伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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夏の空に思う・・・8月の階梯(August Steps)・ある自分的雑記録


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8月がもうすぐそこに迫って、夏の光がいっそう自然界を美しく輝かせている。
梅雨が明けてもしばらくは、その名残の大気が残留しているようにもやけた感じがあったが、ここのところの快晴続きで、そんな欝屈したような水気は、もうあの8月の空に様変わりしようとしている。

大気を透ってくる光そのものが、格段に透明度を増して、あらゆるものの色の純度を際立たせているようだ。
朝、起きがけににリビングの大窓を開けたとき、外のさわやかな空気が流れ込んで来る、その爽快さがたまらなく好きだ。同時に、野鳥たちのこの上ないピュアな囀りが室内に響く。庭の夏の花々の際立った色も、ペアガラスの窓枠のあいだから緑の庭に彩を見せ、そよ吹く風の心地よさにずっとこのままここに佇んでいたい衝動にかられる。

a0282620_13324675.jpg高原の朝は静かだ。
ときおり近隣の出勤する車の音がいくつか聞こえるが、それも忘れてしまうほど静寂の方が圧倒している。
朝の散歩の子犬の声が遠くでしている。
が裏の灌木で清らかな声で啼いている。
鶯は春告げ鳥のように思うが、実は冬場以外はずっとあの美しい声をあちこちで聞かせている。この山稜では夏蝉と蜩(ひぐらし)と鶯の声が一緒にしているのも決して珍しことではない。どちらかというと、蝉は下っていった平地の方が俄然声だかのようで、ここあたりでは気にしないと聞き分けられないほど少ない。

航空写真で見てあらためて気づいたが、ここ我が家のある少し樹木が開けたあたりを除き、植林地や自然林も含め、森林域は半島の中央を越えて東海岸域までずっと続いていることを知った。考えてみれば、その広大な森の西の端に居住まいを持っている訳で、空から見ればグリーンの広いふかふかの絨毯の端に、とんがり屋根の我が家が鎮座しているという図になる。森厳とした木々の群れに囲まれて我が暮らしはあるのだ。

夏の日の午前の風は、実にしめやかに涼しげな水気を含んで吹いている。大きな木が道の両側から枝葉を伸ばしてつくる、森のトンネルをくぐって仕事に出るとき、束の間の森の匂いに車中が包まれる。
風にそえぐ木の葉を透かして陽光が漏れる様は、フロントガラス越しに見ていても、その美しさに一瞬時を忘れる思いだ。それも行き交う車などない、こんな山の上だからできる贅沢で、ふいに対向車が現れると危うい現実にすぐさま引き戻される。

a0282620_13272897.jpg陽が傾いた夕に向かう空は、光と雲の織りなす神秘的なドラマを見るようで、我が視線を吸い寄せる。
時と共に変転する空の様相を眺めていると、そこには偉大なる神のインスタレーションを観るようにと、美意識の修練を促される気になる。
天球全体を使ってコラボレイトされる一大ページェントを、どう切り取って画像におさめるかが常に課される履修内容となる。元来、360°を小さく矩形で区切るなど、難題この上ないものなのに、スケールダウンして枠におさめるのが必須条件なのは否めない。

この場所あって今がある。
住まいを移して早4年の月日が経過した。
こんなささやかな間口のブログという個人メディアから、こうして裡なる要求によって書きなぐってきたこれらの記事の群れも、丸2年でもうすぐ500件になる。
中でも我が家からの光景や庭の画像を使った枚数は数知れない。
そればかりか、この地での暮らしから生み出て来たものも当然の如く、その全体に直接、間接及んでいるはずだ。
それもこれも、この場が与えれたことにすべてが起因する。
与えられたというのは、奇跡的に出会ったからでもあり、この場をおいて他には考えられなかったことももちろんなのだ。

それはまさに与えられた。
そう明確に、「受け取れ」と言われたからだ。
誰に?
そう見えなくとも確実に存在する偉大なる意識にだ。
それ以前の10年があってこそ、この場を与えるということだろう。
そのことは自分が一番よくわかっていることだ。

そして、早4年の月日が流れた。
さて、ここからまた次なる階梯がはじまるのだろう。
今までが地ならしだったのだろうか?
さて、次はまだ何も見えていない。
空の雲の輪のように、何が開いていくというのだろうか。


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by martin310 | 2014-07-29 13:45 | 田舎暮らし

魂の多面体を繋ぎ合わすこと、・・・それが分霊の統合ということ。(まったく地道な自己探求の道)


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自分が分けた御魂の分子を継いでいると思わしき、過去の人物の何人かを追っていくと、当然そのゆかりの地を巡る必要が出て来る。関連した建物やそれに類した遺物、跡地や散策したであろう道や、そこから眺められる風景など、かつてその人物が眼と心に刻んだであろうなにがしかの痕跡を求めて、旅に誘われることになる。
そうして、地図を頼りに行くべき場所のポイントを調べていると、前回の八ヶ岳山麓もそうだったが、今回も3人の時代の異なる人物のゆかりの地が、なんと浅間山麓の国道沿いに、ほぼ一直線で並んでいるのに気がついた。
それもかなり近接しているのだ。AからBへは約6km、BからCとのあいだはなんと1.5kmしか離れていない。それがほぼ西から東に地図に水平に並んでいるという、なんとも不思議な取り合わせになっているのを知った。

前回は八ヶ岳山麓の二ヶ所だったが、そのときも同じ地名の土地で、距離はせいぜい3キロほどしか離れていなかった。しかも、この地に当の人物たちが入ったのはまったくの同時期という不思議な組み合わせだった。
今回の3人は、今に知った人物ではなく、自分が文学や芸術に興味を持ち始めた頃からずっと注目していた人たちである。特に二十代のはじめにはかなり入れ込んでいたかもしれない、自分にとっては深く長く意識に影響を持って来た人物であり、それぞれ遺された作品群がある。
以前には個別には各々のその地へ立ち寄ってもいたのだが、その頃とはまた一段とその地を巡る意義が異なってきたのと、この今、なぜその3人がクローズアップされているのか、というのが自分の中での大いなる興味のもとになっていることから、これからが本格的な探索の旅となる。

そのうちのひとりについては、人物と作品本位で、ゆかりの地自体、今までまったく思い至ったことがなかった。作品的に創作の場を知ろうという要素がほとんどなかったのと、生涯の詳細を調べてみようという機運もあまり起きなかったからだ。だが、前回の八ヶ岳山麓の体験から、その土地や、居室が残っていればその部屋に入るだけで、当人の魂とじかに感応することがわかってきたので、今までとは違い、出来るだけ当人の生きてこの世のあったときの残像が残っているような雰囲気の場に立つことが、自分にとっては重要なことに思われたのだ。
事実、そう思ってそんな話をツレとしていると、もう、身近に当人の意識が来ているのを感じ、胸騒ぎと鳥肌が立って、呼んでいるのがわかるのだ。
生前には映像ではその姿は見ていたが、亡くなったときのニュースを知っていたのかどうかさえ、自分の記憶にはないほど、かなり雲の上の遠い存在だと思っていた。
だが、いつしかこれら青年期に、自分自身が相当に熱中、耽溺したように心酔した人物は、大抵が分けた御魂の分子があるのを知ったことから、今回俄かにこのような道行になったものだ。

ではいったい、そのような場に出向いて何になるのかということだが、もちろん、ここに至るまでのプロセスも大事な要因になるが、まずは出向く以前に、当の人物を詳しく知ることが、自分自身との比較対照の中で共通しているところ、まったく異なるところ、感性や感覚的な要素の似通ったところ、人生全体の中での変転の様子など、魂の因子のどの要素を多く引き継いでいるのかなどの考察を通じて、より自分を知るということにつながると思っている。
それをもとに現地に入ると、ここからは前段階の知的な視野から、一気に霊的な領域に受信するものがシフトしてゆく。ここからはまったくの未知なる波動のエリアだ。自分の頭で考えるようなことではない、魂と魂同士の共感共鳴現象が起こってくるのだ。自分の意識はただ、起こることに身を預け、客観して観察をしていることになる。大概は魂同士が触れ合うと、一時合体したような抱擁感に包まれ、至福のときを共有する。つまりは、体の現象としては号泣になり、嗚咽になり、叫泣になる場合もありうる。波がピークに達すると下降がはじまり、収束が近づいていく。

そのあいだに、号泣している自分とは別の、もうひとりの観察者としての自分の顕在意識は、いったいどういうことを伝えてきているのかを、共鳴中のなかで冷静に解析している。案外、言葉に変換するのならこういうことだというのが訪れる。そうやって言語を超えた波動による感受を行うことになる。

自分の魂の、他者のそれを寄せ集めた分子を体感するのは、この瞬間をおいて他にない貴重な体験だ。このことはある意味、自分の魂の断片と再会するように、無数の多面体でできた魂の細分化を、この行為によって統合しているのかもしれない。まるでミラーボールの細かな鏡の一面一面をつなぎ合わせて、本来の光を放つ球体を回復させているのだろうか。
だからといって、急激に人格が進化する訳でもなく、才能が開花する訳でもなく、超人的力量がつくわけでも何でもなく、ただ、意識の諸段階がわずかずつ変化していくような気がするだけにすぎない。
何かをもたらすのを期待するのではなく、ただ単に、成り行き上、そう導かれると思えるのでそこへ向かう、というのが自分の現実だ。


こんなことを書いているのは、おそらく誰もいないだろう。
こんな体験を通して人生の日々を重ねているのも、ほぼ希少だろう。
それに如何ほどの価値があるのかを実感しているのも、きっと皆無に近いことだろう。
だが、これが自分に与えられた天啓なのかもしれないと、ただ人知れず密やかに行動しているのだ。
無名であることが探求の自由をもたらすというのは本当で、誰にも事の詳細を知られずに行えるのが、なによりの自然な行動をサポートしてくれる。


このようなページに行き当たったあなたも稀少だが、記している内容に共鳴する何かを感じるものがあるのもまた、そこへ至ったものこそが、天の導きであることを感じるべきかもしれない。
魂の断片は神の手によってばらまかれているはずだ。
それらが天の光を受けて起動する時代が訪れることを予期してのことだ。
おそらく、そんな時代が近づきつつあるのかもしれない。
何より、闇の妨害の魔の手が去った今、漸くこのようなことが開示できる時空になったことで、この記事がある、そう思えるのだ。


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by martin310 | 2014-07-28 13:47 | スピリチュアル

意識の向かう方位の壊乱・・密やかに混沌の中へ


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ここのところの向かうところ散漫に思える自分の意識の矛先を、敢えて訝りながら振り返ってみた。

確かに充分気力、活力、探究心、集中力・・・は賭けるだけのものはあったはずだ。向かう先も焦点があっていた。だが、いざ逸る気持ちの裡に手掛けようとすると、すぐさま別のものが色を増して来て、その方が今に沿う気がしてくる。そうやって、またしても別のものの方がマッチしているように思えて、ターゲットを変える。
こんなに刹那的に興味の対象が逸れたように動くような自分だっただろうか?ときの意識の波長の合うものがセンサーに触れるのをよしとして、その方向を決めるのはいつものこと。だが、今はこの向いているスパンが余りに短すぎて、自分が追い切れないほど矛先が落ち着かない。

いったい、これは何に起因しているのかと、よく意識の小さな動きを観察してみていた。なぜにこれほど短いサイクルで、興味の波長域が変化して、それまでのものが一瞬にして色褪せて見えてしまうのか、その意識内部の現象を引き起こす原因を見つけ出したいと思ったのだ。

ネット上の情報、書物、映像、音楽・・・、様々なアイテムを移動しながら、意識の反応を見ていった。するとどうやら、相対的にみて、現在の自分がその反映を影響として受ける時空の波動状態の不安定感に原因があるように思えてきたのだ。
どうも表立っては明確に対立軸は見えないのだが、時空の細密な四次元域では、相反する二元的なせめぎ合いが著しく擾乱を起こしているように思える。

つまりは、大きくいって光と闇の拮抗が、闇の収縮によって今までの図式から大きく崩れ始め、その崩壊からのエネルギーバランスの混乱が不安定で見定めがつかないカオスを生じているように、その反映として意識も焦点が定まらず、あれこれと無駄に方向を行き来して収集がつかない状況を起こしているように思えるのだ。
だから、相反する要素どうしの掛け合いから、それが多方面に入り乱れている状況を生む。新旧の潜在意識の記憶からの牽引、現実的要素と創造的世界の混濁、知の拡充と感性的琢磨の相反など、一刻も落ち着くとこなく次から次と題目が挿げ替えられる。手を着けようにもこれでという定着感がない。なので考えるだけで何も進まず、進まない手応えのなさが焦慮を生んで来るという、おかしな悪循環。

どうもそれが、今の時空のエネルギー状態のように思えて仕方がない。混沌が静かだけに、それが注目されずに進行する。わからないだけにカオスの程度も測られない。明確な方向性が出ずに、全体がぼやけた冴えない空気に苛まれる。
これが時代の過渡期のミニ版の典型なのかもしれないが、それにしても自分的にはひどく持て余し気味で力の発露が見い出せないだけに深刻な気分に陥る。


このことに関連していることなのか、ひとつ気になっていることがある。
このところ山道を幾度か走った。別段不思議ではなく、今の季節、森を求めて山域に分け入るのはいつものことだ。
だがその中で、二度、まったく地域は異なる山深いところで、まるでその森の主のような“鷲”に出くわした。威厳溢れる、ネイティブのシャーマンの長老にような風格ある鷲にすぐ至近距離で出遭った。
今もその二羽の鷲の風貌を思うと、あまりの存在感に居住まいを正す心持ちになる。すでに老齢ながら、あらゆる生きて在ることを経験し、すべてを知り尽くしたような闊達な聖者のような威厳が溢れていた。
短い期間にまったく離れた別の場所で二羽の鷲に遭ったというのは、あるようでなかなかないことだ。しかも、その二羽ともが同じようにシャーマニックな偉大な存在感を持っていた。

ネイティブがイーグルを敬う気持ちがよくわかった。
ひれ伏したいほど、気高い威光を放っていた。

※イーグル
空高く飛ぶワシは、物事を全体的にとらえ、判断を下すことができるとされている。
インディアンの世界では、一番空高くに飛ぶことのできる生物であることから 神に一番近い存在と言われ、人間の願いを神に届ける役割があると言われる。

そう確かに、あの二羽の鷲は、何かを言いに来たようだった。
胸の奥にその重みだけが今もある。
あの崇高な存在意識は、だたの偶然などという軽薄なものではない。
すべてを知っている者が、何事かを伝えんとして姿をあらわした。
そうとしか思えない・・・。

何かが変わるのだろうか?
何が起ころうというのだろうか?


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by martin310 | 2014-07-26 23:09 | スピリチュアル

「支配」と闇意識は同義である。・・・ある光の時代への考察。


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◆「支配」と闇意識は同義である。・・・ある光の時代への考察。
思うに、今までの歴史をみて、権力の座につく人間にまともな心を持った存在はいったいいたのだろうか?そう思ってしまうほど、権力支配の構図のからくりはあまりに薄汚いものだ。
権力の座といえども、表向きの地位につく者は、大概が見えない奥の座にいる最高権力者の影の任命にあった者であるから、自動操縦のパペットであることが多いのも当然だ。だから、元来、まともな人間が言いなりのそれを出来る訳もない。偽の為政者を演じられる者しか任命されないはずだ。

ときに時代の狭間の、エアーポケットのような支配の隙間の僥倖にあって、運よく良識的な為政者が選出されたとしても、まともな活動を始めれば、とたんにどこかの時点で謀略によって疑獄に遭い、失権の憂き目にあうことは何度も見てきた通りだし、地位を奪われるのだけならまだしも、暗殺かそれに近いやり口で消されることも何度かあったことも事実だ。

とするなら、旨みを握って押し上げられて地位に着く者で、まともな人間がいる訳がないのと、間違っても良識的な優れた人材が踊るようにスポットを浴びることもありえないことになる。少なくとも、影の支配者が変わらず君臨しているあいだはとなる。

そもそも「支配者」などという存在自体、まともな人間ではないはずで、「支配」する行為や、その意識こそ、他者のコントロールを前提とした権力保持者ということで、ピラミッド構造の頂点に立つ自己の自我の拡大を自在に駆使出来る者を意味する。
他者を自分の思うがままに動かせるという力を持つことは、すぐさま、まともでない闇の意識が頭をもたげ、それを無自覚に広げることが常となる。権力とは常に闇意識と同義なのだ。
それは、すべての人の為にと、自己を捧げるほどの善良な良心がなければ、瞬時に闇がエゴに取り付き、悪の意識が蔓延して来ることになる。他者を配下に置く抜きん出た力を与えられればられるほど、闇のマークはきつくなり、エゴの意識を最大拡大し、乗っ取り、逆に完全な闇のコントロール下におかれるようになる。

闇意識というものは、個々の人間の無意識下にも存在するが、そこへ外部から侵入して覆うこともまたあるのだ。つまり、個々人の内なる闇意識が表に出始めると、瞬間に察知し、その闇意識波動と同調する外部に存在して隙を狙っている闇の集合体が、周波数の接近によって容易に意識内部への侵入と乗っ取りが可能となる。
この外部からのインプラントは、宇宙の闇の本拠地からの遠隔コントロールが可能になるので、余計に自動操縦がしやすくなる。しかも、闇意識の外部からの供給が随時行われるので、益々、当人の支配力は強大になっていくことになる。だから、為政者となると今までとは豹変するように尊大な言動を取ることになり、その増上慢振りは最高潮になる。

また、闇はまわりに闇を呼び、闇連合が形成されていき、思ったことが実現しやすくなるように、まわりが同調しはじめる。その動向に刺激される闇意識の保持者もまた、配下に加わり、闇のコングリマリッとは完成されていく訳だ。

この外部空間に存在する闇存在というか、闇波動の集合体といおうか、そもそもこれを「闇」と称するのだが、これは明らかに意志があり、愛とは真逆の分離、分裂、破壊、滅亡を意図する意識体だ。これが四次元の低層をその存在領域としていた。
「していた」と書いたのは、既に過去形になった感があるからだ。

まともな為政者を出すには、まずこの四次元の低層領域から、この「闇」自体を消滅させることからだった訳だが、これはかなり宇宙の運行から低減される時期にあたったと言える。以前よりは格段に縮小しているようだ。それが、光の時代へのさきがけでもある。
つまりこのことは、まともでない支配者のバックアップ体制が相当貧弱になっている可能性があるということだ。なにせ、闇のエネルギーの供給源が絶たれているからだ。当人の意識内部の闇意識しかない状態で、それは個人レベルの貧相なものでしかない。

そのことはまた、同時に姿を見せない影の本当の支配者の支配力にも、当然翳りが出て来るはずということだ。仕組みは同じで、供給源が枯渇して来るだろうからだ。

もし、これが本当に現実化して新たな地球の開闢が進むとしたら、まさに新たな宇宙の歴史がはじまるのかもしれない。そう、思えるのだ。
だから、今後、まともな心、誠実で純真な気高い魂の持ち主が国のリーダーとして先頭に立つ日も訪れるようになるかもしれない。
そういう時空に今や変化して来ているようだが、はたしてどうだろうか?


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by martin310 | 2014-07-24 16:45 | スピリチュアル

せめて滝の飛沫を浴びて、心身の浄化をはかろう。(世界を覆うきな臭い空気を一掃)


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現在の日本及び、海外の動向を精査しながら見ていくと、どうも謀略の匂いと、きな臭さが濃厚な空気が押し寄せて来て、その汚染の拡がりに我が身も覆われて来るようで、どうも陰惨な空気を吸うようで辟易して来る想いがするものだ。血なまぐさいものが意識に沈殿するようで、情報自体に闇の思惑の粒子が入り込んでいるかのようだ。

a0282620_1451499.jpgそれも、ここのところ、近現代史をいま一度、別の角度から論じた好書を何冊か濫読している為に、如何に今行われているようなことが歴史の端々に、さもあたりまえのように謀られていたかがわかって来たこともあって、いっそう、表の歴史観に騙され続けて来た無情さに苛まれれ感もあって、余計に暗澹たる思いに支配されるのもあるのだろう。

おまけに梅雨の陰鬱な空気もそれに乗じて、どこか頭の空の晴れない日々が続いていたようにも思える。

そんなときには、梅雨明けもしたことから、一気に晴れ晴れと爽快な大気と水気とに包まれ、心身を浄化して、前向きな健常さを取り戻したいものだと思い、滝を訪れた。


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そう、ここは伊豆の代表的滝である浄蓮の滝だ。
中伊豆の国道沿いにあって、「天城越え」の歌詞にもうたわれているだけに、伊豆の代表的観光スポットになり過ぎているきらいがあって、なかなか寄らずに通り過ぎることが多かったところだが、久しぶりに滝壷まで下りてみた。
もっとも、かつて何度か訪れてはいたが、なかなかどうして霊的にも、天城トンネル同様、古い時代の残留波動が多くて、いろいろと難多く、浄化されて来るまでは時間もかかったようだが、今回、それらがまったく意識に上らないほど、ごく普通の滝に変わっていたのには安堵した。と、同時に、時空の変化を実感したひとつにもなった感がある。

そんなこともあり、まずは、気持ちよく滝の飛まつを浴び、まさに滝に入り、水に打たれるが如くになってこの画像を眺めよう。

伊豆のジオパークのひとつで、1万7千年前の火山噴火による溶岩によって本谷川にこの滝をつくったようだが、ここまで美しい姿を見せるのは、もちろん創造神の意志のあらわれであることは言うまでもなく、それだけに神の美意識の感じられるビューポイントであることは自明だ。
滝壷へ勢いよく落下する清冽な水からあらわれ出る、高波動のマイナスイオンは、プラーナの結晶となって滝を巡る山域へ放射状に拡散していく。
それも、滝を取り囲む樹木の放つ美の光を見れば歴然であろう。

この自然神気の充満する滝の飛沫を浴びながら、汚らわしき汚泥のようなエネルギーを落とし、新規な気前でさあ、また進んで行こう。


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by martin310 | 2014-07-23 10:28 | 風景探勝

「食べない人たち」 -3- 秋山弁護士のハイパー度(不食者はここまでになる)


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a0282620_1444331.jpg秋山佳胤弁護士は、2006年から徐々に食べる量を減らしていき、2008年には、完全にプラーナ(大気中の“氣”と呼ばれるもの)を摂って生きていることに気がつき、以来、食物も水もまったく摂らない、完全な不食を実践しているそうだ。
食べない生活はわかるが、水の摂取をもしないで生きられるとは驚きだ。イメージとして、どんな場合も、水だけは欠かせないのかと思いきや、まったく水分補給もなしにその後、今日まで6年以上ものあいだ、問題なく快調に生きているというのは、どう考えても不思議極まりない。

しかも、体力はずば抜けていて、ペルーを旅したときに、水も持たずに標高3050メートルのマチュピチュ山を登ったという。それも、足のエキスパートの現地のガイドを追い越して、頂上に上がったというし、また、パレスチナでは、革靴でウエストポーチをつけ、右手にカメラを持ちながら、9キロマラソンに参加したと、もちろん水は飲まずに走り、なんとそれでもたっぷり汗はかくのだそうだが、喉は乾かないとのこと。いったい、秋山弁護士の体は如何様なものになっているのだろうか。

a0282620_14443430.jpgまあ、不食生活を長く続けていると、ここまで肉体は肉体であっても半物質のエネルギー体に変容してくるものなのだろう。なにせ、その体がエネルギー源とするのは、食物としてのプラーナなのだから。だが、決して食べることはせずとも、自然に空間に遍満するプラーナを取り込むようなシステムが完成されてくるのだろう。都会の中にいるよりも、大自然の中の方がプラーナが満ち溢れているので、快適であるとも言っている。
おそらく、自然界の動植物は、この秋山弁護士と同様、本質的にプラーナの未知なるエネルギーによって活性化されて漲る命を得ているように思える。もちろん物質循環によっているのは、自然科学が明らかにしたとおりだが、それだけの要素が命をつないでいるとは思えない。非物質次元のエネルギー、つまりはプラーナ、または“光”(愛)によって生かされているのは、直感的にも明らかだろう。
むしろ、今このときは、この自然界の非物質次元のシステムに、人間が戻っていくプロセスなのかもしれない。つまり、人間の自然化、或いは本来の自然存在化への回帰の過程なのだ。
2000年初頭、ニューエイジ界ではひととき「ライトボディ」なる肉体の光化現象がもてはやされたことがあったが、当時の方法論はよくわからないスピリチュアルなアプローチしか語られていなかった。だが、以来、十余年が経過した今、人は食べないことでそこへ到達できることが、秋山弁護士をはじめ何名かの先駆者によって実証されたのだ。これはまさに画期的なことで、大いなる人間存在のシフトをもたらすこと必至であろう。

そこには、まさに飽食や食糧危機、GMO食品の襲来など、「食」にまつわる危機的な時代性のアンチテーゼのように「食べない生き方」が新しい時代を開くという、アイロニカルで反動的ともいえる動きをもたらしている。
「食べなければ・・・」とずっと恐怖してきた人類にとって、「食べなくても生きれる」、しかも、十全と命を謳歌できるという事実は、人類史上の革命になりうるほど超刺激的なことではないだろうか。

a0282620_14451046.jpgほかに、秋山弁護士は睡眠に関して、一日2時間程度あれば十分だと語っている。睡眠時間2時間とは、どう考えても超人的な数字だ。しかも、眠る時間をきっちり決めている訳でもなく、必要があればずっと起きているようで、徹夜が徹夜でなく、ただ眠らず何か仕事をしていたに過ぎないほど自然なのだ。
つまり、体が睡眠を要求しないというのは、疲れそのものがないほど体が常に健全で健康そのものであることであり、疲労や老化、病などというエネルギーダウンの現象には至らない超ハイパーな肉体を持つことが可能だということだ。

これによって氏は、一日が三倍に使えるようになったという。単純に考えても、食事時間、食休み、睡眠・・・などなど、物質的な栄養補給をする生活システムでは、「食べる」という行為にまつわる様々な行動に多大な時間が奪われているのはわかるはずだ。それらが一切ないのだから、当然、使える時間は激増する。
ましてや、眠らなくても平気なら、ずっと何かに没頭することが可能になる。
いや、むしろ微食・不食を目指す道は、空いた時間の退屈さを如何に克服できるかが、生き方を変えるともいう。暇がありすぎることから、その時間を持て余すことで、また元の生活に戻ってしまう挫折タイプもありうるということだ。

だが、逆に言えば、元々生きている時間を有効に人生に活用しようという強い意志があってこそ、この不食の道に進めるはずで、この道の歩みは、自覚する魂のミッションがあればこそ、生きる時間を充実させることができる。これらは一体になって人生観を形成するはずだ。だから、単に意味もなく不食を体現できるわけがないのである。

秋山弁護士は、訴訟という対立の現場で、その対立を調和へと導く活動として法律特許事務所を運営し、それ以外には、ホメオパシーの代替医療での博士号を取得し、ホメオパシーの相談をも受けているという。講演や執筆も含め、家庭生活と仕事をこの十分な時間を最大限に活用して充実させ、自らのミッションを実行している。確かに、一日二十時間以上もの時間を使えるというのは、相当な活動量だ。人生においての仕事量も超人的なものになるはずだ。


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by martin310 | 2014-07-18 14:49 | 「食」の問題

新刊「食べない人たち」 -2- :不食志向は新人間への脱皮の契機をもたらす。


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a0282620_951283.jpg秋山弁護士がこの共著の中で述べているように、不食への道に入り、食べる量と回数をゆっくりと徐々に減らしていき、体がそれに慣れていく感覚に従っていくと、やがて食べないことの方が気持ちよく感じられて来ると言う。その感覚を大切にすればするほど、食事をすることが体にとっていかに負担を強いるかがわかってくると。端的に言うと、食べると疲れて体が重くなり、意識も低下し、直感が鈍くなり、自分の中から精妙で明哲な知恵が失われていくような感覚に襲われると書いている。

これは体験してみれば、すこぶる鋭敏に感じ取れるものだ。確かに、空腹状態の時の方が、感覚や思考、直感も冴えている。腹に重さを感じる中では、とても超感覚的な閃きや感性の先鋭な発露は期待できない。脳も神経も五感もすべて鈍磨してしまう。
食べるということは、食物が口から体内に入った時点で、すぐさまどんよりした体の感覚と、眠気に促された脳の不活発な状態が押し寄せて来る。これは、空腹の時間が長いだけに、その状態からの変化が如実に感覚できるものだ。
a0282620_955420.jpg例え、ほんの少しの間食にしても、そのわずかな量の物質が胃袋に入るだけで、急に俄かな眠気がやって来るのがわかる。食物の流入に反応して、消化作業が始まった合図のように、ぼやっーとして来るのだ。
だから、間食することも自らはばかれることになる。人にすすめられても断るほどになる。その方が冴えた状態をキープできるし、またあのような鈍い感覚の中に落ちるのが苦痛に感じられるので、自然と口にしないようになる。

それに、重い食事をした後などは、このどんよりした不活発な状態が実に長く続くことが困る訳で、いかにそれだけ肉体レベルでの消化・吸収という胃腸の活動に、エネルギーの大部分を費やされるかがよくわかるというものだ。
だから、一日三食も、しかも満腹になるほど食べている状態とは、体にしては相当な負担をかけていることになり、そのうち消化できないものが体の不調となって、やがて病という形を取ることになるのも納得できる。
普段、まったくそんなことを感じることもなく、好きなものを好きなだけ食べている人は、この体の変化を感じ取る感覚が麻痺している訳で、自分の肉体でありながら、その声を聞くことが出来なくなっているのだ。その蔭で、体は悲鳴を挙げて対応不可から異常な状態が恒常化していくのだろう。それがやがて生活習慣病などの形で顕在化してくることになる。

a0282620_953443.jpg世は食べることが当たり前として、飽食の文化を形成してきた。そんな食文化を推進してきた勢力を考えれば、そこに巨大な利権が蠢いているのがわかり、結果、食べることで命を縮める仕組みが隠蔽された上に、医療や医薬産業に直結していく訳になる。その先は人口削減計画に組み入れられていることになり、人間の家畜化、奴隷化の一端であることが見えてくるだけだ。

「食べなければ生きていけない」とう強力な刷り込みは、人間本来の体の神秘的といえるほどの超越的機能を完全に封じ込めるためのものであり、そこからの脱却こそが影の支配者からの離脱を意味してもいるのだろう。

おそらく人間の体は、あるときを境に、この食べて保つ段階からの変容を遂げるようにプログラミングされているようにも思う。食べる行為からの呪縛を解くことで、まったく新たな新人間になれる可能性を、不食の道は内包しているのではないか。そのプログラムの鍵になるのが、一日一食という小食行為にかかっているように思えるのだ。
まさに、今、そのときが到来しているのではないだろうか?

秋山弁護士によると、おそらく世界的にみて不食の実験を試みている人の数は、ヨーロッパだけでも10万人に達する数に成長しているのではないかと述べている。我が日本でも、山田鷹夫氏が造語した「微食」や「不食」という言葉が浸透しつつある今日、不食を目指す意志を持った目覚めた人たちの数は確実に増えつつあるようにも感じている。

「衣」「食」「住」のうちの「食」にあまりに捉われすぎるきらいのある現代人にとって、この「不食」志向というのは革命的な意識改革をもたらすであろうことと、同時に、隷属の呪縛から自己解放する強力な武器になりえると思えるのだが、さて、あなたはどう思うだろうか?
by martin310 | 2014-07-17 09:10 | 「食」の問題

新刊「食べない人たち」:不食の人・秋山佳胤弁護士と森美智代さん、山田鷹夫氏共著 -1-


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a0282620_10434454.jpg出たばかりの「食べない人たち」をさっそく取り寄せて読んだ。森さんや山田氏は既に当ブログでもおなじみだが、ネット上で噂の完全不食の人・秋山弁護士の手記は今回がはじめてなので興味深く読んだ。
秋山弁護士については、既刊の著作はあるものの、食に関するものではないのと、ネット上ではあまりに情報が少なく、氏の不食への取り組みを知りたかったので、この新刊を待ちわびていたところだった。

全体でも200頁ほどの字の大きな本で、しかもとても平易な文章で書かれているので、実にわかりやすく短時間で読めるものだったが、そこには三人三様の微食・不食へ至る道が記されていて、それぞれがそれぞれに不思議な見えない力に導かれて今日に至っているのがよくわかって、とても興味深いものがある。
それが総体として、同時代のエポックとして人類の不食化への先駆プロセスの役割を持って進んで来たことが充分に感じられるものだった。つまり、これから我々の世界、及び次元が変化していくのと同調するように、この肉体自体も徐々に非物質化、光化が起こってくる前触れを暗示するような意味でも、この三人共著というこのときのシンクロを強く感じるものがある。

秋山氏は若いときに気功法の習得をしていたこともあり“氣”というものの存在を体感しており、その“氣”と同じようなプラーナのことはわかりやすかったようだ。なので、食べない代わりに宇宙に遍満するプラーナを取り込んで生きていることを、違和感なく理解していたようである。
食事の回数を減らしていき、一日一食に体が慣れると、それは同時に、プラーナの摂取量が50%以上になっていると言う。さらに進んで極少量の微食か、ときには何も食べない状態になって来ると、さらにプラーナは70~90%の摂取量になっているだろうということだ。

このことは、我が体験としても感じるところがあり、現在、一日1.2食を実践してからはや4ヶ月が過ぎたが、朝・昼の微食でも空腹に耐えられないということはなくなった。体も感覚も完全に慣れてしまったようだ。
むしろ、体が軽く、動きやすく、気力も体力もいつも充実している感がある。夕食はふつうに食べるとしても、過去3食しっかり食べていた時代からしたら、考えられないほど少量の食物しか口にしていないのだが、持ち得る体力や思考力などはまったく遜色ないか、それ以上のものがある。
いったいどうして?かと思うが、やはり人間の体は食物を車のガソリンのように考える近代栄養学こそが、そもそも間違ったものであったと思えてならない。これもまさに西洋的物質主義の捉え方で、その近代思考が「食べなければ餓死する」という恐怖を潜在意識にしっかり根を張らせているのだ。

そこからの脱却は、頭で考えてやろうとしても無理で、食事量を徐々に減らして体を慣れさせていく過程で、体から感じるもので意識が変化していく、その体験こそが自然な変異の仕方だと言っている。
おそらく、この少食から微食・不食へのプロセスは、人間自体の波動上昇の変容の段階を肉体次元から物語っているものと思える。つまりは、今までの三次元の低い物質レベルから脱して、宇宙の無限エネルギーであるプラーナの摂取により命をつないで行くという、まさに人間のフリーエネルギー化のシフトをもたらすものとして、これら三人及び、その他の不食者の先駆の役割を与えられているものと思うのである。

現実のエネルギー問題の解決法にしても、もはや世界のあちこちでフリーエネルギーの開発が進められているのと同様、人間の命の糧自体も、フリーエネルギーであるプラーナに代替されていくというのが、どうやら宇宙の流れのようである。

ということで、どうも総合的結論を先に書いてしまったが、
~不食の詳細についてはさらにつづく、かも?~
by martin310 | 2014-07-16 10:44 | 「食」の問題

7月の庭・・・『田園の憂鬱』を思い起こす世界


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台風のニュースから、今年の庭もこれまでか、とも一度は思ったものの、見事分散消滅してくれたお蔭で、我が庭は今のところ無傷でそのままある。あるにはあるがすべてが伸び放題の鬱蒼とした夏の庭になっている。奥の小木が寄せ集まっている船形花壇のあたりは、通り抜けるにも枝木を掻き分けながらのジャングル状態である。
梅雨から真夏の花に少しずつ様変わりして、あちこちにそのときの旬な花色が見えるのがこの時期の愉しみなる。キッチンガーデンではトマト、ナス、キュウリ、インゲンなど定番野菜が、今年の植物の生長旺盛状態からたくさんの収穫が期待できるかと思いきや、丈ばかり大きくなって一向に実の生りははかばかしくない。
漸くトマトが赤く色づいて来たので、しっかり実の詰まった果肉を食せるかもしれない。ナスもキュウリも忘れた頃にぽつぽつできる。シソは元気で、シソジュースや梅干づくりに期待がかかる。

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夏の庭というのは、植物の生長の度合いがピークを超え、勢いが途絶えただけに丈の高いものは、頭をどこかへもたげて支えを求めるように傾き、折れ、向きもまばらに乱雑の様相を呈して来るものだ。陽光に焼かれたように花も葉も萎えて、勢いのあった整然とした庭相から、雑然とした荒れた廃園のような雰囲気になって来る。
例年、その荒れた感じに堪えられなくなり、止むを得ず倒れて駄目なものを刈り始めることになる。庭の花の整理を始めると、それに似せた草の方が優勢に伸びて来る。花壇はいつしか刈られても尚も生える雑草に取って替わるように占領されていく。

そんな夏の庭の姿を見ていると、かつて十代の頃に読んだ佐藤春夫の小説 『 田園の憂鬱 』 の世界を思い出した。(内容はざっとこんな感じだが、そもそものこの描かれた世界が好きだった)
都会の生活に倦んだ文学を志す主人公は、都会の喧騒を逃れて郊外の片田舎の民家で田舎暮らしをはじめる。今どきの田舎志向とはやや異なるが、フランスの文学者が牧歌的世界への移住で作品を書き上げる如くの、ある時代性を持った文学的世界がこのような舞台設定に至らせたのであろうし、実際、作者自身が、女優の川路歌子との東京郊外の田舎での同棲生活を始めた頃のことを素材に描いた小説であったようだ。

a0282620_1538050.jpg『 田園の憂鬱 』 ―或いは病める薔薇(そうび)― が正式タイトルだ。
「荒れ果てた庭に日が全く当たらないため、蔓草のようによろよろ と雑草の中で立っている薔薇の木を見つけた主人公は、この薔薇で自分を占ってみたく思う。「薔薇ならば花開ん!」と。つまり、彼は、この痩せ細った薔薇 に、己が姿を見ていたのである。」
ということで、荒れ果てた庭に咲く病める薔薇がひとつのテーマとしての点景になる。

今もかつて読んで描いたこの小説の世界が脳裏に残っている。19そこそこの頃の自分の受け取るものでは、風趣に富んだ田舎の家での文学に耽る雰囲気だけを味わってよしとしていたものと思う。今も本棚に失くさず持っていた佐藤春夫全集を開いてこの小説を読み始めてみると、かつての若年の夢想世界だけでない、作者の描き出した人間の現実の部分の方が表現上勝っているのが解る。
読み手の置かれた人生経験上の重みを経てから読むのと、そうでないまだ青き自分が読み込む内容は、これほどにも違うものかと、歳を重ねることの意味をも含み、改めて感じ入るものがある。

だが、もうひとつ、今の自分からはこの作品の文字面を追っていくのは、読み始めの頁をめくる毎に無理を感じはじめる現実がある。やはり、現代の表現ではないこれらが、懐かしく思う以上に、あまりに描写がくどく、ごてごてし過ぎてスマートな世界を脳裏に浮かべていくことが苦痛なしろものに思えて仕方がない。
そこに登場する人物の内部や、それを書く作者の思惑や意図などがあまりに露骨に感じ取れてしまうのが、面白みを失わせていることもある。

やはり、読みたいと思える内容や感覚というものも、時代とともに確実に変化しているものだということと、自分自身の興味を持てる対象というものの変化も大いに、このような過去の作品を再読することで見えて来るところがあるものだ。

昨今、若年の頃の愛読作品をもう一度、今の意識で読んでみたいという欲求がある。当時、読みきれていないものがあまりに多いのではないかと、今、読めば、きっとまったく別物の作品観が生まれるのでは、などと思うからだ。
だが、色褪せた文庫本の棚からいくつか選んで目を通しても、やはり読み通すことはどれも不可能だ。もはや求めるものがそこにない意識が強く、回顧趣味にはまることもなく、生き々した先進の感性を感じ取りたい欲求には、とても応えられるものではない気がしてしまう。
意識や魂、過去生やカルマ、闇意識のあれこれを垣間見て来てしまうと、この世界の成り立ちの奥の奥の陰謀の存在をも暴かれつつある現在では、あまりに過去の作品は、時代が開かれる以前のものでしかない気もどこかするのだ。
それだけに、この2、3年の時代動向、人の意識の内的な変動というものは、表からは際立ってわからずとも確実にタイムシフトが起こっている気がするのである。

そんなことまで思わせる、夏の庭だった。
“田園の憂鬱”はそれだけにさらに新たに深まる我が思いだ。
田園で憂鬱を思うのは、この世界そのものの行方にほかならない。


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by martin310 | 2014-07-14 15:48 | ガーデニング

祝:台風一過、湖畔でコーヒーブレイク。本栖湖一周ポタリング。


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またもや前評判のあまりに高かった巨大台風8号が、列島に近づくにつれ、みるみる巨きな目玉をどこかに隠して、型崩れも甚だしく、見事に無化されたように形なく崩壊し、大げさな報道から肩透かしを喰ったように、お蔭様で我が家の地方では何でもない小雨の夜になった。
毎度のようで、はなから何もしなくても行過ぎると踏んでいたところから、まあ、思ったとおりでよかった訳で、お蔭で我が家の夏の庭にもまったくの被害なく過ごせたのは、それでもいつもの年より荒れ方が少なくて幸運だった。荒れているのは、例年なく植物の生長の度合いが高く、背丈も量も伸び放題に伸びて、頭の重みに堪え切れずにあっちこっちに首を振ったまま倒れ掛かっているのが、なんとも乱雑感はなはだしく見えるのだ。これ以上、強風と豪雨の洗礼を受けたのなら、もう、後になっても手のつけようがない廃園のようになったことだろう。

翌日は打って変わっていわゆる台風一過、梅雨空も勢いよく吹き飛ばされて、しばらく拝めなかった蒼穹が天に広がった。こういう日は、過去もそうだったように、光の具合が限りなく明るく冴えて見事に風景は強いコントラストの中で色鮮やかに輝くはずと見て、ちょうど有休にあたった今日、絶好の撮影日和を高原の湖水に焦点を合わせた。
実は、前日からそれを予想して行き先を練っていたのだが、最近、新調した折り畳み自転車を車に積んでの輪行との一石二鳥を狙って、富士五湖のひとつ、本栖湖の湖岸を一周するコースを選んだ。

この湖岸の一周道路へは、思えば今年の極寒のまだ林間の道路が凍結している頃の1月以来だ。厳冬期の一周は、大胆にも全工程徒歩で周った。周囲12キロものウォーキングはかなり堪えた。午後から歩き始めて思ったより時間がかかり、車への帰還が日没間近になりライトも持たずに出ているので危ういところだった経験がある。
なので、今回は一応小さいながら自転車行にした。

●冬の湖水を歩いて。(澄み切った大気のなかで見えて来るこの世のマトリックス)[2014/01/30]

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タイヤはなんと16インチで、6段変速ギア装備ではあるものの、スピードは至って遅い。遅いだけにそれがいいのだ。なにせ、ゆっくりゆっくり景色を堪能できるし、撮影ポイントの発見もしやすい。すぐに止まれて、片足ついたままカメラも向けられる。車体は軽量なので、持ったまま湖岸にも降りられる。

a0282620_2175043.jpgということで、絶好のコーヒータイムポイントを見つけ、道路から藪下の石交じりの砂地の湖畔に降りて、ドリップ用のお湯を沸かした。
美しい湖水と緑の山と、白雲の浮かぶ大空を眺めながらのひとときは、また味も格別だった。

折り畳み自転車というのは、今まで乗っていたクロスバイクのように大型でなく、速過ぎることもなく、車に2台積載するのに専用のキャリアで外部に吊らなくていいのがいい。ツレのと2台が余裕で室内に積めてしまうのだ。
これで先回は、下田の街を探索した。狭い路地でも平気で入れ、どこでも停止、また進むことが可能で、場所も取らず置け、超ゆっくりスピードで航行できるのがgoodだ。
古い街並みを見ながら愉しむには打ってつけの乗り物だと思う。もちろん、歩くのもいいものだが、あまり持久力が持たない場合は、やはりサドルに座っての移動が可能な自転車というのは、土台疲労度が違う。かなり有効な距離を周れる利点がある。
今後また、どこか車で移動後に、自転車に乗り換えての街巡りというのも考えたいところだ。但し、あくまで坂道が少なく、平坦であるところが条件だ。なにせ、まったくサイクリストではない柔な筋肉しか付いていないのだから。


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by martin310 | 2014-07-11 21:10 | サイクリング