伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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カテゴリ:風景探勝( 47 )

湖のほとりで・・・思いつくままに。~風景と共にあること。~


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ぬくぬくと暖かい車内から、移り行く風景を眺めているのとは打って変わって、実際に真冬の湖畔に降り立ってみれば、区切られた車窓から見えていた景色が、身体全体で感じる寒気とともに現場の臨場感に圧倒されるように迫って来る。
きーんと研ぎ澄まされたような大気が動き、さわさわと風が起こる。
厚着をして膨れた身体でも、はっきりと風の存在を感じ、頬を冷たく撫でる風に何か記憶の糸を弾かれたように、過去のどこかで感じたときの感覚が蘇って来るようだ。

冬の鋭角的な太陽の光が、湖畔の風景に濃い陰影をつくり、深い明暗のコントラストの中に、大気の透明さの最たるものを明らかにさせる。

耳をよぎる風音に、打ち寄せる小さなさざ波のかすかな音が一瞬遮られ、すぐまた元に戻ると、そのときはすでに波が止んでいたりする。
あまりに弱い波は、水の面の膨らみを失い、平滑で透明な湖面に溶けていく。

辺りは静寂が占めていく・・・。
広大な湖面の上に、風の動きをあらわすように微細な波の欠片が増えていく。
その一つひとつには、深い蒼を取り込んだ空が映っている。



この神秘なほど静まりかえった湖水の風景の中で、目に入るすべてのものがいきいきと生きている。
そこにあるべき姿で美を醸し出しながら、それぞれが命の輝きを見せている。
意識は実に晴れやかに、そして活気を得ながら、その風景と共にある。
そして、そんな至福の時を享受しながら、脳内ではこの風景の美として成り立つ構造なぞを探っていたりする。
何も理屈はいらないはずとしても、左脳の働きはそんなときでも遊ぶことを知らない。

亡羊と眺め、そこに在ることにすべてを任せる。
取り巻くすべてと時を共有し、例え短い時だとしても、それを越えた言葉にならない大いなるものの中に居るようだ。

自然と同化する悦びは、形などいらず、ただ意識を開いてそこに在ることを欲することから得られるのではないだろうか。
自然もまた、ただそうやって存在していることに、自らの意識が納得したとき、互いが互いでなくなるような、そんなことが幸福を感ずる元を生むような気がする。




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by martin310 | 2017-02-13 14:06 | 風景探勝 | Comments(0)

[風景探勝] まるで古写真に残された風景のような場所。箱根・芦ノ湖西岸にて。


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だいたい、よく知った自然の場に行くと、大概同じようなアングルで写真を撮ることが多いようだ。
ここ、箱根の芦ノ湖西岸では、やはりこの湖畔の道をこんなアングルでファインダーに収める。そこで感じたものを絵にしようとすると、自ずから構図は自分流の同じものになり、過去に撮ったものとあまり違わない画像が残っていく。

a0282620_13311274.jpgただ、この日の湖畔の道は、冬の光景からか、緑に覆われた頃の欧州の古い景色の一幕のようなものから、一転して、日本の江戸末期の頃の宿場風の雰囲気をどこかに感じていた。
脳裡には、いつか見た、江戸期の古写真にある、箱根宿で撮られたイメージがダブっていたのかもしれない。
箱根の古い景色は、当時の外国人写真家によってけっこう作品に残されていて、その中でも、後に絵の具でモノクロ写真に彩色したものがあり、どうもその擬似カラー写真の世界にあるイメージにつながっていたのだろう。

この樹木の姿や土の道、そして道に映じた影法師の感じが、レトロな世界へイメージを牽引するようだ。
そう言えば、この道は箱根宿へつながる道で、いわゆる東海道の街道から分かれた先にある。それも1キロと離れてはいない。
右上の写真の箱根宿とは目と鼻の先だ。
だからか、どうも道の彼方から編み笠と脚絆姿の旅装束の人が歩いて来てもおかしくない気がする。
背に負った荷を道の脇に寄せて腰を降ろし、この青い湖を眺めながら一服吹かしてもいい。ここはそういうほっと一息つく場所のようだ。

当時の古写真に、芦ノ湖の風景を撮ったものがいくつかある。湖の雰囲気やまわりの山々の姿は、今も当時もほとんど変わりはない。
ただ、当時は今の常緑の植林された森はなく、すべてが自然林だった。湖畔に立つ建物も木造の古風なもの。
湖水に落とす山々の影が、青く澄んだ湖に憂いのある風情を与えていた。
それに、今よりいっそう、湖とその周囲の森の持つ精霊のエネルギーに満ちていたようだ。そういうものを、古写真の情景から読み取る。

ただし、この湖は他に数あるものよりは、数段、湖の持つ「氣」をよく保存している。観光地として俗化されているエリアがごく限られていて、人があまり入らない区域がかなり多くを占めているからでもある。
ほかに、そういう守られ方をしているのも、湖の精霊の力量が反映しているからでもあるだろう。
この湖畔の道の奥へ行けば、行くほど、その度合いの強くなることがわかる。

それはある種の神域のように、竜神の意匠を借りて保護の手を厚くしてあるのかもしれない。
いつまでも、こうあってほしいものだ。


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by martin310 | 2017-01-30 13:36 | 風景探勝 | Comments(0)

冬の湖畔にて・・・ひんやり冴えわたる大気の中で。(箱根・芦ノ湖西岸)

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ここは普段でも、釣り人かハイカー以外は訪れることない、ひとけのないひっそりとした静かな場所。
観光客の集まる側からは反対の岸辺だ。

冬の大気がきーんと冷えて、いっそう遠くの景色までクリアに見える日。
車の入れる湖畔の森のゲート前まで行き、そこから白砂の浜辺に降りた。


めいっぱい冬の日の陽が射しているのに、空気にその熱が伝わるまでもなく、厚着の装備で砂地を行く身体は、耳たぶが痛くなるほどに凍てついて来るようだ。
湖に注ぎ込む沢の水は、沢ごとすでに氷結している。
白い砂地にしても、霜柱に押し上げられて、そのまま凍りついている。

辺りは静かまりかえり、ただ小さなさざ波だけが、生きたように細やかな音をさせている。
まるで音も無く凍結したような風景の底で、その波音は岸辺へ寄せて来る透明な水の膜が息をしているかのようだ。

山の大気も、湖水も、降りしきる陽光も、いっそうこの冬の寒気の清冽さで清められ、この上ない清浄な世界に変貌している。
染み渡るピュアな気圏に、全身全霊を清められたかのように、冷えびえと心身の中を湖上の風が通り過ぎたような気がする。

このまわりを取り巻くあまりに清らかな風景の全体が、よりマクロに巨大な宇宙と相似形だとしたら、宇宙は斯くも浄化の極まれる状態にあるのかと、「清浄」を絵にしたようなこの目の前の風景がそれを物語っているのかもしれない。

水面に映る景色の如く、鏡像を顕す現象をここに見ているのだろうか。

外輪山に囲まれた太古からの湖水に、遥かな宇宙の像を映して、まるで卜占のように占う。
そんな大それた妄想を抱きながら、冬の日の清らかな湖畔にて、密かな確信を得たような心持ちで帰るのだ。


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by martin310 | 2017-01-25 22:31 | 風景探勝 | Comments(0)

[風景探勝] そこにある風景から見出せるもの。想像力が意味を生む。


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※画像をクリックすると、200%に拡大可能です。是非、大きな画像でどうぞ。


我が家の建つ場所は、海から続く広い平地から、いきなり坂が始まり、そこから街を見下ろすように勾配を上げていく山の上にあります。
平坦に広がる田園地帯から見れば、それはまるで急激に隆起したような山地に見え、標高はそれほどでなくとも、小山がまとまった塊のような山並に見えます。
実際、超古代にはこの辺り全体は海底であったらしく、近辺にラクダの瘤のように群立する低山は、かつての海底火山だったそうで、それによれば、現代の我が家は、海上にぽっかり頭を出した小さな火山の頂きのひとつに乗っていることになるのかもしれません。

眼下に見下ろす街の世界は、かつて海の中だったとは、なんとも想像するとSFチックな夢想のイメージが広がるようでとても不思議な感じがします。
そんな海の底だった平野の只中を、今や車で突っ切っているなんて、超古代と現代がダブルイメージになって、そのあいだに横たわる時間の集積といったら、どれほどの地殻変動の歴史がそこに組み込まれているのだろうと、益々想像力を刺激します。

そう考えると、我が家から見えるこの風景でさえ、地球の歴史からしたらつい最近この姿になったに過ぎず、海や山や平野の姿は、かつてからまったく別物が順次変化して、今の様子になって来ていることになります。

何気なく、いつもそこにあると思っているこの風景が、実は多大な奇跡に基づいて作られているのかもしれず、ここに住んでここから眺めるというのは、ある大いなる意志が働いてのことなのではないかと、意味深に考えたくなるほど得難きことのように思うほどです。

森が出来、樹木が繁り、そこに人が点在して暮らすようになり、蒼穹に雲が湧き、陽が照り、空を焼き、壮大な時間の河が流れ、自然は大いなる律動の中にある・・・。
自分たちの暮らしも、その地球上の大いなる自然の営みの中にあり、森の中の目に見えぬ微生物のひとつの如く、ただ黙々と生きてあることの恩恵を感じ、果たすべきことを喜びの中で自然に還していくこと――、そんなことをこの夕暮れの風景を眺めながら感じるのです。

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※画像をクリックすると、200%に拡大可能です。是非、大きな画像でどうぞ。


by martin310 | 2017-01-22 16:23 | 風景探勝 | Comments(0)

[風景探勝]~この場所に出会い、この風景を見つめることとは。~


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※画像に挿入した言葉は以下のものです。
※ちなみに画像は、我が家からのいつもの駿河湾と大瀬崎の見える風景です。


You can’t get away from yourself by moving from one place to another.
-Ernest Hemingway(ヘミングウェイ / 1899~1961)-

“あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない。”

「英語の名言・格言」より http://iyashitour.com/meigen/eigo_meigen/cool


自分で撮ったおなじみの風景を、意図的に正方形にトリミングして、ちょっと英文を挿入してみると、まるでクラッシックのジャケットデザインのようになったようだ。
こうして見てみると、いつもの見慣れた風景が、まるで別もののイメージに様変わりして、実に興味深い。
ほんのわずかな画像処理でしかないが、発想次第でけっこう印象の違うものを創ることが出来るのが面白い。
それはその風景の中に、見るほどに深遠な要素が含まれているからに違いない。

幸いにこのように展望のきく場所に家を持てたために、朝起きると真っ先に、まず2階のデッキに出てこの風景を見、出掛けに車を出して道路からまた眺め、帰れば日没時のこの風景を目にして、最後に眠りに着く前に、またデッキに出て夜の暗闇に浮かぶ風景を眺めることが日課になっている。

山並みと海、そして空。
そこに雲と陽光。
無限のバリエーションの中に、自然の刻々と変化する様態の広がりを見ることができる。
特に雲の姿と、それに反映する光による饗宴は視覚の愉しみを飽くことなく与えてくれる。

ブログのサブタイトルの、「~空と森と水と~」とは、まさにこの場所をおいてないように、ただの偶然の思いつきではないようにも思えてくる。
土地探しをしていた頃を思うと、実際、こういう場所を求めていたかどうかは定かではないほど、ただ漠然と、世俗から離れた孤立した自然の領域というイメージでしかなかったように思う。
土地との縁も偶然から導かれ、後でわかることはそこに偶然などという野放図な僥倖などないようで、おそらく未来を透視できる意識を持ってしたなら、それはある準備されたストーリーとして決まっていたのかもしれないとも思える。

だとすれば、この常に目の前に広がる風景との縁(えにし)は、この時代のこの土地での生きる道筋での、いわば聖なる契りのようなものがある場所なのかもしれない。
それほど、自分の生涯を振り返る映像の中での、この場のイメージは、欠くべからざる記憶に焼きつくものになることだろう。

風景を見つめるとは、それがあまりに深く意識に浸透しながらの行為であるほど、自分のうちなるものの、言葉にはならないなにかが、そこに反映、投影されているものなのかもしれない。
風景のうちにあって、そこから意識の奥に響いて来るものとは、互いに共振共鳴現象があってのことのようで、きっと自分の潜在意識化のあるものを、そこに見ているという逆反照が起こっているのではないだろうか。

つまりは、他の場所を巡っても、そこに見るものは自分のうちなるもので、決して自分から逃げられるものではないとも言えるだろう。

見ているものは、見られているもの・・・なのだろうか。

You can’t get away from yourself by moving from one place to another.


by martin310 | 2017-01-16 22:23 | 風景探勝 | Comments(0)

海を眺めて思い耽る。(ある日の海への独白)


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※西伊豆仁科(大浜にて) 2017.1.2


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あらためて海の持つ力は偉大だと思う。
こんなある海の一部をランダムに切り取っただけの画像にしても、心静めて落ち着いて眺めてみれば、やはり「心洗われる」と言われるような効果があるような気になって来るものだ。
(かえって現場の強風の中では感じ切れていないものが、持ち帰った画像の中に後から見て取れるよう)

「鮮烈」という語句が思い浮かぶほど、この日の海は物凄くピュアなエネルギーで満ちていた。
それは、静かに凪いでいる穏やかな海以上に、荒々しい動的な海の様態を強風と荒波とが激しく見せていたからだろう。

押し寄せる波が持っている力、深い紺碧の海水の秘めた底力と、湾から灘に広がり大海に拡張していく、巨大な海洋の実体・・・、それはこの水面(みなも)を見ているだけで、自然に意識が拡がっていくのと同じように、地球レベルへと視点が飛躍して行く。

大いなるものに包まれるという、言いようのない深い安堵感と、偉大なるものへの畏敬とが、海の外れの一部からじわじわと自らの存在のすべてを包囲していくようだ。

太古の昔から、こうやって延々と時間を紡いで繰り返されている波の訪れを、今また新たに静謐なまなざしで見つめるとき、遙かな過去からの壮大な時間の積み重なりとその未知なる歴史をも意識する。

長大な時間軸と、様相を変異し続ける空間性との直交点にあるここで、生きて脈動し続ける海の命を感じ、あらたかな尊崇の念が湧き起る・・・。


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by martin310 | 2017-01-10 11:36 | 風景探勝 | Comments(0)

“オクシズ”の梅ヶ島あたりの紅葉を見に行った。


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オクシズ”、つまり、いわゆる「奥静岡」の、安倍川上流、梅ヶ島温泉あたりの紅葉を見に、久しぶりに日帰りドライブに出掛けた。
このところ、休みの日となると、ずうっとDIYか庭仕事で、まったくどこかに出掛けるということがなかったので、そろそろ紅葉も終わりかけ、もうこのときを逃すとないということで、南アルプスに近い山の中へ行ってみようということに。

2年前の今頃、はじめて行ったそこは、ちょうど紅葉の真っ盛りで、清流の流れる川を挟んだ山々の美しさに魅了された記憶があり、もう一度それを眺めてみたいと思っていた。
ただ、今年はどうも、近郊の山を見ても、紅葉の色づき加減がいまいちのようで、どうかな?というところもあったが、天気もいまひとつの中、一路“オクシズ”をめざした。


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a0282620_1955548.jpgやはり思ったとおり、色づきはよくなく、彩度が低く冴えない感じだ。
天気も、予報とは違って、どんより雲が厚く、ときおり雲間から青空が覗けるくらいで、一日中、明るく輝く光は拝めなかった。
そんなことも余計に、紅葉の色合いをくすんで見せているようだった。




a0282620_1961478.jpgトップ画像とこの下は、梅ケ島七滝の一つ“赤水の滝”。
道路沿いに位置するので、来ると必ず見る滝だ。
今の期間は、夜間、ライトアップしているよう。
遊歩道を歩いて展望台まで行くと、この豪壮な景観が見られる。
そこまではモミジの落葉の歩道になっていて、ワンコは相当に喜んでリードを引っ張って歩いていた。
しゃかしゃか音のする落葉を踏みしめる音が心地よく、きっといつもアスファルトの上ばかり歩かされている肉球が、この落葉の上ことのほか気持ちがいいと感じたのだろう。




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梅ヶ島は、安倍川に沿って遡上する道を行くだけで、周遊するようなコースがなく、行って戻る以外にない場所。なので、紅葉見物の中高年の車が、盛んに登って行っては、梅ヶ島温泉でまた見るところなく戻って行く。

できれば、途中の日帰り温泉、梅ヶ島新田温泉「黄金の湯」に寄っていこうかとも考えていたが、そういう人たちの車が駐車場に数多く停まっていたので、やっぱりと諦めて帰ることに。


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途中の脇道を、日本三大崩れのひとつと言われる“大谷崩”を見に、8キロの山道を登っていったが、あいにくガスっていて何も見えなかった。
その途中で出会ったこんな風景・・・。


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なんでもない景色のようだけれど、自分的には夢見る世界のようでとても魅力的だった。
道の蛇行して下っていく様や、青く霞む向こうの山々など、何かこことは違う世界に誘われる魅惑的なものを秘めていると感ずる。


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そして、またなんともないような小高い山。
そこにある風景の、その中に内包されているなにか・・・。
そういうえもいわれぬ、言葉にならない世界こそ、自然の持つ神々しい存在感に思える。
山深く入り込むと、そういう人間界とは異なるなにものかに出会える可能性がある。なので、出来る限り、深山幽谷の趣のある場所へと意識は向かうのかもしれない。

いまひとつの紅葉と天気、でもそれがかえって、普段えてして見逃してしまうようなものを見せてくれた感もあり、まんざら悪くもなかった日帰りの旅だった。


by martin310 | 2016-11-16 19:13 | 風景探勝 | Comments(0)

起き掛けに夏富士を見る。雲の群れの中に見る天の知らせか?!


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朝、目が覚めると、まずデッキに出て外の様子を眺めるのが日課の始まりだ。
今朝も同様に2階のデッキに出てみると、空が妙に美しかった。
梅雨が明けてから、今日のように空全体が澄んで、オゾンの高みまで輝くように青い空をよく見るようになったが、そこに浮かぶ雲の群像がまたさらに、それに輪をかけるように美しく立体的に見えるのには、しばし足を止められた。

こんなに空気が澄んで、遠くまで見通せるならと、デッキからは右端の方に位置する富士はどんな具合だろうと目を移すと、富士もまたくっきりとして、まさに夏富士の様相を呈するように、山肌までもが露わにリアルに見えるように風景が冴えていた。


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我が家からは、ちょうど富士山の宝永火口が正面に見える位置になる。
富士の末広がりのなだらかな稜線のシルエットの中央に、ぱっくりと口を開いたような火口跡が見える。
かつてはここから強大な火柱が立って、もうもうと噴煙を上げていたときがあったということだろう。膨大な量の火山灰で空は暗く、そこに真っ赤な溶岩が光っていたのだろうから、とてもこの世のものとは思えない光景だったと想像した。


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そんな現在の穏やかな富士の姿を眺めていると、そのすぐ脇に、まるで円盤のような吊るし雲があるのに気がついた。
よくUFOが、カモフラージュのために雲の形で出現することがあるが、これがそうだか偶然の気象の産物だかは定かではないが、このタイミングでそこに存在していることの不思議を思った。

吊るし雲が、空に単独で浮いているのなら、それに気づく人も多いかと思うが、このように多くの幾すじもの雲の群像の中に、ときとして円盤型にまとまったものが顔を出しているのは、よくよく雲を観察している人でない限り、なかなか見つけ出すことは出来ないだろう。
そう思うと、何かしかの意味が込められているのかと、思ってみたい気にもなるが、それが単なる思い込みのこともままある。

いずれにしても、我々地上にいる人間たちからは知ることも出来ない、何らかのことが、天の世界では起こっているという、そんな証の一端を示している気もするが、さてどうだろうか?
起こって来ることからは、益々混迷を極め、状況は悪化の一途に進んでいるかのように見えるが、それは遅れて顕れる現象界の仕組み故で、それに先んじる天の世界では、既に喜ぶべき兆しが実現されているのかもしれない。

そう思えるような、今朝の2階デッキからの展望だった。


by martin310 | 2016-08-01 16:41 | 風景探勝 | Comments(2)

夏の日の風景・・・子供頃の記憶と重なる世界。はっきり明けない梅雨空に思う。


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※画像クリックで800×533pixに拡大可能です

18日に九州から東海まで一斉に梅雨明けとなったようだが、ここ伊豆はまだまだもやもやと梅雨の様相が抜けきらないでいる。
伊豆は東海のはしくれ、関東甲信越の方のが近しく、事実上、未だ梅雨は明けず、ただ蒸しむしと気温だけは真夏らしく30℃を超えている。

今までの夏全開の梅雨明け時期の7月20日前後は、真っ青な抜けるような青空と、白い入道雲、ギラギラと灼けるような太陽が、一斉に今までのどんよりした空気を一掃するように照り映えるのに、今年は未だはっきりしないキレのない日が続いている。


そこで、去年の今頃はどうだったのだろうと、画像ストックのフォルダをプレヴューしてみると、こんな夏らしい空が既に広がっていたようだ。
ちょうど去年の今頃、八ヶ岳の北側と西側を巡ったときの写真だ。


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この時期の、梅雨から夏空への切り替わりの感じがとても好きだ。
まるで映像のシーンがガラっと変わるように、場面展開が切り替わる。
特に、夥しい明るさの深い底なしの蒼穹に、地から天へと湧き起る巨大な入道雲の白さが映える世界は、なんだかこの世ばなれした違う世界に変わったような気がして、まるで物語の中を行くように、夢心地の嬉しさが湧き起る。

この夏の典型としての世界が、子供の頃からのやすらぎ感とワクワク感を与えてくれる。
陽が傾いて、西日に変わり、視界を埋める雲の量もかなり増えて、森に響く蝉の鳴き声もさらに甲高くなるような午後・・・。
涼やかな風が凪いで、ぴたっと止まり、時間も一緒に静止してしまったような午後・・・。
さらに陽が翳って影が広がり、夕の近づきを感じさせるように蜩の声があがって来る頃、夕立の兆しのような雷鳴が、山の彼方のその向こうで鳴っているような夏の日・・・。

年をいくつも重ねても、やはり子供の頃感じた夏が、この現在に重なって来るようだ。
季節の中でもとりわけ夏という季節が、最も子供の頃の記憶と融和性が高く、時を超えて感性の中ですぐに結びついてゆく。
それだけ童心に帰るタイミングの多い季節なのだろう。

梅雨が明けてもその夏は、まだ一ヶ月以上もあると思うと、なんだか心の余裕が出来るようで、8月がまだ残されているのがありがたい。
そんな気のする今なのだ。
ドラマチックな夏がこれから始まるというのだろうか?


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by martin310 | 2016-07-19 16:29 | 風景探勝 | Comments(0)

「この世界は、我々の想像力を描くためのキャンバスにすぎない。」(ソロー)


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   This world is but a canvas to our imaginations.
                                -Henry David Thoreau-

   「この世界は、我々の想像力を描くためのキャンバスにすぎない。」 (ソロー)


よく風景の画像を眺めているとき、被写体から遠いはるか向こうの山際や森の輪郭や空との境目など、およそ画面の一番奥まった、もうピントの域を超えたボケた彼方に目が引き寄せられていることがある。
風景画にしても、同じように遠景の果ての、あるかなきかの僅かなシミや滲みのような茫漠とした境目に、目が吸い寄せられる。

これはなんだろうと思っていたが、自分で敢えてピンぼけに風景を撮ってみたときによくわかった。
どうもあたりまえのようにフォーカスが合って、像をしっかり結んでいる風景より、光や影が茫洋と色彩と混在しながら、近景から最遠景までぼーっとボケている様子に、視覚を超えた意識が惹かれているのがわかったのだ。

ものの輪郭が曖昧だから存在感が希薄であるというのではなく、逆に曖昧模糊とした像だから、余計に空間性や実在性が強調されるということもありうるようだ。

ボケた亡羊とした風景というものは、脳内で軽い幻惑を感ずるようで、妙に見ている世界以上の次元の違う世界を見ているような気になる。
というか、その瞬間、すでに思考は停止し、ただ在ることの時空にたゆたうような意識状態にある。
ある意味、瞑想的脳内活動にしばし呆けたように没入しているような気分である。

これは言わば、“見ることの禅”のような状態なのかもしれない。


そういう体感をできるように、こんな画像をつくってみた。↑
単にピンぼけ写真だけではものにはならないため、「世界の名言」から、デビッド・ソローの言葉を入れてみた。

そう、ソロー言うところのキャンバスに、ちょっと脳内を浸してみたらどだろうか。
草地と森とその向こうの山並に、光は降っているのである。


by martin310 | 2016-04-10 15:18 | 風景探勝 | Comments(0)