど、運命が僕たちすべてを支配しているんじゃないかな。



そう確かに、人生のおおよそのシナリオは既にあって、そこに登場する自分にとって大いに人生の道行きをいい意味でも、そうでない意味でも左右する人物や物事は、絶妙のタイミングで配置されている。まさに芝居やドラマの各幕切れがあるように、いくつかのセクションに分かれていて、各シーンが相互に連関し合い、時系列による体験の積み重ねによる意識の進化、魂の生長を促すように仕組まれている。

彼の言うように、「運命」はそれを熟知していて、魂の学ぶべくものを現実体験を使って得られるようにと、当人の無意識を介して物事の選択を促しているのだろう。だから人生の岐路に遭遇したとき、二者択一の選択の理由は理屈でない、どうしてもそちらに自然と傾いているのだ。無意識は既に知っているので、すんなり選ぶ方は決まる。ただ、左脳思考はそれをあれこれと理由づけする必要からこねくり回すのだが。

運命と魂とは、ある意味パラレルな関係性を持っている。魂は求める道にそぐわないところを本人の表面意識が停滞していると、重苦しい不満足感で様々な心的現象を起こす。そして、本人の魂と切り離された表面意識に危急を知らせるのだ。
運命はさらにそれより高い位置と、長い時間枠で全体を俯瞰し、魂の望む道行きをサポートする。大いなる人生の青写真をもとに、各所の詳細については自由意志に基づいた柔軟性を与え、人生のテーマを生涯を使ってまっとうできるように、常に大いなる意識で導いているといえよう。

と、これまで実人生上での経験知からこんな考えを持つようになったが、9才の彼はその歳でそんなことを語っているだけに、既に我々のやって来たことを既に終了し、それを糧に新たな役割を果たす運命を持ってやって来たのだろう。
彼のこれからの人生は、我々を次ぐ未来なのかもしれない。
(Martin)
by martin310 | 2014-11-19 13:06 | スピリチュアル

白州の田園地帯で見たもの。近い未来(開放された世界)が空からそこに降っていた。


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四尾連湖を後にして、市川大門まで山を下り、甲府市内へ入った。いつもは国道20号、つまり甲州街道を北上して八ヶ岳山麓へ近づくのだが、できるだけ見飽きた風景を避けようと、それと平行に南アルプスの裾を走る田舎道を、例によってのろのろと行き、やがて武川から白州の奥まった地帯へ足を踏み入れた。

白州は八ヶ岳と向き合う南アルプス山塊のすぐ裾に位置している地で、尾白川の流れを中心に裾野に広がる丘陵の田園地帯だ。
今まで八ヶ岳側の山麓を常に目当てに出掛けて来ていて、ついぞそれと向き合う形の武川や白州の地には、これも一度も入ったことがなかった。

a0282620_20425457.jpg大武川に沿って緩い傾斜を登って行くと、一般の民家に混じって、別荘風の垢抜けた建物が点在し出した。そうか、今まで八ヶ岳山麓にしか目が行っていなかったが、こちらの南アルプスの裾野エリアにもログハウス系の建物がよく似合う地があったのかと思った。おそらく、一時静かなブームだった頃があったのだろう、やや築年数の過ぎた避暑用の家屋が川沿いの道に見てとれる。
また、それと対照をなすように、古くからの農家の集落が寄り固まっている場所もある。新旧の趣を持った建物が混在しているような田園地帯だ。


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脇道に誘われて広大にひろがる田圃の一本道に出た。大空の下、うす青く聳える黒戸山や甲斐駒ケ岳を背景に、左右の棚田の中央を真っ直ぐに伸びる道の先には、赤いログハウスが印象的に見えていた。
あまりの気持ちのいい光景に、思わず車を停めて外に出た。

なんだろう?この場は。
他のところとはまったく違うエネルギーに満ちている。
それが何から来るのか、しばしあたりを見回す。
確かに空間の広がりはアルプスを背景にして、この周囲を見える光景以上に大空がいっそう開放的なものにしている。そこに真っ直ぐの道が、遠近法的にも距離を伸ばし、ズームアウトされた奥のログ群の大きさもそれに輪をかけているようだ。だが、そんな視覚的なものだけではない気もする。
左手にある大屋根のログも、その雰囲気を盛り立てているように思えた。天窓が並び、チムニーが屋根を飾り、サイドの白樺やバックの青い山々がいっそうこの住居をロハスなものに見せている。

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この場のエネルギーは、どうやらこの建物を目にしたときから、その中心はこれだという確信がやって来た。
今、目前にしているが、そこに存在する以上の何かが目にしている光景から出ている。そのあたりだけ時空が異なることがわかる。

ただ、その時点ではその理由がわかった訳ではなかった。
確かに魅力的な光景ではあったが、それほど特別なものでもなく、決して生活臭がない完全にリゾート的にリファインされたものでもなく、えてして高原の景勝地にはありそうな景色でもあり、それがなぜ、こんなにも時空の異なる世界を醸し出すのかは、その後ずっと考え続けてやっと理解出来たものだった。


a0282620_2043184.jpg漸くわかったそれは、視覚を超えた感覚で受け取ったもので、おそらく、今を基準に言えば、来るべき次なる時代の時空波動に包まれていたというものだ。つまり、天からそこにだけタイムワープしたように、ピンスポットで差し込んだ光のように、未来のエネルギーが降りていたというものだ。
それをもっと分解するなら、この今の制限され、抑圧され、拘束された不自由な世界から、「彼ら」の支配力のマトリックスから開放された後の世界の持つ波動を先んじて示されたようなものだ。
それをこの場に建つログ風の住居に与え見せられたもので、つまりは今まで、そして今でも、ずっと否が応でも味わい続けて来ている現在のようなあらゆる縛りから解き放たれ、経済やエネルギーや時間や法や、労働や食や健康や老いや意識などを覆う限界を高じられた仕掛けから開放され自由を得た暮らし、そういうものを垣間見せてくれた波動であった。
その世界では、人は本当に自分の望む暮らしが愉しめ、自然の大きな懐のうちで、自分の顕在意識と魂との経路が結ばれ、ハイヤーセルフを通して本源意識とのつながりも回復し、物資的生活からより光的な次元の暮らしぶりが主となるような、かなりアセンドした世界を得るようになる。それをこの場に降り来ることによって感じさせられたのが、その意味だったようだ。

それは、はからずも自分がずっと志向していた次なる理想の世界の光景なのかもしれない。それをこの白州の田園地帯で気づかされたということだろう。
その来るべき世界は、まんざらそう遠くにあるものでもない気もする。この生きているうちに経験しなければ、逆に来世に期さなければならなくなるものだからだ。そう長くはならないだろうし、そんな兆しも世界の情勢の一部には既に見えはじめているのではないだろうか。


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by martin310 | 2014-10-08 20:46 | スピリチュアル

A WAKEN!! 心身を浄化して覚醒の光で目を醒まさそう! 脳と意識に高原の緑が染み入る。


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これが八ヶ岳山麓の標高1400mを超えた高地のエネルギーである。
晴々とした爽快な空と大気と光とが、いっそう輝かしい生気を聖なる山々に降り注いでいる。

a0282620_22571666.jpg八ヶ岳高原の“美鈴池”まで登ればもうそこは1600mを優に超過する山岳域だ。
地場に帯同する波動の周波数も、天に限りなく近い高次な精妙さと、神聖なる霊妙さを秘めた高密度なものに変わる。
明らかにこの領域では、人間界の無規範に混濁した低次な波動帯域とはまったく一線を画した天上的なエネルギーに満ち満ちている。
自然界の聖なる力が、人間の放出する残留波動を解消させ昇華し、そのパワーバランスは完全に自然界が圧倒的に凌駕している。人の生み出すオーラフィールドは、この大自然の前に実にちっぽけな霞にもあたらない。

人の意識が集合して覆う、グレイッシュな我欲をもとにした分離と混乱に満ちた低迷したエネルギーは、はからずもここまでは対流して来ない。それは固有の周波数が低い分、標高の低い低地の人口の密集した領域に封印されたように停滞する。
人々は地形の窪んだ、都市のつくりやすい平たい地域で、その利便性によって密集し凝縮して緊張し、混淆し惑乱するなかで命をすり減らすようにして生きている。

a0282620_22544979.jpgだからときに、こんな優れて大自然の氣の充満する場にその身を置いて、本然と地球の息吹と共に呼吸したいと身体と意識が求めるのだ。
あたかも細胞のひとつひとつが、氣の活性に触れて、本然の性を取り戻そうと、本能的に自然回帰の方途を求めようとするかのように。

意識は限りなく解放され、まるで環境汚染のように次々と絶え間なく想起されて来る野放図で無思慮な想念の澱は、ことごとくこの緑の刺激の中で息絶え、静寂と沈静のうちに意識の深度を持ちながら現前する自然との対峙が許されてゆく。

呼吸ははじめて、ここに来て深い息に変わり、新鮮この上ない酸素を取り入れて生きていることを意識する。心地よい湿り気と温度とを持った大気の微粒子に中に、命を活性する宇宙からのプラーナを存分に細胞に受け、清新な肉体と意識との高度な均衡が保たれた後には、例えようもない至福の時間の誘導の中に居るのだ。いや、そこには俄かに時間が消える。ただ、確実に「今」に存在する我(われ)だけが在る。


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気づき、感じれば、自然はこれほどの全身全霊なる改新作用をもたらす力を有している。五感を研ぎ澄ませたその先には、次元を超えた超感覚知覚が起動し、言語を超えた何か?も意識に投影されて来ることもある。
頭脳と意識の冴えは、このような清冽なエネルギー作用に身をさらすことで内蔵されたコードが光化し、新たな流露がはじまることもあり得ることだ。Wake up call はいつでも天が用意している。

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この美しい高周波世界と、地平に蔓延する汚辱と欺瞞と権謀と支配と強欲と暴力の血生臭い世界とを敢えて対比させよう。
人間界の波動は、もはや標高を上げて人の気配のないエリアまで退避せずばその汚染領域を出ることはかなわない。「俗」の侵略する膨張力は開発地域を次々に拡大する。人間の数と意識の質が反自然の不調和な波動を増殖させていく。都市化の名を借りたグレイッシュなアトモスフィアは地平を厚く覆い、さらなる低次波動を蔓延させる如く侵略を続けるのだ。

a0282620_22533643.jpgいったい何に踊らされているのだろうか?
何を目指しているというのだろうか?
どこへ行こうと操作されているのか、気づいているのだろうか?
そして、思考を捨てて誰に任せてそれについて行こうとするのか?
誰がどんなことで誘導しているのか、自覚的にいるのだろうか?
地球も意識も脳も、ハイジャックされていることにどれほどの人が気づけるのであろうか?

A WAKEN!!
by martin310 | 2014-08-17 23:00 | スピリチュアル

盛夏の光、野に満ちて。蔭りの影は翳るとき。


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この輝かしい夏空を見ていると、あまりにまばゆい陽光の強烈な光に、あらゆる事物がその持ちうる色素のレベルを振り切るような乱反射を網膜に焼きつけて来るようで、今更ながら、太陽という星の偉大なる力を思わざるをえない。

普段あたりまえ過ぎて、考えることもまったくないことだが、これほどの地球を照らし出す光源は、唯一、太陽という恒星をおいてないわけで、こんな地球上の一角の地平線を巡るすべての領域を隈なく照らし出している事実にあらためて気づくのだ。それだけではない、自転する地球の太陽に向いた日照面すべてに光を投げかけ、さらにそれだけに留まらず、太陽系の全域を遙かに超えるほどの光量を大宇宙へ放っている。

こんなぎらぎらする灼熱の太陽のもとで、もし、この光の一切がなかったとしたら、いったいこの世界はどんなものになるにかと思ってみる。
そう想像するには、夜の光景がすべての時間に亘ると思えば簡単だ。
いったいそんなところで、人口の光だけに頼って生きる生活を実際出来るものなのだろうか?
もちろん、地球の両極に近いエリアでは、白夜なるものは日常のものであろうが、それでも光の訪れがあるから生きられる。それすらない、永遠の闇夜が生きる場だったらとすると・・・。

そう思ってみるだけでも、太陽のありがたさは格別なものに感ずる。
緑濃く、山は青く、空はオゾンに青がかり、白い雲はそらの高層まで盛り上がる。
この地上の生き物すべては、この光の恩恵を得て生を全うできるのだ。


a0282620_13365914.jpg真夏の光とは、これほど眩瞑するほど光度のレンジが高いものだったろうか。
確かに、輝度のあまりに高い光は明と暗の落差を激しく照らし出す。
陰翳濃く、コントラスト差を分けていく。
明暗の際立ちは、いっそう激しく光の強さを確証する。
だが、それは単に光の強さだけにとどまらない。
この夏の光は、肉眼で見る光と共に、霊眼で見る光の量が数段高い。

これはことによると、ある特定の人の意識や魂に作用するような「光」も同時に内包されているのではないか。
空間に遍満する“氣”としての「光」を見つめれば、その尋常でない事態がわかるだろう。これは物理科学では捉えられない光子だ。
このエネルギーの活性は、少なからず人々の意識の閉塞に何らかの光明を与える性質のもので、旧来の封印され低迷した波動レベルから一途の望みとしての霊光を注ぎ入れる可能性の扉を開けるものかもしれない。

夏の光をそうやってマージナルな視線で亡羊と感じていると、この今が何事もなくいつもの夏のようであるなかで、地上へもたらされている知る人ぞ知る何かが降り注いでいる特別の時なのかもしれない。


光は強ければ強いほど明と暗を激しく切り分ける。
だが、気がつけば、暗部の蔭りであっても相対的には明るいのだ。
暗く目に出来ない闇をそこに隠しているわけではない。
もはや隠そうにも、隠しておけない明るみにそれはすでに引き出されているのだ。
だからつまり、「陰謀」が陰の存在でなくなってしまうことを意味する。
隠せば隠すほどに、明るい陽光のもとに晒されることになる。
今まで見えないでいたものが、誰の目にも目に出来てしまう。
あからさまな陰謀はもはや陰謀の意味を失い、それはただの暴虐でしかない。
馬鹿ばかしいほど手のうちが見えてしまえば、まわりのすべてからターゲットになる。
隠しておおせておけたときが華だったという日が来るようにと、光の船団は真夏の光のなかで世に満ちるのかもしれない。


夏の光の美しさや!、と感嘆する。


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by martin310 | 2014-08-05 13:38 | スピリチュアル

幻日あらわる!・・・空がにぎわしく華やかな日。(空の覆いが開いたような夢幻的な波動が降りる)


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朝から大気が驚くほど澄んで、折からの夏の光のヴォルテージがMAXになったようなハイコンディションな今日、夕にかかる全天でも、雲と光が織り成す一大ページェントが繰り広げられていた。

家への帰路、車中のウインド越しに、空のにぎやかしい感じはときどき垣間見ることでわかっていたが、それ以上に、その空が影響してか、何となく宇宙的な波動域に、脳から意識にかかり包まれていくのがわかった。
こういった四次元の波動が降って来るように、静かなうちに茫漠とした感じに脳内が電磁気を帯びたように不可思議な感覚になるのは、いつぞや感じたことがあるのを思い出していた。

気がつくと、しばらく思い出すこともなかった以前見たあるヴィジョンの光景が脳裡に浮かんでいた。
それは10年以上前、夢か幻か、はたまた錯覚かまやかしに見せられたのかはわからずとも、半覚醒的ななかでかなり明瞭な映像として見たものだった。
おそらく、どこか次元世界の違うところから、この地球に降下するような場面のようだった。降りるというのは、次元波動の上下のことで、おそらくもっと進化した二元性を当に超え出た世界から、その真っ最中の抗争の嵐の吹き荒れた平和からはほど遠い世界への降下を意味しているようだった。つまり、この地球への流入の直前の別世界での最後のシーンだ。

なぜに今、そんなものが脳裡に映じて来たのだろうか?
おそらく、この今日の空がそれを物語るように、新たな幕が開き宇宙からの光が降りたのか、それによって、脳内のフィラメントが電磁波で一瞬輝くようにイメージが映じたのかとも思える。
いずれにせよ、このことは、10年越しの何かを再度彷彿とさせる意味があったのかもしれないように、ある肝に銘じるものを感じ取ることになったようである。


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▲今日の“幻日”。

そうこうして家に辿り着いてみると、西の空の光景は一瞬の隙も見逃せないほど、ドラマチックなものとなっていった。すかさず、カメラを取って展望の開ける場所へ足早に移動しながら、この今日の空を画像におさめた。

するとどうだろう、雲間の太陽の輝きのほかに、もう一点、その右に離れた箇所に光の点がある。
そうだ、以前にも目撃し、カメラにおさめたこともあるあの“幻日(げんじつ)”があらわれたのだ。(画像の左の光の輝きが太陽。右端にある小さな輝きが二つ目の太陽の“幻日”だ)


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▲2年前の“幻日”

ちょうどほぼ2年前の2012年9月26日の同時刻にも、もっとはっきりとした“幻日”を撮っている。それがこの↑画像だ。当時は、“幻日”自体を知らず、ただのある偶然の雲の反射と思っていた。後で調べて稀に出現する“幻日”であることを知った。

確かに、科学的な出現の仕組みはわかるが、そうやすやすと目撃できるものではないだけに、出現の意味を考えざるを得ない。
とすると、前述した空の新たな幕開きのような、それを祝福でもするかのような現象とつい考えたくもなるものだ。
例えどうであろうと、自分にとっては今日の過去に見たヴィジョンの再来は、きっと意味あることのように思う。おそらく、これも新たな段階に移行するサインと見て取れるのも不思議なことではない。

そう思いながら、富士の神々しい姿を眺めるのである。


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by martin310 | 2014-08-02 23:05 | スピリチュアル

魂の多面体を繋ぎ合わすこと、・・・それが分霊の統合ということ。(まったく地道な自己探求の道)


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自分が分けた御魂の分子を継いでいると思わしき、過去の人物の何人かを追っていくと、当然そのゆかりの地を巡る必要が出て来る。関連した建物やそれに類した遺物、跡地や散策したであろう道や、そこから眺められる風景など、かつてその人物が眼と心に刻んだであろうなにがしかの痕跡を求めて、旅に誘われることになる。
そうして、地図を頼りに行くべき場所のポイントを調べていると、前回の八ヶ岳山麓もそうだったが、今回も3人の時代の異なる人物のゆかりの地が、なんと浅間山麓の国道沿いに、ほぼ一直線で並んでいるのに気がついた。
それもかなり近接しているのだ。AからBへは約6km、BからCとのあいだはなんと1.5kmしか離れていない。それがほぼ西から東に地図に水平に並んでいるという、なんとも不思議な取り合わせになっているのを知った。

前回は八ヶ岳山麓の二ヶ所だったが、そのときも同じ地名の土地で、距離はせいぜい3キロほどしか離れていなかった。しかも、この地に当の人物たちが入ったのはまったくの同時期という不思議な組み合わせだった。
今回の3人は、今に知った人物ではなく、自分が文学や芸術に興味を持ち始めた頃からずっと注目していた人たちである。特に二十代のはじめにはかなり入れ込んでいたかもしれない、自分にとっては深く長く意識に影響を持って来た人物であり、それぞれ遺された作品群がある。
以前には個別には各々のその地へ立ち寄ってもいたのだが、その頃とはまた一段とその地を巡る意義が異なってきたのと、この今、なぜその3人がクローズアップされているのか、というのが自分の中での大いなる興味のもとになっていることから、これからが本格的な探索の旅となる。

そのうちのひとりについては、人物と作品本位で、ゆかりの地自体、今までまったく思い至ったことがなかった。作品的に創作の場を知ろうという要素がほとんどなかったのと、生涯の詳細を調べてみようという機運もあまり起きなかったからだ。だが、前回の八ヶ岳山麓の体験から、その土地や、居室が残っていればその部屋に入るだけで、当人の魂とじかに感応することがわかってきたので、今までとは違い、出来るだけ当人の生きてこの世のあったときの残像が残っているような雰囲気の場に立つことが、自分にとっては重要なことに思われたのだ。
事実、そう思ってそんな話をツレとしていると、もう、身近に当人の意識が来ているのを感じ、胸騒ぎと鳥肌が立って、呼んでいるのがわかるのだ。
生前には映像ではその姿は見ていたが、亡くなったときのニュースを知っていたのかどうかさえ、自分の記憶にはないほど、かなり雲の上の遠い存在だと思っていた。
だが、いつしかこれら青年期に、自分自身が相当に熱中、耽溺したように心酔した人物は、大抵が分けた御魂の分子があるのを知ったことから、今回俄かにこのような道行になったものだ。

ではいったい、そのような場に出向いて何になるのかということだが、もちろん、ここに至るまでのプロセスも大事な要因になるが、まずは出向く以前に、当の人物を詳しく知ることが、自分自身との比較対照の中で共通しているところ、まったく異なるところ、感性や感覚的な要素の似通ったところ、人生全体の中での変転の様子など、魂の因子のどの要素を多く引き継いでいるのかなどの考察を通じて、より自分を知るということにつながると思っている。
それをもとに現地に入ると、ここからは前段階の知的な視野から、一気に霊的な領域に受信するものがシフトしてゆく。ここからはまったくの未知なる波動のエリアだ。自分の頭で考えるようなことではない、魂と魂同士の共感共鳴現象が起こってくるのだ。自分の意識はただ、起こることに身を預け、客観して観察をしていることになる。大概は魂同士が触れ合うと、一時合体したような抱擁感に包まれ、至福のときを共有する。つまりは、体の現象としては号泣になり、嗚咽になり、叫泣になる場合もありうる。波がピークに達すると下降がはじまり、収束が近づいていく。

そのあいだに、号泣している自分とは別の、もうひとりの観察者としての自分の顕在意識は、いったいどういうことを伝えてきているのかを、共鳴中のなかで冷静に解析している。案外、言葉に変換するのならこういうことだというのが訪れる。そうやって言語を超えた波動による感受を行うことになる。

自分の魂の、他者のそれを寄せ集めた分子を体感するのは、この瞬間をおいて他にない貴重な体験だ。このことはある意味、自分の魂の断片と再会するように、無数の多面体でできた魂の細分化を、この行為によって統合しているのかもしれない。まるでミラーボールの細かな鏡の一面一面をつなぎ合わせて、本来の光を放つ球体を回復させているのだろうか。
だからといって、急激に人格が進化する訳でもなく、才能が開花する訳でもなく、超人的力量がつくわけでも何でもなく、ただ、意識の諸段階がわずかずつ変化していくような気がするだけにすぎない。
何かをもたらすのを期待するのではなく、ただ単に、成り行き上、そう導かれると思えるのでそこへ向かう、というのが自分の現実だ。


こんなことを書いているのは、おそらく誰もいないだろう。
こんな体験を通して人生の日々を重ねているのも、ほぼ希少だろう。
それに如何ほどの価値があるのかを実感しているのも、きっと皆無に近いことだろう。
だが、これが自分に与えられた天啓なのかもしれないと、ただ人知れず密やかに行動しているのだ。
無名であることが探求の自由をもたらすというのは本当で、誰にも事の詳細を知られずに行えるのが、なによりの自然な行動をサポートしてくれる。


このようなページに行き当たったあなたも稀少だが、記している内容に共鳴する何かを感じるものがあるのもまた、そこへ至ったものこそが、天の導きであることを感じるべきかもしれない。
魂の断片は神の手によってばらまかれているはずだ。
それらが天の光を受けて起動する時代が訪れることを予期してのことだ。
おそらく、そんな時代が近づきつつあるのかもしれない。
何より、闇の妨害の魔の手が去った今、漸くこのようなことが開示できる時空になったことで、この記事がある、そう思えるのだ。


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by martin310 | 2014-07-28 13:47 | スピリチュアル

意識の向かう方位の壊乱・・密やかに混沌の中へ


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ここのところの向かうところ散漫に思える自分の意識の矛先を、敢えて訝りながら振り返ってみた。

確かに充分気力、活力、探究心、集中力・・・は賭けるだけのものはあったはずだ。向かう先も焦点があっていた。だが、いざ逸る気持ちの裡に手掛けようとすると、すぐさま別のものが色を増して来て、その方が今に沿う気がしてくる。そうやって、またしても別のものの方がマッチしているように思えて、ターゲットを変える。
こんなに刹那的に興味の対象が逸れたように動くような自分だっただろうか?ときの意識の波長の合うものがセンサーに触れるのをよしとして、その方向を決めるのはいつものこと。だが、今はこの向いているスパンが余りに短すぎて、自分が追い切れないほど矛先が落ち着かない。

いったい、これは何に起因しているのかと、よく意識の小さな動きを観察してみていた。なぜにこれほど短いサイクルで、興味の波長域が変化して、それまでのものが一瞬にして色褪せて見えてしまうのか、その意識内部の現象を引き起こす原因を見つけ出したいと思ったのだ。

ネット上の情報、書物、映像、音楽・・・、様々なアイテムを移動しながら、意識の反応を見ていった。するとどうやら、相対的にみて、現在の自分がその反映を影響として受ける時空の波動状態の不安定感に原因があるように思えてきたのだ。
どうも表立っては明確に対立軸は見えないのだが、時空の細密な四次元域では、相反する二元的なせめぎ合いが著しく擾乱を起こしているように思える。

つまりは、大きくいって光と闇の拮抗が、闇の収縮によって今までの図式から大きく崩れ始め、その崩壊からのエネルギーバランスの混乱が不安定で見定めがつかないカオスを生じているように、その反映として意識も焦点が定まらず、あれこれと無駄に方向を行き来して収集がつかない状況を起こしているように思えるのだ。
だから、相反する要素どうしの掛け合いから、それが多方面に入り乱れている状況を生む。新旧の潜在意識の記憶からの牽引、現実的要素と創造的世界の混濁、知の拡充と感性的琢磨の相反など、一刻も落ち着くとこなく次から次と題目が挿げ替えられる。手を着けようにもこれでという定着感がない。なので考えるだけで何も進まず、進まない手応えのなさが焦慮を生んで来るという、おかしな悪循環。

どうもそれが、今の時空のエネルギー状態のように思えて仕方がない。混沌が静かだけに、それが注目されずに進行する。わからないだけにカオスの程度も測られない。明確な方向性が出ずに、全体がぼやけた冴えない空気に苛まれる。
これが時代の過渡期のミニ版の典型なのかもしれないが、それにしても自分的にはひどく持て余し気味で力の発露が見い出せないだけに深刻な気分に陥る。


このことに関連していることなのか、ひとつ気になっていることがある。
このところ山道を幾度か走った。別段不思議ではなく、今の季節、森を求めて山域に分け入るのはいつものことだ。
だがその中で、二度、まったく地域は異なる山深いところで、まるでその森の主のような“鷲”に出くわした。威厳溢れる、ネイティブのシャーマンの長老にような風格ある鷲にすぐ至近距離で出遭った。
今もその二羽の鷲の風貌を思うと、あまりの存在感に居住まいを正す心持ちになる。すでに老齢ながら、あらゆる生きて在ることを経験し、すべてを知り尽くしたような闊達な聖者のような威厳が溢れていた。
短い期間にまったく離れた別の場所で二羽の鷲に遭ったというのは、あるようでなかなかないことだ。しかも、その二羽ともが同じようにシャーマニックな偉大な存在感を持っていた。

ネイティブがイーグルを敬う気持ちがよくわかった。
ひれ伏したいほど、気高い威光を放っていた。

※イーグル
空高く飛ぶワシは、物事を全体的にとらえ、判断を下すことができるとされている。
インディアンの世界では、一番空高くに飛ぶことのできる生物であることから 神に一番近い存在と言われ、人間の願いを神に届ける役割があると言われる。

そう確かに、あの二羽の鷲は、何かを言いに来たようだった。
胸の奥にその重みだけが今もある。
あの崇高な存在意識は、だたの偶然などという軽薄なものではない。
すべてを知っている者が、何事かを伝えんとして姿をあらわした。
そうとしか思えない・・・。

何かが変わるのだろうか?
何が起ころうというのだろうか?


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by martin310 | 2014-07-26 23:09 | スピリチュアル