伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
最新の記事
5月の庭より ~せっかく咲い..
at 2017-05-22 13:41
YouTube動画「八ヶ岳で..
at 2017-05-19 14:35
八ヶ岳キャンプ2017 @八..
at 2017-05-16 11:18
八ヶ岳キャンプ2017 @八..
at 2017-05-15 13:49
八ヶ岳キャンプ2017 @八..
at 2017-05-13 21:06
[DIY] キャンプ用収納ボ..
at 2017-05-09 11:14
新緑の候、My Garden..
at 2017-05-08 13:48
[DIY] ウォータージャグ..
at 2017-05-06 10:13
[DIY] キャンプ用収納ボ..
at 2017-05-05 14:09
[DIY] キャンプ用収納ボ..
at 2017-05-01 14:06
画像一覧
カテゴリ
全体
*D.I.Y
∟18mの土留め柵
∟DIYインテリア
∟ガーデンハウス
∟ガーデンフェンス
∟ウッドデッキ
∟Tool Shed
∟キャンプ系 DIY
ログハウス
キャビン
*キャンプ
∟奥大井・八木C(3)
∟かじかの里公園C(3)
∟秋葉神社前C(4)
∟朝霧ジャンボリーC(2)
∟西湖自由C(3)
∟道志の森C(7)
∟田貫湖C(1)
∟駒出池C(6)
∟デイキャンプ(6)
車中泊の旅
ガーデニング
田舎暮らし
サイクリング
八ヶ岳ポタリング
おすすめショップ
カフェ&レストラン
BOOK&CD
風景探勝
とっておきの伊豆
とっておき八ヶ岳
スピリチュアル
日々の思索ノート
アート
文学
音楽
オーディオ
映画
オリジナル動画
YouTube
vimeo
お気楽メモ帳
社会問題
時代の真相
秘史探求
その他
「食」の問題
選挙関連
TPP関連
原発関連
UFO関連
以前の記事
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
ブログジャンル
twitterで更新情報がわかります。
ブログランキング
検索
記事ランキング


カテゴリ:日々の思索ノート( 34 )

ふと立ち止まってみることも・・・、ときにはあるものです。


a0282620_22204049.jpg


考えてみると、このブログを始めてからすでに4年の月日が経過している。既に5年目の半ばに差し掛かっているとは、ふだんあまり気にせず、淡々と生活の一部として身についてしまっているだけに、特に意識することもないのだろう。

ときに、あれはいつ頃だったろう?、とか、いつから今のようになったのだろう?とか、記憶を脳裡であれこれ追ってみるよりも、ブログ記事で確かめた方が余程早く、正確な場合が多い。
特に記事内容が、その時点での暮らしや思いや趣味志向をすべて露わにしているわけではないが、およそ自分が見れば、当時のその記事を書いた状況的、心的バックグラウンドがすぐさま甦って来るもので、いわば、生きた個人記録、ひとつには表には顕れてはいないが、心の内を反映しているものでもある。

a0282620_22212087.jpg


また、記す内容がいつしかたわいのないものに変化しているのも、そこには自分だけがわかる内なる意識の変化の経緯がないわけでもないのだ。
それだけに、その時点、時期の、自分にとってのブログの位置というものも、自ずと変化、変遷しつつ、表面には何ともなく同じような内容の羅列に見えても、実は相対する、撮ること、そして書くこと、記すことは趣が変わってもいる。
いわば、それがブログという形式が、限りなく小さく、広大な世界からはまるで針の穴から外へと出せる自由と可能性だけを享受できる窓とでも言おうか、それが何かになるとも、ならぬとも、意味があるともないとも、どうにでも自分の解釈、対し方で変化するような、摩訶不思議なツールであるのかもしれない。

そうして、自分にとっての唯一のこじんまりとしたアウトプットでも、あるとき自分が他のサイトの一文、一画像で刺激や感銘や影響を受けたことのあるように、また、どこかで人知れずそういう誰かが、ひとつのヒントのようなものを受け取る可能性だってないわけではないと、そう思うことで、独り言の無意味さの罠から抜け出られるありがたみを持てているのかもしれない。

a0282620_22213355.jpg


そしてなにより、こんな写真などを、こまめに撮っておこうなどというのは、およそブログに載せる材料にでもしないのなら、まずはカメラさえも、滅多に手に取ることなくいるだろうし、結局、撮りためる意味さえも失って、暮らしの記録さえも蔑ろにしてしまうこと請け合いだ。

なので善かれ悪しかれ、こうやって続けていることは、それがまったく無いという日々の生き方よりは多分に、そのときどきの暮らしの記録に、ある彩りを与えているだろうことは、記事を書くことに向かう自分の、それが例えわずかずつではあっても、感性への永続的な磨きを与えている行為になっていると、自負できることなのかもしれない。
そういう遅々とした歩みは、これからも同様に進んで行くのだろう。記すことを止めない限りは。

a0282620_22214686.jpg



by martin310 | 2016-12-15 22:22 | 日々の思索ノート | Comments(0)

午睡から醒めたうつつの中で、今あることの意味を思う。西陽射す午後の部屋にて。


a0282620_14302932.jpg


西が開けた山麓の傾斜地に建っている我が家では、午後になると陽が妻壁部分のフィックス窓から射すようになり、リビングは次第にことのほか暖かくなる。
それによってまばゆい光の束が、部屋の中のそこここを移動しながら照らし出すのも、午後のまどろみの時間帯に限られた光景だ。

明るい西陽のスポットライトが、奥のログ壁のドライフラワーを照らしたり、普段キャビネットの中であまり目立たない帆船の模型をハイコントラストで際立たせたり、壁に掛かった自作の絵画の青い画面を印象的に浮き立たせたりと、時間の経過とともに午後の室内の光の演出を受け持っているようだ。

うたた寝から瞼を開けると、また光の束が位置を変えている。あたりの照度が落ちて、光の色がオレンジを帯びて来たら、そろそろ夕を意識しなければならなくなる。それは、のんびりとした午睡の終わりを告げるものであり、また、ゆったりと出来た自由から、貴重な休日の時間の口惜しさに心情が変化して来る頃でもある。

未だまどろんだ浅い夢から醒めたばかりの頭の中で、陽光の傾きというものが、太陽が空を渡っていくからのように見えるが、実際はこちら地球に乗っている方が動いているんだと、亡羊とした脳裡で言い聞かせてみたりしている。
さらに思考が動き出すと、いや、その惑星を従えた太陽は、銀河の中をまたさらにスパイラルに巡っているのだとも思い返しはじめる。太陽系が秒速何千マイルの速さで銀河の内部を高速で移動しているという、ナシーム・ハラメインの言説を思い起こしているのだ。
今こうやって静寂の中で午後のひとときを西陽の翳りの中に見ている自分が、そのような宇宙の一角に置かれていることを想像したりもするのだ。

壮大な宇宙での天体の運行と、太陽が先導する惑星群、その中の地球、その地上で行われている人間の良しも悪しきも様々な営み。時代状況。今という現実・・・。
いったい我々の乗る地球の航海はどこへ向かうというのだろう。太陽に吹く大風に委ねざるを得ない一艘の帆船のように、それは寄る辺なく心もとなくもあり、また、大いなる意志による風の向きを与えられているのでもある、そういう未開の地への旅でもあるのだろうと、ログ壁に映ずるオレンジに輝度を放つ光を見つめるのである。

巡礼する天体とともに、時代も事象も思惟も意識でさえも、巡りめぐって旅をしていく・・・。



※【参考】
   当ブログ 『★わたしたちは太陽系とともに宇宙を巡礼している★ [ナシーム・ハラメイン]』


a0282620_14332783.jpg



a0282620_1433984.jpg



a0282620_14334226.jpg

by martin310 | 2015-01-16 14:36 | 日々の思索ノート

このまま何もなく過ぎ行くこともあるまいと、先端情報から鑑みてわかろうというものだ。


a0282620_1023383.jpg


最近ふと気がつくと、普段考えるのが嫌で常に避けているような、実に三次元の現実的な今後のお金の問題などに想念が支配されているときがある。あれっ、どこからそんな考えたくないことを考えることになったか、最初の思いつきが何だったかも思い出せないことがある。

とはいえ、考え及んでは、行き着く先は皆目見渡せない濃い霧に覆われた未来に過ぎない結果になるのだが、それも、今のこれ以上ない酷い政権のもとでのこの先を考えるのは、どう見積もっても確定的な安心できるレベルの経済設計ができるわけがない。
それにも増して、世界の動向から考えても、まったく今までの流れに沿って未来を見るのは、まったくナンセンスで意味あることにはならないことは容易に想像できる。

何しろ今後、そう遠くない現実として、今の経済世界が一端は崩壊することは避けられない状況にあるのは素人目にも明らかだ。お金とエネルギー、情報、食糧、資源、法体系、軍事力・・・、でこの世界を支配してきたいわゆる目に見えるフォース(force)としての力を行使して覇権を握って世界制覇してきたシステムが瓦解して、それに替わる新たなものが勃興しない限り、表の社会システムは大改変できないのはわかるだろうし、もう既にその変革の兆候はあちこちで見受けられ、もはや時期的には、ぼろぼろと崩壊の岩が崩れ落ちている状況にあるようだ。
いくら偽装に偽装を重ねた“堰”で持たせようとしても、もう亀裂は全体に及び、いつトリガーになるものが起きるかで、大崩壊の瞬間はもう時間の猶予がないような感じだ。

そう、どうもそんなことから、このお金の問題の発想も、自分の暮らし自体にも危機意識を持って望めという無意識からの警告のように思った次第だ。
そんな意識でいるところ、ネットの情報でも次々とそんな内容に沿ったものが出て来ている。これはまさに、そのとき近しという現象のあらわれだろうと思える。

※これは数ある情報のなかでも、上記の件では的を得たものであるように思えたもの。
 既にご存知かとも思うが参考までに。
 ● http://golden-tamatama.com/blog-entry-1756.html
 ● http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51948107.html
 ● http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51948092.html
 ● http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-c100.html
 ● http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-15d4.html
 ● http://mizu8882.blog.fc2.com/blog-entry-249.html/

いわゆる「イベント」と呼ばれる大きなシフトの事象も、この一点に同調し、同じことを意味しているのだろう。これを人類が超えない限り、その次のステージへの以降はままならないということだろう。
これは人の意識構造や身体機能にも充分関わることで、今まで相当な圧力で抑圧されてきたマトリックスの呪縛からの解放につながることでもあるだろう。

具体的にはまず金融崩壊がやって来るのだろう。
銀行閉鎖からすべての金融機能が停止するのだから、あらゆるライフシステムに損傷が生じることになる。
生活の維持に必要なものを確保し備える必要がある。
我が家でもそれを念頭に、備蓄を開始しようと思っている。もちろん、預金封鎖もありえる銀行からは影響を最小限に留めるようにして、食糧や燃料など、最低でも3週間のあいだは生き延びれるように計画しようと思う。
不確定な予想であろうが、どうも2~3月中にはありえるようだ。

こういうときこそ、ほぼ1年前から身体を慣らしてきた「少食」の実践がものをいう。極僅かな食糧でも何の問題もなく生きれる身体にしてきたことが、このイベントの最中でも安心して食糧不足に耐えられる自信があるのは幸運だった。
案外、直感的に選んできたものが、無意味ではなく、あらかじめ用意されてきたものであった気もするほど、時の流れに必要性の高いことだったようにも思えるのだ。
時期も定かではなく、事も妄想かもしれないものの、起きてからスタートするには遅いだけに、先んじて準備をしておくことは必要だろう。今後の世界の動向には、今まで以上に警戒を要する時節となったことは確かだ。


a0282620_1025681.jpg

by martin310 | 2015-01-07 10:12 | 日々の思索ノート

既知のもの、既存のもの、旧来のものが後ずさりしていく。まったく異なる世界から何かがもたらされるのか?


a0282620_11291991.jpg


新しい年に際して、今年の内外の動向などの見通しや、はたまた予言に近いようなものなどをどうも気になって探す傾向にあるのが、この年頭の通例のようだが、そうやって諸々の最先端情報らしきものをweb上から覗いてみても、今までの流れから規定路線的でそれほど驚きに値するものがある訳でもないようだ。
というよりも、自分の意識の向く先を精査していくと、どうも何かが違うようで、既存の情報にそれほどの興味を持てないでいる現実がある。それがなぜなのかずっと考えてもいるのだが、なかなか意識と思考のあいだには隔たりがあるようで、こうだ、という理解に至っていない。
だが何度も反芻してみて感じるのは、どうも既存のもの――それは思想や価値感や世界観やパラダイムやなにやらすべてを含む、いわゆる既にこの世界に在るものについて、今の自分の意識が同調して知りたい欲求を喚起させる対象にならないということだ。

a0282620_11304910.jpgもっともある範囲のことを広く浅く情報として取り入れているというだけで、この世界のことのすべてに亘る理解を得ている訳では毛頭ないが、大抵ものは概略こういうことだろうという既成概念が出来すぎてしまっているきらいからなのか、どれもこれも旧来のものとしてひとくくりにしてしまう傾向がある。
だから過去の時代を解き明かすような内容の本を、一時は衝動的に買い集めて読破しようと意気込んではいたものの、いつからかデスクに積み上げておくだけで遂には頁をめくることなく、既に本棚に収納してしまっている有様だ。
web上の情報も同様、これは目は通すがそれ以上の探求をしようという気がなく、これもあれも目新しいもののようには思えず、同じカテゴリーのうちの情報量が増加しただけに思えてしまうのだ。

ではいったい、自分の意識は何を待っているのだろうか?と考える毎日で、ここに来て少し解ってきたのは、どうも今までとはまったく世界や次元の異なる「知」というものを求めているような気がするということのようだ。
この世界にある既存の知は、例えどんな広範囲で機知に富んだものであってもそれは旧来の知としてひとくくりになっている。この先にやって来るものは、それとは地盤や存在感を異にするまったく異質のものであって、つまりはそこに確実な時代の断絶があるような、いわばこの惑星地球にはなかったもの、他の星の常識のようなものがそれであるような気がしてならない。
過去の地球上で育まれた我々の脳の認識を超えるもの、それすらも改変せざるを得ないような超越的なものが、これからもたらされるのかもしれない。

もちろん、それが当たっているのかどうかは皆目わからないが、ひとつには、自分自身の意識がそのレベルのものでない限り、今や興味の対象にならないほど、既存のものに倦怠しているという事実がある。
過去の人類史における宇宙の闇勢力の構図というものが、ある程度解き明かされて来た今日、ここから先を見つめていくならば、地球の次なるステージの予感を感じていくのも、あながち不自然ではない気がする。
それも思考がそう言っているのでもなく、意識の奥で何かを察知しているからそうなることのようだ。だが未だ、極々微量な信号しかない。そう易々と与えられるものでもなく、すべては自分が気づく以外にないのだ。
チャネラーのようにまとまって言語化された情報など受け取る要素はないので、ただ極少の微妙微細な意識の反応を探っているだけに過ぎないのだが・・・。


a0282620_11302929.jpg

by martin310 | 2015-01-03 11:37 | 日々の思索ノート

謹賀新年。年のはじめに寄せて。“Martin Island ~空と森と水と~”


a0282620_10364342.jpg


謹賀新年。

今年も今までどおり、どうにか細々と何事か記していくつもりです。
ほとんど情報的価値がない自分事の思いつきを言葉にしていくことで、そのときどきの自分の位置を見極めることや、常に変転する時空の動きの中での、「今」という波動を形に記していくことを主な目的として、何かになることもない、時代と意識のひとつの記録のようなものをやっていこうとしているのかもしれません。

写真を撮ったり、文章らしきものを書いたり、それを編集したりという行為には、原理的にどうしても自分というものが何をそのときの本位にしているかを探ることが必要になります。
最もそのときの旬の自分の意識が合致することごとでなければ、アウトプットに至らない、意識と行為の波動原理があります。なので、日々、そのときどきに思い起こされる様々な思考から、これというものを取り出して形あるものにしていくことが、自分をそこに定着させていくアンカーのようなものになるのでしょう。

実は常にどこで終わりにしようかと逡巡する毎日なのですが、決定的に終了を告げるようなレベルまでヴォリュームアップしていないことから、何とか保ち得ているような具合ですが、上記のようなことをまた思い返せば、自分にとっても案外大事な創造行為のような気もして、もう少し自らに課してみることも必要とも思うところです。

しかも、時は時代の大きく揺り戻されるような大変革期を迎えているようなこともあり、この期に際して、観察、省察するなか、無言でいられる自分なのか、と問うこともあり、唯一の外界へ向けての間口を失くしてしまうことはないなと判断しています。

時代の先を越して見据えていく情報に注力する意識を持つのは、決して自分だけではなく、他に多くの人たちが存在するでしょう。そんな方々であるならば、きっと共有できる内容にもしかしたら行き当ることもあるかもしれません。
例えば、・・・自然の素晴しさに惹かれて野山を散策していて、ふと気がつくと森の中に瀟洒な山小屋がある。そこでしばし一休みして、何事か自分の内なるものに触れる・・・。そんな森の中の一服サイトにできたらいいなと、心境的に今はそう思うのです。

今年もどうぞよろしく。


a0282620_1037462.jpg
▲元旦の朝の富士。(定番の、我が家の2階のデッキからの富士の眺めより)
by martin310 | 2015-01-01 10:43 | 日々の思索ノート

いったい何のために、どこへ向かわされて行くのか? 窓越しの初冬の風景を眺めながら思う。


a0282620_795915.jpg


上空に今年一番の強い寒気団が入り込んで来て、晴天のもと、厳しい冷たさの風が吹いているのを、普段、なかなかそこに居座って眺めることのない2階のロフトの窓から外の風景を眺めてみる。
遥か50キロ先の山並みまで広がる平野をバックに、隣地に自生したまま放置されている木々の葉が風に揺れるのをぼーっと見つめるのだ。大方の紅葉が終わった葉が風にちぎれてわずかに枝に残るのみとなり、いっそうその姿が寒風の厳しさに絶えるように見え、初冬のなんとも言えない侘しさのようなものを感じる候となった。

a0282620_711068.jpg我が家では2階といっても、三角屋根の室内空間の片側に床を設けロフトにしただけの、部屋というよりも全体の吹き抜けの一部になった空間のことを言うのだが、それでも屋根の傾斜で天井が低くなるのをドーマーとして持ち上げて高くしている分、屋根裏部屋としては随分広く見える。
1階からの最大天井高は5.5mあるので、その底になる床で暖房を焚いても、熱気はほぼロフトの方へ昇ってしまう。なので冬の日は、そのロフトに居た方がぽかぽかで居心地がいいのだが、寝室としているそこにはなかなか長居することがない。

北に開いたドーマーの窓からは、右に箱根の外輪山の山頂、左に富士山がまるまる見える。特に空気の澄む冬の寒い日にはいっそうくっきりと眺められる。
周辺の森も未だ秋の色を残し、明るい陽光に色が映えるので、この時期は山並みの藍色や大空の淡いブルーと相まって、美しい色合いの窓越しになる。
休みの日になれば、そんな光景をほかに求めて出掛けてしまい勝ちだが、あまりに寒くて出掛ける気が失せていたこの日、あらためて自室の窓からの風景をじっくり眺めて見ることにした。
もともと一人掛けのスツールが、外の景色を眺めるように配置してある。珍しくそこに座って色の組み合わせの美しい今の風景を窓越しに眺めた。
案外、灯台もと暗しで、美しく好ましい風景はそこにあった。


a0282620_7102881.jpg



a0282620_7103990.jpg


忙しく日々時間に追われ過ごしている中では、こんなにのんびり窓の風景を眺めるようなこともなく終わっている。ましてや、自宅の窓からなど見ても何かのついでの一瞬である。
外があまりに冷たい風が通り過ぎているだけに、家の内側にいるありがたさの中で、風に揺れる木々の動きに豊かな時を感じるものだ。
そして風景そのものを眺める中で、やがてそれにあいまみえる相対化した事々を思うものだ・・・。

脳裡には自ずと、窓越しに見える幸福な世界とは裏腹の過酷な現実イメージが対照的に浮かんで来る。
ひとつには、視界の前面を覆う人工物で溢れる都市景観であり、それと相似形のような情報の波が行き交う電脳空間であり、マネーや法のシステムの閉鎖系の中に絡め取られるように蠢く無数の人の群れのようなイメージがやって来る。
自然の美しいのどかな風景とはまったく異なる、人間がこの地上に生み出した近代という虚像のような人工世界だ。
いったい我々はこの地球という大地の上で、何をしようとどこに向かって生きているというのだろう?
それすらも立ち止まって考えることなく、ただ日々をいいように送っているだけではないのか?
目にする風景が豊かであるだけに、逆にそんな漠然とした疑問が湧いてくるものだ。

ネット上の情報ツールを開ければ、いくらでも今現在の世の中の問題が数限りなく溢れ出て来る。どれもこれも不誠実で欺瞞に満ち、不条理で節操のない事柄ばかりでいささか愛想が尽きるものだ。だが、ほじくっていけばいくほど不甲斐なく暗澹たる思いに陥っていくばかりのことだが、つい深みに嵌って行くのもまた自分の問題意識からだろか。

いつしか陽が西に傾き、黄金色に照らされる面と、そうでない森の影がいっそう深くなって来た。
鳥の群れが円になって空を自在に移動している。
この平穏で平和な時が、いったいこれからどうなっていくのだろうか?
こんなありがたい今があるだけでいいのに、それをそのままにしない動きをもたらすことを望む力にもぎ取られていくのだろうか?余りに馬鹿げた世界ではないか。

明るい昼が午後3時ともなると、どんどん日陰って夕に近づいていく。そうだ、冬至までもうわずかだ、昼の短さは際立っていくはず。
気がつけば、もう西の空には黄昏が迫っている。


a0282620_7104976.jpg

by martin310 | 2014-12-07 07:12 | 日々の思索ノート

自然界の寒波と人間界の寒波が吹き荒れる今。ここに在りながら、外と内を見つめていくこと・・・。


a0282620_11382435.jpg


12月に入って襲来した寒波によって、急激に大気が冷やされ、それまで晩秋の名残の秋色が一気に初冬の趣に変わっていく。
止むことなく吹き荒れていた季節風に、すっかり我が家の庭先のコナラの大木も裸木になり、線画のシルエットが青空に映えている。

爽快に晴れ渡った陽光に誘われて庭に出てカメラを向けるが、あまりに刺すように冷たい風にほうほうの体で部屋の中に逃げ帰って来るありさまだ。
夏の終わりからすっかり庭の整理も怠ったまま、そのうちにと思いつつ、動きやすい秋の快適な期間を順繰りに後回しにするうち、遂に外仕事を拒む冬の様相に至っては、さらに怠け癖が逃げ道をつくってしまうようだ。


a0282620_11404999.jpgもっともこの年末の時期、時勢も突如冬の嵐に見舞われて、まったくもってまた暗鬱極まりない情勢の推移に、精神性を根こそぎぎにされそうなほど、暗澹たる嫌な風が吹きすさんでいるようだ。
まったくもって、逆境に耐え得る精神修養を味わされているいるように、情報の窓を覗けば神経を逆撫でするようなものばかりが並んでいる。よくもまあここまで酷いものになったかと、救いのない状況がまた酷く精神を蝕んでいくようだ。
落ちたそこから如何に自分の心持ちを引き上げて行けるかが、精神安定の為の訓練と化しているような毎日でもある。現状だけを見ている分には、もう先行きが最悪の方向しか頭に浮かばなくなるほど、知れば知るほど落ちた国に成り下がっている。
もはや、裏で操る勢力のその上の支配層の雲行きの如何にしか、成り行きに変化が出る要素は期待出来そうにないほど、現状の城攻めは完璧なほどだ。周りを海に囲まれた巨大な堀の中に篭城するように隔離された我々の運命も、宗主国の意のままにある。
何も知らず、知ろうとせずに、このままの平穏が続くと思い込めば楽なものなのだろうが、そう能天気にいられない人間ほど、下手によからぬ世界を妄想しがちにならざるを得ない。

a0282620_1141772.jpgだが、この流れのままアジェンダどおりに世界が推移していくには、無理からぬ要素も多々伝えられているだけに、以前の闇の隆盛を誇っていた世界とは別のシナリオが書かれはじめているのかもしれない。一見、最悪のような奔流の只中に巻き込まれているようにしか見えないものの、そこに想定外のことが勃興して来る可能性も高いはずだ。
だがどちらにしても、そう安易な虚構のような現実で済むわけもなく、それ相応の強い現実感に意識が揺さぶられることも余儀なくされるだろう。未来は見えないだけに、今を生きる意味がある・・・。とも思うのだが、この先の不透明感の中に、不穏な胸騒ぎは止むことがない。


そんな混濁した人間界の事情とは裏腹に、自然はただあるがままに美しい姿を大空と大地のあいだに繰り広げている。天体の巡航どおりに季節の移り変わりをリズムよく刻み、生々流転、千変万化させている。
何気ない我が家の庭からの数辺のカットのうちに、大自然と人間の営みの実態を見る。ここに在りながら、外と内を見つめていくこと・・・、それ以外に意味や意義はないのだろう。


a0282620_11384982.jpg


a0282620_1139064.jpg



a0282620_1139720.jpg

by martin310 | 2014-12-05 11:45 | 日々の思索ノート

夕日を見る眼と心の静まり。来るべき時に只静かに黙想するように居る。


a0282620_22255683.jpg


よく晴れた日の夕暮れは、西の空のクライマックスがやって来る。

何度もやって来る夕焼けだが、同じような日没は決してない。常にその日、その時、空の状況で如何様にも変わる。
茜色に染まる日もあれば、思ったほど鮮やかにはならずに暮れ落ちる日もある。日中の晴天ぶりから、つい色鮮やかな夕焼けを期待するが、案外そのとおりでないことが多い。
雲の反映もこの黄昏時のイベントに大きく影響する。陽の落ち去った後の残照が雲に当たったときも、絵も言われぬ美しさを見せるときがある。雲の位置と形、ディテール・・・、美が生み出される要素は複雑多様だ。

西の海に面した土地に建ったお蔭で、これほど夕焼けを愉しめる家もない。午後の室内はゆっくり西日に暖められて、陽が沈んでもほかほかしている。部屋のログ壁に黄金色の強い光が映じているときもあり、壁面に掛けた写真額のマットが色焼けするほどだ。
建物の前面が強い西日に晒されるので、外壁の塗装の傷みが早いのも運の尽きだが、夕日に照らされオレンジ色に輝く我が家を見るのも、自分の塗ったパインイエローの色の相性の具合に悦に入る瞬間でもある。夕日の赤みがオレンジから黄金にまで見せるときもある。

この地へ来て早5年目となった。
こんな場所で今のような、こんなつつましやかな暮らしをするとは、それ以前では考えもしなかった。人生のある動的なポイントでは、一気にあらゆるものが急激に動くものだ。
思い返せば、今のこれほど平静な落ち着いた暮らしぶりが出来るのは、それら約10年ほどの人生の流れのうちの巨大な波の過ぎ去った後だからとつくづく思う。あらゆるものの噴出が一気に起こり、動乱の中で過去の時代の清算をするのであろう。それは自分の生み出す力学ではない、ある運命のシナリオがあり、それに沿って天が必要な擾乱を起こし、その経験を与えるのであろう。
旧い時代というものは、そのように個人レベルでの人生の流れでも起こり得るもので、時代状況すべてにわたって新たな幕開けがあるというのも、実感として理解出来る気がする。
今やそういう意味でも、逆に何もないまっさらな地点から、次なる時代を生きるという、新たな意識の地点に立っているのかもしれないが、それにしても年代的にも経験知的にも、若き頃のような情熱も興奮も持ち合わせてはいない。いかにも只静寂なままの放埓さがあるだけのような気もする。

黄昏を眺める如くに、眼は澄んで、心は静粛そのもののようだ。


a0282620_22261575.jpg



a0282620_22262358.jpg



a0282620_2226319.jpg

by martin310 | 2014-11-24 22:27 | 日々の思索ノート

光は色を呼び込み、色はそのうちに光に霊妙不可思議な新たな次元の要素を抱き込んでいる。


a0282620_13565029.jpg


ことのほか空をよく眺める。
外に出ればまず空だ。
空はひとつの時空の窓だ。
モニタから世界を眺めるように、
それらの情報の裏づけを確かめるように
宇宙のWindowを見つめる。

確かにこの大空でさえ、「彼ら」には痛く傷つけられた。
空に毒性スプレーを撒く。空にプラズマで穴を開ける。
空の反射板を使って地面を揺り動かす。
空を熱して気候を激変させる。
とかく空は激しい戦場の場だった。

だが、外宇宙からも太陽からもやって来るものは常に空からだ。
人が空を仰ぎ、天を崇めるのも、皆空からの来訪、降臨だからだ。


a0282620_1358599.jpg


また夜毎見る夢実が盛んだ。
少し低調な日もあるが、また復活するときもある。
宇宙天気ニュースをチェックすると、そのつどフレアの規模と同調するのがわかる。(第24活動周期のピークにさしっかっているようだ)
太陽から送られて来る新たな活性エネルギーは、深夜のスクリーンにまたたくアストラルな映像を上演させて来る。
その鑑賞者であり、主役でもある自分は、演じながら客席にもついている。意味深な場面に遠い日を回顧したり、そのときに気づけていなかったことをも気づかせてくれる、実に霊妙な映像のリバイバルを観る。

a0282620_1359934.jpg


世界では、いくつかの情報によれば、今まで人知れず自在に歴史を作り続けて来た一団の敗北が濃厚になった兆しが見られるようになったようだ。
歴史とは自然界の動きがそうであるように、有機的で不可逆的で不可抗力の勝る生き物のようなものだと思い込まされて来たが、明澄で冷徹な光源に明らかに照らし出された末に解ったのは、常に一握りの集団によって、またそれらを見えない次元で動かす者らによって、見事に予定通りに仕向けられ、作られて来たことが明らかになった。
それら今まで遠大なあいだ、見事に計画通り実行されて来たことが、今やこのときになって予測に反して劇的に破綻の憂き目をみるようになったようだ。
そんな地球の場の大転換が、多くの住人にはまったく見て取れぬあいだに、すみやかに進行している裏には、おそらく膨大な規模の掃討作戦が展開されているに違いない。それらの詳細が表に出て来るのは、事が完了してからの先のことになるであろうが、時期同じくして、空を眺めたり、自然の場を見つめたたりする中で、結果として何かが変わっていることに気づくこともある。
それはあまりに繊細で微妙で、霊妙不可思議なもので、感覚に神験があらわれたように時に極微なセンスで呼び起こされることがある。

この外光に照らし出された世界を見ていると、その光のすべてが太陽であることをも普段は忘れて意識さえしていないのだが、事物や風景を通して眼に入って来る光の微粒子のうちに、何か今までの光の要素とは違う、さらに純度の高い色彩の極微粒子が含まれていることに気づくのだ。
光の波動にさらに高次元的要素が追加されたような、プラズマチックな光子の実在。
だから、あまりに自然界の色という色の純度の高さが違うように見えるのだ。大気そのもののピュアな質が桁違いに異なる。今までの鈍重な光の成分とは格段に違う高純度の波動が付随している。

またそれらの光は、同時に降り注ぐ全領域に、穏やかで平静なしめやかなエネルギーを帯電させているようだ。どっしりと平和的で、均整のとれた調和度の高い波動を降り立たせている。
これは過去の「分離」を誘発し、争闘的な不調和を促す波動傾向とは本質的に対極にある本来の宇宙の融合性を持ったエネルギーだ。
過去には何度もこの流れを天は降らせる機会を生んで来ただろうが、漸く静かなうちに定着するレベルに達して来つつあるようだ。
もちろん、まだまだこの先、「分離」を受け継いだ過去の流れはそれ相応に続くだろうが、総体としては人知れず極微の世界でシフトを果たしているように感ずる。(このことは争うことや、争うのを見ることに違和感と馬鹿ばかしさを覚える感覚を伴うこととなり、それは時空の波動との乖離が生み出す現象なのがわかるはずだ)
やがて両極が混在する混沌の中から、次第にこのシフトを具体化する事象も数多く出て来るようになることだろうが、それまでカオスの只中にあって、事の成り行きとその貴重なプロセスを体験のうちから学ぼうではないか。人類の解放の時代を生きるチャンスはまたとない。


a0282620_13573199.jpg



a0282620_13572281.jpg



a0282620_13574085.jpg


※写真は、山梨県の丹波山村の丹波渓谷にて撮影。
by martin310 | 2014-11-06 14:05 | 日々の思索ノート

風景の中に波動を読み取りに行く。地上に降り注ぎ、自然界に帯電したなにものかの記号を探すのが旅だ。


a0282620_21573049.jpg


秋の透き通った大気に、緑と黄金の光が明澄に反映する。空は抜けるように限りなく晴朗に広がる。

気温が下降し、ぴーんと張り詰めたような空気の澄み具合に、静かに感性の糸も反応する。自然の溢れる只中に身を探り入れるように置いてみたい衝動にかられ、また山塊の聳える奥地にまで足を踏み入れる。

もともと風景から何かを感じ取ろうとする性向は若年の頃からの傾向としてあった。だから絵画的世界への志向も青年期にはあって、それなりの道にも進んではみたものの、どうも一元的に既成の創作的スタイルに沿っていることが出来ず、あれもこれもと別の要素にも手を染めた挙句、そのひとつもものにはならず、形も成さずに趣味嗜好に毛が生えたくらいにしかならずに来たのが今である。

何にもならないものを追い求める・・・。
ただ、内なる求めに従って歩む。
たとえそれが形にならずとも。

今はそれでも、充分意義があるように思うことが出来るようにもなったが、器用貧乏の外道志向には、世の中に通用するような形あるものが生み出せない要素が多い。なにせありきたりのものに追随していくことが元来嫌いでは、既存のフォーマットに則り、それを生かして人の中に出て行こうとすることすら望もうともしない。
ましてはへたに注目されるようなことをしようにも、すぐに消費され、使い捨てされる運命であることも重々承知の上、同じことに密度と覇気を持って食い下がるように進もうとするのは、最も興味の湧かないものでしかない。

良く言えば境界なくクロスオーバーなのか、枠に入らないアバンギャルドなのか、まあ、そんなものにすら値しない“辺境のさすらい”なのか。どちらにしても、カテゴリーや目次にはいっさい並ばないフリーエリアの住人でありたいものだ。というより、どこにも属せない範疇外が居場所なのだろう。

そんなことは自然の中へ行く旅の目的もまた同じだ。
観光でもなく、癒しの旅でもなく、写真撮影がメインでもなく、およそよくわからないであろう風景からの波動を読み取りに行くのがその本望なのかもしれない。
だからといって、チャネリングやリーディングのようなメッセージ化できる類の文脈でもなく、何か有益な教えを与えられるわけでもなく、それはおよそ形を成さない波動的スピリットのようなものだ。言語化してみるにはあまりに翻訳的形体を持たないもので、もし文章化できるとしたら、相当量の文節によりエッセイ的、詩的なものになるのだろう。
それも同時に、時勢的な裏事情の流れをおおよそ知ってのもので、その前提条件の上に、さらに非文字情報的なものだ。webでよく目にするNEWS的情報の性質はいっさい持っていない。まさに非三次元的で言語化の困難な、エネルギーや思いや予兆のような、超感覚的知覚のみが反応する領域のものだ。

そんな形にならないものを、出来るだけ封じ込んで表そうとするものに写真がある。その日、その時、その瞬間、その場で、そのアングルでなければ存在しない、天と自分が結ばれた刹那の波動を封じ込んだ共時的しろもの・・・、それをできる限りパッキングしたものとして像を結ぶもの。
太陽がもたらす七色の反射光が織り成す無限なる射影物の世界。さらにそれに乗じて、可視光域を超えた多次元的光子を含有した超越情報の世界がひろがっている。

それを掴もうと格闘するなかで、いつしか意識に織り込んで来る新たな世界。
もはや地上の既存なる世界が対象の影が薄くなった今日、求める活性を促してくれるものは、そういうもの以外にはない。

見えている場で、見えているもの以上のものを見ること。
未だ見えていないものを見ようとすること。
意識と意志を行使し、感覚域を超え出ることを目指すのは、新たな時代、新たな世界の出現の兆候を得ることかもしれない。

次なる時代の予感めいたざわめきが聞こえる。


a0282620_21575130.jpg



a0282620_2158198.jpg



a0282620_2158912.jpg


※写真は、山梨県の増富から瑞牆山(みずがきやま)山麓近郊にて撮影。
by martin310 | 2014-11-04 22:02 | 日々の思索ノート