伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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「これが君の知る世界だ」―神経相互作用が創り出した虚像の世界―、だから君もゴーストなのさ。


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例えば、
二車線どうし行き交う車列のただ中にあって、同じ方向へ同じスピードで移動していく流れに沿うて自分も自然に紛れながら・・・。
駅の出口から吐き出されるように次々と各々の方向へ無言に歩いていく人の群れを見ながら・・・。
巨大パーキングに並ぶ車の群と、眼前に聳える町ひとつが全部入ったような巨大ショッピングモールの異様な人工的建物群を眺めながら・・・。
そこに点景として見える人の姿に視線が吸い寄せられていく。
なにものかの物を求めて入り出る人、人、人を眺めながら・・・。

そして郊外に伸びる高速の高架を疾走しながら眺める、谷から丘までびっしりと隙間なく建ち並ぶ住宅群に目をやり、その地形の表面を貪り取るようにしてマイホームの儚い夢を実現したそれらの多種多様な家々の半無秩序な集合体の周囲の山々との異質さを感じながら・・・。
目をそれと反対の方角に向ければ、視界の中の陸地が消え入る海の前まで、夥しい数の白けた建物群が広大にひろがる都市部の反自然な景観が雲の下に伸びている・・・・。

これはごく見慣れた風景ではあっても、だがしかし、まったく予期せぬ別の世界に入り込んでしまったかのような、理解し難い光景でもある。
そこには、なにものかの生きて生息している気配はあっても、実在する命の光が放たれ合っているような真性の生きた世界のようには感じ取れない不安が生じる。



a0282620_1049257.jpg最近つとにこの目の前に広がる世界が、確かに三次元的には存在することに疑う余地のないものなのだが、しかし何かが空虚で実体のないまるでイリュージョンを見ているような気がしてならないことがある。
特に、そこに点景する人々に視線を合わせていると、まるで摩訶不思議な別の世界を見せられているような、ある種のゴーストのようにも思えてしまうことがある。

別に意識がおかしくなった訳ではないのだが、見る側の問題として、今までてっきり実像だと思い込んでいたものが、実は実像のように見える虚像を実像として認識していたという、新たな発見の文脈が、自分の認識のフィルターに一枚噛んだという具合なのかもしれない。
あまりにあたりまえの光景に過ぎないのは重々承知しているが、それでもこの見えている世界は、この現代というリアルな現実界の現前する現実そのものであるのが、ただ一過性の現実というある狭い可視領域におけるホログラムのように、あまりに手応えのない空ろな表象でしかない気がどうもしてしまうということなのだ。

簡単に言えば、
何度も引用するようだが、彼の大ヒット映画 『マトリックス(The Matrix)』(1999) のこのシーンが象徴的に示すように・・・。


"The Matrix" (1999) -- 'Construct' Scenes
https://www.youtube.com/watch?v=AGZiLMGdCE0


   モーフィアスはネオに語る。
  「現実とは何だ?」
  「明確な区別などできん」

  「五官で知覚できるものが現実だというなら――」
  「それは脳による電気信号の解釈にすぎん」

  「これが君の知る世界だ」
  「20世紀の世紀末世界」
  「神経相互作用が創り出した虚像の世界」
  「マトリックスだ」

  「君は空想世界にいたんだ」
  「これが今 存在する現実の世界だ」

  「ようこそ――不毛世界へ」


  「人間は誕生するのではなく――栽培されるのだ」


  「マトリックスとは?」

  「支配だ」


この映画はメタファー(隠喩)や暗示に満ちている。それと物語的に事実の置き換えを多様して、真実の世界の認知のヒントを散りばめてある。つまり観ようによっては深遠な真理を読み込むことができるように高度な知性でつくられている。また、置き換えの必要性は、でなければハリウッド映画のハリウッド映画たる意味をなさないからでもある。「彼ら」は至るところに秘密の餌をまいておく。秘密の欠片があることで、秘密が秘密の輝きを増すのを愉しんでいるかのように。

AI(人工知能)による支配の仮想世界とは、置き換えればそのまま「彼ら」になる。もちろん実際にAIも彼らの手先のひとつだ。


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ここで言うゴーストとは、
つまりは見た目は誰もがそう認識できるように、自分がそうであるように人もそのように人であることには違いがない。どこをとっても、どこを見ても人の姿をしている。(多少、時代の豊満さが肉体の怠惰な形態にも及んでいることが多いには多いが)
だが、
大概の人を見ても、そこに魂の実体を見ることができないのは異常なことだ。
希薄な意識で肉体の活動はしていても、それはどこか現実による条件反応のように虚ろな実感しか受け取れない。
まるで、スマホ世代のバーチャル世界のように、ただ漠然と電脳的だ。
事実、その為にスマホが大々的に導入されたのもかかわらず、まさにスマホ的な刹那の実体しか生命波動がしげく乏しいのではないか。

a0282620_10505156.jpg『マトリックス』の中で描かれる“人間電池”というメタファーはまさにここにあらわれている。左脳の思考を停止させるアイテムを駆使して、事態の想起によって引き起こされる感情や情緒反応を喚起されることだけに使役されていることに気づくべきだ。ただ生ける感情体として、不安や恐れのエネルギーを生み出す家畜の群れにされているのだよ、ネオ。

右脳は激しく隠蔽され、直結する魂への回路を寸断され、もはや「彼ら」のすべてを透視できるであろう「霊性」を完全に凍結されていることを知らねばならない。同時に、魂と同期するDNAの人為的改変のあらゆる手を、まったく見破る知も持たず、ただ闇雲に体に流入するあらゆるルートを無思慮に開放したままにしている事実。
口からも、皮膚からも、水からも、大気からも、波動からも、五官を欲望の虜にさせて、何の障壁も持たずして「彼ら」の毒を受け入れることに、もうここで気づかねばならない。

情報をいつでもどこでも得られることで、思考という最も活性化が常に必要な脳内活動を放棄している。しかも、その影で、どれだけの脳の破壊と意識の封印を促す悪しき波動群が、視覚と聴覚を中心に怒涛のように流入してきているかを知らなければならない。これは単に、電磁波の危険性のような単純なしろものではない。脳から魂を直撃し、本来の人間という個としての神の分霊を破壊するシステムであるのを認識すべきだ。

こうやって三次元的な社会システムの隅々まで“マトリックス”が浸透するのも当然のこと、人の脳内、意識、魂まで侵していくことをも知らずと、虚像のような世界にゴーストの如き人生の幻影を生きるのは、まったく受け入れ難いことだ。

だから、こうして地球のオリジン、原初の自然を喚起するようなエネルギーを保持する場へ出かけて、しばし心身の霊性的滋養に供する気になるのである。


これを読む君は、新たな「ネオ」ではないのか?


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by martin310 | 2014-08-28 10:52 | 日々の思索ノート

地球の片隅で、絡めとられたグリッドの隙間から天を覗く。


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「彼ら」の地球支配は、まったく今に始まった訳ではないのは周知の通りで、血族として家系を成していったのは、一説にはシュメール文明が中央アジアに拡大していったバビロニア文明のあたりらしい。そこから欧州の王族・貴族と広く通婚を介して王侯貴族の血族ネットワークとして、宗教組織を隠れ蓑に秘密結社をによる世界的なクモの巣ネットワークを確立していった、という感じだ。今では地球のあらゆる分野のピラミッド構造をを占有し、グローバルエリートとしてすべてを牛耳っていることはもう、あちこちの情報源で紹介済のことだろう。

だが、この地球外から来た支配者は、この現在につながる有史時代以前の超古代文明の頃からのおなじみであるのは、この世界自体が光と闇の二元性の世界であることに違いがないだけに、何度もの地球文明の崩壊と消滅のおおもとになっていたのは言うまでもないだろう。
闇は限りなく遠い昔から存在していたということだ。人間という種のDNAの改変にもあたっている彼らは、まあ言わば、この地球が彼らの大の遊びの場なのだろう。星も人間もすべてを弄んで思い通りにするのを愉しんでいるのだ。

a0282620_1451163.jpg特徴的なのは、彼らの特製ハイブリッドは、我々と姿形が見紛うことなきように見かけはまったくの同質につくられていることだ。だが、時に二重のコードの反対側に比重がかかると姿がシェイプシフトしてしまうことがあるようだが、意識はまったく驚くほどまさに「闇」の最大の特徴そのままのようだ。
「彼ら」の主体はこれらの「駒(コマンド)」を使って三次元の仕組みに沿ってこの世界操作する。主体は次元を異にするので、最も同調し入り込みやすい「駒」を使役して三次元現実を動かしていく。だから我々には、その「駒」、しかも「駒」のまた手駒、しまいのパペットしか目に出来ない仕組みになっている。

「彼ら」の主体が求めるのは、「駒」の「彼ら」が欲する三次元世界での支配力や金やそのほかの欲望ではなく、自らの力をより強大化する為の闇のエネルギーらしい。それを我々、彼らからは奴隷とする人間たちの恐怖の生み出す負のエネルギーを餌にしている。
馬鹿ばかしくも、我々は彼らの「駒」によって引き起こされた戦乱や大災害や大事件や大恐慌によって生命の恐怖を掻き立てられ、生きる為にすがるものを求めてそれぞれが吹き込まれた信仰体系によって踊らされ見事に騙されて、ただ、闇雲に無力な子羊となって想念の生み出すエネルギーだけを奪われていくのだ。
もちろん、三次元的にはエネルギーだけに留まらず、労役から収奪され、命まで彼らの思いどおりにされる。まったく知れば知るほど呆れたシステムだ。

それもこれも、この巨大騙しの坩堝システムに取り込まれていたのは、少なくとも今生だけでは毛頭ない。過去生や分け御魂のいくつもの過去の人生の一端は、「彼ら」の伝統的アジェンダのストーリーの領域内にあったのも事実だ。
何度もの死に、「彼ら」との関連を見逃す訳にもいかないほどだろう。
特に、個としての固有の魂のテーマにこの二元性世界の問題があるのならば、必ず何度でも「彼ら」はそこにいたはずなのだ。
だが、惜しいのは、過去の人生においては、今生ほど「彼ら」の実態を捉えられたことはなかったことだ。
それだけに今ほど、地球の封印された秘密が開示された時代はないということだろう。
それはある意味、画期的なまでに、今までの長大な「闇」の時代のステージの種明かしが行われていると解した方がよさそうだ。つまりは、ここまで情報のパーソナル化が進むのと同期して、この人類意識の抑圧と無知の暗黒時代から、次なるステージへ移行するさきがけになるのは、たまたま偶然という話ではないということだ。

a0282620_145213.jpg超高度に人類意識のマインドコントロールが完成していれば、誰もここまでの極秘情報まで手に出来るはずはない。どこからともなく漏れ出て、次々とパズルピースが揃いはじめ、それをテキストとする現実のニュースも露骨に見られて来るに従って、気づいて覚醒してくる意識者も増加しているはずだ。
また、ここ2、30年の探究結果が総まとめとして世に提出されて来ることも、十分その助けになると同時に、密やかではあってもそれらを共通認識とする先駆的認識者の数もワールドワイドに増加して来るはずだ。

「彼ら」の支配をこのまま予定どおりに完結させない為に最も大事なことは、常に「彼ら」の主体、本体へこれ以上、餌としてのマイナスのエネルギーを供給することをやめることだ。それはほかならぬ、我々の自己の裡なる強敵、「恐れ」を強化しないことにほかならない。
それには、随時、「彼ら」の次なる行動を監視し、策動を見破り、それに一切乗らないことが賢明だ。
今まで、いくらでも騙されて来たことから経験則を学び、「彼ら」の手口を知り尽し、表に見えるものから裏を知ることで、事前に計画を見破り、事が起こされても感情を乱されないことだ。

そして何よりも、常に自分の中心に自分がいることで、自己の主座を奪われないことと、恐怖や失望、疑念などから力あると過信するものに依存したり、帰依したり、信望し過ぎたりして自己の力を放棄しないことだ。
自己の中心軸は、まことの意識から宇宙の中心へつながっているのか、絶対なるグランディングあれば、闇に例え揺さぶられようとも意識に侵入を許すものではないはずだからだ。
無知と抑圧のマトリックスから抜け出るには、まず、揺るぎない自己の確立をもってからだろうと、それぞれがそれぞれの場において、日々の心の研鑽を積み上げていくことと思うのだが・・・。

意識を持てば、そこへ導きの光は降りる。
見えなくも確実に、大いなるものの天啓があらわされる。


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by martin310 | 2014-08-26 14:06 | 日々の思索ノート

サルスベリの咲く盛夏。<夏の庭を眺めながら、イメージ記憶と現実のループを思う。>


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おぞましい地球支配の世界を探訪していると、どうしてもその反作用として平和、平穏、平安な世界を志向し、もとの安心、安逸な日常に意識を向け、そこに浸っていたい心持になるものだ。
幸運にも、そこに自分が少しずつ築いて来た愛すべき日々の穏やかな暮らしがあることで、この身近な世界を写し取っておきたい衝動にかられることになる。
このページを何度となく訪れられる諸氏には、あまりに目にする頻度が多く、退屈するほど登場する我が庭の光景などを拙文に加えて、長々とした文字の羅列にいくらかの彩で視覚の飽きを埋めてもらいたいとするところだ。


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8月の庭は、繁りきって荒れ気味な光景が占領しているなかで、ひとつ突出した色として息を吐いているのが、濃いピンクのサルスベリの花だ。
毎年、冬場には膝丈ほどまでも小さく枝を刈り込んでおくものの、この夏場には、ご覧のとおり背丈以上の大きさに、たわわな花の穂をつけ、夏風に揺れている。あまり完璧な花の出来でないのがこの花の特徴で、どこかが盛りだと、どこかが衰亡していて、それが枝穂のなかに同居しているような姿がある。
緑の階調ばかりの光景の中に、ピンクのやや派手すぎる色調はおおいにアクセントにはなるが、花の色的にはそう品位がある方でもないように思う。
それでも、ほかに秀でた夏の花がないだけに、今やこのサルスベリが我が夏の庭を取り仕切っているかのようだ。


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a0282620_17575841.jpg最近ふと思い出したのだが、今から遥か遠い過去、そう、小学校の頃、担任の教師がいやに少年少女の合唱に凝っていたことがあり、当時よく、時間の空いたとき、教室で合唱曲を聴かせることがあった。もちろん、レコードだが、厚いLP盤はもちろん、ソノシートといって薄いプラスチック製のEP盤のときもあった。
かけるのは決まってウィーン少年合唱団のものが多かったが、それを聴いているときは机に頭を伏せていていいことになっていた。なかには、それでいいBGMとして熟睡する級友もいたようだが、自分はけっこうその時間が好きで、心地よい西欧の音楽を聴きながら脳裡に映るイメージを見ているのが心地よかった。

そのとき映じたイメージの中で今も記憶に残っているものがある。おそらく他は忘れてしまったが唯一記憶に留まったのは、それが将来の自分の家であり、マイライフそのものを象徴するものだったからではないかと思う。
耳にしている音楽が西洋音楽だったからか、未来の自分の家はどこかフランスの郊外の樹木の多い閑静な場所のようだった。道路に面した大きな樹木のある洋風の住宅で、横張りのペイントされた外壁に、鎧戸のある木製の窓が特徴的だった。静かな森の一角で、車で帰って来て妻の待つ家に入って行く。
とても満ち足りた平凡だが幸福な世界だった。

a0282620_17593183.jpgそんな記憶を取り戻してみたとき気づいたのは、当時見たイメージとの詳細は違えども、大筋では今の住まいにかなり近いのではないか、という感慨だった。
道路に面して静かな場所で、生垣は緑の鮮やかなコニファーが背丈を伸ばし並んでいる。そこに北欧の木造建物の屋根が見える。家人の待つ家に車で帰り、そこには質素だが満ち足りた幸福な日常がある・・・。
そうだ、あんな幼い日に音楽と共に脳裡に映じたイメージにほど近いマイライフに、実際、こうして今、様々な紆余曲折はあったものの自分は手に出来ているではないか。いや、逆に、当時まだ未来はまるで未知数で想像だに出来なかった幼き日に、既に今を予見していたのかもしれないなどと、手前味噌に思ったりもした。
イメージングが実現するというは、まんざら嘘でもないかもしれないが、あの日、少年の自分が見た世界は、こんな今の現実を生み出すもとになっていたのかもしれないと思うと、ウィーン少年合唱団の音楽が引き出した意識の誘導瞑想は、そのイメージだけが数十年だった今でもリアルに記憶に残るほど、自分にとっては意味ある贈り物だったのかもしれないと思うのだ。

a0282620_175804.jpg平和な美しい音楽が持つ力は、案外、知らないところで聴く者の潜在意識に作用しているのかもしれない。そして、純粋無垢な頃に耳にした音楽の意識への浸透力は、生涯にわたって愛と調和の世界の基底をつくるもとになるかもしれないと思った。
それとその後、学校の映画鑑賞ではからずもウィーン少年合唱団が舞台となった「青きドナウ」(原題“Born To Sing”)というアメリカ映画(1962)を鑑賞した。そのとき、我が魂は感涙にむせび泣いた。後年、そのときの反応は、おそらく、過去生があったと思った。あの寄宿舎生活と練習の日々はどこか意識の底で知っている気がした。

物事は不思議なつながりがあるものだ。
個々のパズルピースを組み合わせてゆくと、後日、ひとつの絵になることがある。
それも皆、予期せぬ意識が果たす不思議な力なのだ。

夏の庭を眺めながら、そんな記憶と現実のループを思い返していた。


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by martin310 | 2014-08-21 18:01 | 日々の思索ノート

「ハイジャックされた地球を99%の人が知らない」 自分的覚書。知ることは識ることにつながる。


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8月9日の記事『真夏の湖畔で思うこと。・・・「ハイジャックされた地球を99%の人が知らない」』
で記したように、この“デーヴィッド・アイク”の出たばかりの新刊をさっそく読み始めた。
a0282620_2231338.jpgかなり分厚いこの本の3分の1ほどしかまだ読み進めてはいないが、アイクの過去20年来の活動の集大成的な濃厚で肥えた内容のこの本は、これでまだ上巻というのだから上下巻合わせたその全分量は、内在する情報量とともに壮大なものになりそうな気配だ。
実際、彼の著作を初めて目を通しながら、その随所に彼の体験をベースにした革新的な主張が、それに同意できるものを感じながら愉しめるのは、ひとつの驚異であり、かつまたそれは知的興奮でもある。

今まで自分の脳裡に漠然とあって、形を成さないものや、うすうす概要を推察していたようなものに、実に的確に論理的、合理的な形を与え、誰もが自然と読み進められるように巧みな文節に仕立てられてあって、さすがアイクの今までのキャリアと進化がそうさせる技を自在に駆使して書かれているものだと思う。おそらく訳者の力量にもこの本は十分成果をあげられている気もする。

a0282620_2234357.jpg三次元の現象界(彼の表現法では「可視光線の波動領域」という)を超えた世界でのいわゆる神秘体験をもとに、我々の存在する外の世界での真実をリアルに描く彼の手法は、あまりに曖昧模糊とした非現実の世界の様相だけあって、なかなか文章化する作業は困難さを伴う訳だが、彼の手を経ると難なくするっと読み過ぎていくことが出来るほどに、引っ掛かりなく、無駄のない文脈になる。
それも初期の頃、あまりに一般人の信条体系とかけ離れた話をしていた彼が、散々相手にされず拒絶され、気違い扱いまでされていた逆境を乗り越えて、洗練し、熟慮し、組みなおして来たその先に行き着いた表現法なのだけに、何気ない言葉の裡に彼の純化と深度を感じるところだ。

知るところに拠れば、彼に先んじてもたらされたこの世界の隠されていた真実の姿は、当時はまったく相手にされないたわごとの類にしか理解されない突飛な情報であったものが、10年20年を経過して、まさに現実の世界に歴然と姿を露にして来ている事実は、“陰謀論”が奇想天外な絵空事ではなく、現実この上ない超リアルな真実だということが明々白々となりつつある。
それだけに、表だけを見せられていた虚構の世界が、見事、ひっくり返された裏を表に見る時代が益々、白日のものとなって来ている。


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ページをめくりながら珍しく付箋を貼っている自分がいる。それほど明快に真実を解き明かし解説している箇所が多いことを示している。後から分厚いページから探し出す手間を思い、または引用の可能性を感じて印を付けているのかもしれない。徐々に付箋の数も増えて来た。
だが、ここではひとつひとつ引用しながらの自分なりの解説などつけるのはやめにしておこう。それは読む人誰もが、ここから自分なりの解釈を得るであろうし、多かれ少なかれアイクの言説には論旨としては同調する部分もあり、また、決してすべてがこのとおりだとも思えないこともある。
それは、宇宙や現前する世界は、個々の世界観が投影されて創られるものであるし、特に「ある存在」からのインスパイアーにおいては、そのソースに依るものがかなりを成すことが通常であるからだ。つまり、導かれる先の宇宙観が受け手、書き手の宇宙観になるからだ。源はひとつでも元は様々にある。それだけ宇宙は多様であることを意味する。
だが少なくとも、アイクの示すものにはそれ相当な見識と論理に満ちていて十分に刺激的である。できればここに明らかにされた、その先を知りたいと思う願望が生ずる。だが、それは「自分で探せ」ということだろう。
アイクの積み上げた知見をそのひとつとして、自分自身が実体験から得た自分なりの概念図を持ち、オリジナルの研究書を脳裡に描ければ、それが自分独自の世界観になる。

実際、人は個々に自分の実人生を使って生きる意味の星図を描くことに意味があるのかもしれない。何よりも、自分の身に起こったこと以上にリアルなことはないし、その体験から汲み取れるものこそ、自分が切り開いた真実の実在であるからだ。つまり、各々が各々の真理への扉を持っているということだ。
おそらく、その為にひとりひとりがいるのであろうから。


a0282620_2235633.jpgまだ読んでいる途上でありながら、その先の目次で示された概要を鑑みて、ではいったいなぜにこのような地球支配が行われているのか?という、全体を展望した上での究極の問いが残る。
現実に、我々の今にも、彼らの手は確実に忍び寄っている。
もはやあらゆる分野で支配の網の目を詰めている。
今となっては、思想や概念の上だけの対岸の火事を見るような、能天気な傍観者でいる訳にはいかない状況に追いやられている。

この見えない巨大な勢力に対して、自分ひとりはあまりに微力で抗する力さえ持ち得ない。何を手がかりに対処すべきかすら未熟過ぎる。からくりと蜘蛛の巣のように張り巡らされたマトリックスに今頃気づいても、いったい何が救いになり得るのであろうか?

さてそこで対極的にこの状況、ここまで存続して来て未だ終わっていない人類史を見てみれば、自ずとこれはまだ終局に見えて本当の終局ではないことが単純にもわかるであろう。支配征服可能な力を持った者たちが、完全にはそう完結出来ていないのは、完結までのプロセスを愉しむためのものであるか、はたまた完結出来ない仕組みなっているかのどちらかであろうと思うのだ。
いずれにせよ、長大な、あまりに長大な時間を使い過ぎている。そこまで気が長い連中なのだろうか?それとも、時間のスパン自体が我々と異なる尺度なのであろか?
もはや、ここまでエンドレスな時間軸の延長を要するというのは、これが我々の宇宙の仕組みなのだろうと考える。つまりは、彼らをも超えた偉大な創造者のドラマの筋立てがあるひとつのゲームなのだろう。
今まで何度も使っている「二元性の世界」という言葉の示す如く、偉大なる設定されたシナリオが今も進んでいるということだ。
何の為に?
そう、私たちの個々の、集団の、銀河宇宙の、進化の為のすべての要素がここにある・・・そういうことのように思うのだ。
つまりは彼らさえも配役である。
主体はあくまでこの世界に生きている個々人にある。

それ故にアイクは A WAKEN!! と呼びかけるのだ。
by martin310 | 2014-08-19 22:37 | 日々の思索ノート

A WAKEN!! 心身を浄化して覚醒の光で目を醒まさそう! 脳と意識に高原の緑が染み入る。


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これが八ヶ岳山麓の標高1400mを超えた高地のエネルギーである。
晴々とした爽快な空と大気と光とが、いっそう輝かしい生気を聖なる山々に降り注いでいる。

a0282620_22571666.jpg八ヶ岳高原の“美鈴池”まで登ればもうそこは1600mを優に超過する山岳域だ。
地場に帯同する波動の周波数も、天に限りなく近い高次な精妙さと、神聖なる霊妙さを秘めた高密度なものに変わる。
明らかにこの領域では、人間界の無規範に混濁した低次な波動帯域とはまったく一線を画した天上的なエネルギーに満ち満ちている。
自然界の聖なる力が、人間の放出する残留波動を解消させ昇華し、そのパワーバランスは完全に自然界が圧倒的に凌駕している。人の生み出すオーラフィールドは、この大自然の前に実にちっぽけな霞にもあたらない。

人の意識が集合して覆う、グレイッシュな我欲をもとにした分離と混乱に満ちた低迷したエネルギーは、はからずもここまでは対流して来ない。それは固有の周波数が低い分、標高の低い低地の人口の密集した領域に封印されたように停滞する。
人々は地形の窪んだ、都市のつくりやすい平たい地域で、その利便性によって密集し凝縮して緊張し、混淆し惑乱するなかで命をすり減らすようにして生きている。

a0282620_22544979.jpgだからときに、こんな優れて大自然の氣の充満する場にその身を置いて、本然と地球の息吹と共に呼吸したいと身体と意識が求めるのだ。
あたかも細胞のひとつひとつが、氣の活性に触れて、本然の性を取り戻そうと、本能的に自然回帰の方途を求めようとするかのように。

意識は限りなく解放され、まるで環境汚染のように次々と絶え間なく想起されて来る野放図で無思慮な想念の澱は、ことごとくこの緑の刺激の中で息絶え、静寂と沈静のうちに意識の深度を持ちながら現前する自然との対峙が許されてゆく。

呼吸ははじめて、ここに来て深い息に変わり、新鮮この上ない酸素を取り入れて生きていることを意識する。心地よい湿り気と温度とを持った大気の微粒子に中に、命を活性する宇宙からのプラーナを存分に細胞に受け、清新な肉体と意識との高度な均衡が保たれた後には、例えようもない至福の時間の誘導の中に居るのだ。いや、そこには俄かに時間が消える。ただ、確実に「今」に存在する我(われ)だけが在る。


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気づき、感じれば、自然はこれほどの全身全霊なる改新作用をもたらす力を有している。五感を研ぎ澄ませたその先には、次元を超えた超感覚知覚が起動し、言語を超えた何か?も意識に投影されて来ることもある。
頭脳と意識の冴えは、このような清冽なエネルギー作用に身をさらすことで内蔵されたコードが光化し、新たな流露がはじまることもあり得ることだ。Wake up call はいつでも天が用意している。

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この美しい高周波世界と、地平に蔓延する汚辱と欺瞞と権謀と支配と強欲と暴力の血生臭い世界とを敢えて対比させよう。
人間界の波動は、もはや標高を上げて人の気配のないエリアまで退避せずばその汚染領域を出ることはかなわない。「俗」の侵略する膨張力は開発地域を次々に拡大する。人間の数と意識の質が反自然の不調和な波動を増殖させていく。都市化の名を借りたグレイッシュなアトモスフィアは地平を厚く覆い、さらなる低次波動を蔓延させる如く侵略を続けるのだ。

a0282620_22533643.jpgいったい何に踊らされているのだろうか?
何を目指しているというのだろうか?
どこへ行こうと操作されているのか、気づいているのだろうか?
そして、思考を捨てて誰に任せてそれについて行こうとするのか?
誰がどんなことで誘導しているのか、自覚的にいるのだろうか?
地球も意識も脳も、ハイジャックされていることにどれほどの人が気づけるのであろうか?

A WAKEN!!
by martin310 | 2014-08-17 23:00 | スピリチュアル

ベニシア エッセイ 北の自然に遊ぶ (ベネシアさんと砂由紀さんの邂逅)


ベニシア エッセイ 北の自然に遊ぶ -後篇-
https://www.youtube.com/watch?v=d9KV4ILHgUo


ベニシア・スタンリー・スミス(Venetia Stanley-Smith)
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Eテレで放映された「京都 大原 ベネシアの手づくり暮らし」
の動画がYouTubeにあったので、いくつか楽しみながら観た。その中で、ベネシアさんが北海道を旅する企画で、なんとあの北海道ガーデンの象徴的存在の「上野ファーム」を訪れたくだりがある。
上野砂由紀さんとベネシアさんとの取り合わせは、何だか不思議な感じがした。なぜかガーデン分野では、「北」と「西」で独立したものとして思えてしまっていて、京都・大原の里の古民家でハーブを中心に、イギリス風のセンスをもとに日本の古きよきものを暮らしに生かしているイメージのベネシアさんと、北の大地の元農場だった土地に広大なイングリッシュガーデンをつくった砂由紀さんの組み合わせは意外に思えてしまい、考えてみればイングリッシュガーデンでは元を同じにする二人であることにあらためて気がつくのだ。

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上野砂由紀さんといえば、あの倉本ドラマ『風のガーデン』の、まさにその風のガーデンを設計・制作したガーデナーだ。ドラマの撮影が開始される2年前から、倉本さんの要請でゴルフ場跡地を改造して、あの美しい広大なガーデンをつくりあげ、その庭は今でも新富良野プリンスの一角で一般開放されている。
a0282620_11345020.jpgドラマはDVD化されて大分経ってから観て、その世界に断然魅入りられて写真集なども手にし、今の我が家の庭のイメージの大きな模範にすべきモチーフになったことでも、この砂由紀さんの生み出した世界の影響は大きい。
とはいえ、小さな我が庭では、風のガーデンに咲いていた代表的花の品種を出来る範囲で集めて植えて喜んでいるに過ぎず、到底ガーデンなどと呼ぶにもはばかれるほどのものであるのは言うまでもない。
ただ、少しでも風のガーデンの持つ、天上的な風景の残像を身近な庭に留まらせたい希望で、せっせと苗を探しては注文して集めたという訳だ。

ベネシアさんはこの上野ファームのガーデンを見て、すぐさま故国イギリスで見ていた世界を思い出し、とても懐かしい気持ちに感動していた。
気候や土地、土壌や肥料や気温や日照や様々な条件を見て、またそれに合った植物の特性を生かして、適材適所にデザインしてガーデンをトータルなバランスでつくりあげていく。しかも日々刻々、その様相は変化し、完成というものはない、持続的で成長を続ける生き物としての自然との美の形成が、なによりの生甲斐を生んでいくのがよくわかる映像だった。

そして、ベネシアさんのエッセイとしてのこの言葉。
この美しい地球に住む人間として、自然と共に暮らす人として、これらのメッセージに込められた思いを忘れることなく、人は生きていくべきだとつくづく思う素晴らしいものに思えた。


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by martin310 | 2014-08-14 11:44 | ガーデニング

伊豆のハイシーズンは、高原の我が家に居るのが一番。下界の雑踏から離れ、静かに自然のなかに居る幸福。


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さすがにお盆週間に入っただけに、ここ伊豆の主要幹線の国道に出ると、下り線は如何にも普段になく他県ナンバーの車が数珠つなぎに続いている。つい物珍しく、車中にいくつもの人影を乗せた行き交う車のナンバーに目が行ってしまい、あまりに遠い地名があると、思わず「えーっ!」と口ごもったりしている。

普段自分の庭のように半島内のどこをも、足しげく行き過ぎてもう飽きがきているような者からは、どうも、いったいどこを目指してここまで来ているのだろうと、一台一台に訊いてみたい気がしてくるほどだ。
いやそれも、自分たちはレジャーのポイントとなる地は少なくとも興味の対象にないので、案外、情報を探すと知らないところも多いのかもしれない。だから外から来る人たちの方が伊豆の情報通であるかもしれない。

もっとも、出来るだけ人のいなところ、行きそうもないところ、人の手の入っていないところを探して自然の地を目指すので、おそらくこの夏のレジャーシーズンに、山奥の未舗装路の先の、地名も不明なひとけのない川原など家族連れがコーヒーブレイクに行くこともあるまい。川原でコーヒーブレイクの場所は、ひっそりと隠されてあるので味わいもまた格別なものとなる。


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夏の観光の最盛期は、やはり大混雑する下界には下りずに夏草に囲まれた我が家に居るのが一番だ。
夏の庭は、鬱蒼とあらゆるものが茂り、しなびたり、折れたり、倒れかかたったりでかなり乱雑な様相を呈している。ときには陽の強くなる前に、手短に整理したりもするが、風が吹いたり雨がかかったりすればまた、雑然として無秩序状態になる。
しかも、夏の花はごく少ないので、鮮やかな色もわずかでなかなか絵になるアングルもないのが特徴だ。

a0282620_17263356.jpgただ、そんななかでもキッチンガーデンでは、今年はトマトが盛況でずっと長い期間、いくつもの実が順に鈴なりになっている。あまりの実の重さに支柱が耐え切れず、途中から倒れているにもかかわらず、それでも重そうな青々とした実が垂れている。桃太郎トマトもイタリアントマトも出来がいい。
サラダに入れても、パスタに入れても実に新鮮で甘みがあり美味だ。市販のものとは手前味噌でも、一味違う。
近所におすそ分けしても好評で、貸し農園を借りて熱心に作っている人がトマトは難しいといい、うまく出来たことを羨ましがる。
だが、そこに人より優れた手腕があるならそれも悦に入るだろうが、ただ畑の土を入れて施肥をして、苗を植えただけの自分の作業には、人にその効能を示すだけの内容がまるでない。勝手に自然がやってくれていることで、何もしないのにいいものが出来る。これはおそらく魔法だろう。
確かに今までもトマトは病気が多くて閉口したことが多い。こんなに手つかずでよく出来たシーズンも珍しいかもしれない。
まあ、幸運も今年だけで、連作はあまりよくないというから、来年はこうはうまくはいかないかもしれない。

a0282620_17264429.jpgキュウリは数こそあまり出来なかったが、味は上出来だった。穫り遅れて瓜のようになったものでも、大味にならずに充分食べられた。大抵は漬物にして食卓を飾った。
オクラもなかなかよかった。なにより穫りたてで新鮮さが違う。シャキシャキしていて食感からして違う。

やはり、無農薬はもちろんのこと、自分の住む土地で出来る食物は、光も空気も水も自分たちが育まれているものと同じで、それらを滋養にして育ったものをいただけるというのは格別のありがたさがある。
植えたときの小ささから、ずっと見てきた植物が、姿を変え大きさを変えて育っていく様、そして食物として命を与えてくれるのを実感することは、なによりも増して自然の素晴しさを身をもって体感することだ。

a0282620_17265920.jpgこんなあたりまえ過ぎることを、知として知っているだけで、体に身につけていない現代人にとって、例えそれがわずかなものでも、自分で自分の食するものを育て、それを口に運ぶまでの体験は、元始の人間のありかたを体得する上でとても大切なことに思う。
あまりに人為的に加工され、商品化され、パッケージ化されブランド化されたものばかりに取り込まれた現代の生活システムは、この元始をあまりに忘れ過ぎているきらいがある。
「農」に回帰するほど大袈裟なものではなくとも、命の糧を自分で育てる体験は、万人に必要なことであり、それがもたらす知を越えた実感こそが、自然とのつながりを回復することに結びつくような気がする。
自然への感謝といつくしみは、決して観念ではなく、日々の実感がそのもとになる。ありがたさを持っている人間は、決して破壊行為には向かない。


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by martin310 | 2014-08-13 17:29 | 田舎暮らし

山上の湖水、蒼き水底(みなぞこ)に精神の森厳な神域を見る。秘めたるものの声に。


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穏やかな日、夏の湖は晴れやかな大空のもと、静謐な蒼い水を湛えていた。

まるで遥か古代、この湖が出来た頃の地形そのものに、GEOな存在感を歴然と示しているようだ。地球の造山活動が生んだ山稜の窪みに、湧水と雨水が流れ込んで深い聖水を湛えた湖を形成した。汚すもののない湖水は、古代の凄烈さそのものに有数の透明度を誇る清らかな水底(みなぞこ)を今も見せる。

湖の蒼さは、自分の最も好む精神性の色だ。湖底の深みや山の影、森の映る翳りの持ついっそうな深い蒼は、さらに精神の純度と深度との聡明さを示す視界のシャドウを受け持つ。天上は爽快に展がり、際限のない世界の奥行きを感じさせる。大空を渡る白い雲は、目に写る額縁の中に光をもたらすハイライトだ。
湖畔の道をゆっくりと移動しながら、この景観の角度が変わっていく様を愉しみ、深い森が押し迫る山の端を切り掛けた周遊道の林間に分け入って行く。
湖の縁を巡ることは、自分の精神の静まりに沿ってそこにたちあらわれる様々な回想を検分していくような行為に思える。過去の経験が一様に整理され、今の自分をつくり得た必須の要素だったことに、ひとつの落ち着きを見ることがもたらされる。
湖畔の小さな旅はある意味、心の“断捨離”なのかもしれない。


a0282620_19241551.jpgこんな平和で穢れなき美しい世界を眺めていると、この視界域だけに留まらぬその先に無限に拡がる世界全体まで考えなくば、まったくの限られた安全圏に居る自分しか見出すものがない気がしてくる。この世界は、それほど近視眼的な視野でお花畑化できる能天気な場所ではない。世界は闇と汚辱にまみれている。知れば知るほど馬鹿ばかしくおぞましい世界だ。

その世界を制しているものは、還元して最も単純化するなら、それは・・・あきらかに「欲」というものだろう。それが人間のものか、人間の姿をしている別の世界から侵入しているものかはあっても、どちらにしても「光」と「闇」の二元性の宇宙における「闇」そのものの意識傾向がこの世界を牛耳っていることにはかわりはない。
「支配」「収奪」「コントロール」「殺戮」「「破壊」「奴隷化」「隠蔽」「騙し」などという語句は、闇の世界があってこそ生み出された用語であって、光で一元の世界では当然、カテゴライズされる言葉ではない訳で、この今にはじまったことでない有史以前、さらにもっと古い超古代からの文明のどの世界にも共通して存在支配してきた平和とは真逆の対立項だ。

この長大な歴史の期間、何度も何度も文明や国や民族の崩壊や消滅を、大抵今を生きている意識的な人たちは、それぞれの魂の転生の歴史に刻んで記憶していることだろう。それらのおぼろげな遥かな魂記憶がある為に、今生でも世界の在り方に対して真摯なまなざしで向き合っているのだろうと思われる。
自分の身、家族の身、親しき人たちの身を思うからこそ、それを不条理に理不尽にも覆し破る宿敵の存在に注力することになる。無意識裡にも、過去の何度もの非業の死を繰り返さない為にも、平和をまさに渇望する気概を胸に秘めているはずだ。

おそらく、魂の奥に刻まれている恐れのトラウマを生んだものは、この過去の転生時代に味わった心の深傷が疼いて反応するのであろう。何度となく闇に潰され、無に帰した経験を積み重ねているはずだからだ。
そういうものを自分の裡に見ている人は、同時に、その加害対象である「闇」というものの存在自体を感受する能力を持っているはずだ。察知する感性を保持しているというのは、誰の意識にどう在るのかも見て取れることだろう。
だから余計に、この二元性世界の対立構図というのが鮮明に解析できて来るはずで、世界で起こる事象を知るにつけ、その内部に巣食う闇の温床が垣間見えて来る。
それだけにまた、この世界のよき姿がまた遠く隔たるというのも、深い溜息とともに甘受しなければならない現実でもある。

「光」とは愛であり、善であり、真(まこと)の道であることは、宇宙の理としてこれらの人たちはわかっていることだろう。何よりも、その意識を集合させて御魂をつくられているはずだからだ。
この想いに触れるものは、胸の奥にある魂の座が反応を起こすだろう。
本当の愛とは、そういう天然自然な無償なものだ。
だからあまりたやすく言葉にしたくはないが、常に胸の奥にはひっそりとあるものだ。
山上の湖水のように、ひっそりと秘されて確かにそこにあるものだ・・・。


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by martin310 | 2014-08-11 19:25 | 日々の思索ノート

真夏の湖畔で思うこと。・・・「ハイジャックされた地球を99%の人が知らない」


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夏の限りなく明るい光と、湖水の澄明なさざ波は、沈静的な意識に研ぎすますような純化を与える。そよ吹く風の小さなそよぎが、湖面の繊細なディテールを多様に変えることで湖上を過ぎ行く風のありかを表すように、湧き立つ思考のそれぞれにキメ細かい陰影を添えるように鮮明化していく真昼の湖畔・・・。
熱い陽射しを少しでも避けるように、わずかに出来た木陰にひとしきり佇めば、どんなにか涼しい心地になるかを明らかにする木陰のありがたさをしばし感じて、遥かな対岸を黙して眺める・・・。



a0282620_22345581.jpgさて、ネットでデーヴィッド•アイクの新刊が出るのを知った。といっても、今まで彼の著作は一度も読んだことはないが、今回のものは何か虫が知らせるのか、どうも気になる。<内容紹介>はここにあるが、この箇条書き文だけでも充分、興味を惹く。
特にこの部分。「銀河中心から発信される太陽経由の《真実の振動》情報が歪曲(ハッキング)され地球へ。意図的に用意された無知と抑圧の時代が、今。」というところ。
この部分はどうも、最近自分も思うところがあり、細かな内容は知らねども、どうも共感するような感じがある。

確かに、このブログ上でも何度か光の降下などということを感じ取って、その都度記して来てはいるものの、どうもその光が深遠な覚醒をもたらすような深度を持っていないというか、裏打ちするような叡智が盛り込まれていない気がしてならない。
本来、もっと次元を超えてインスパイアーされるものがあるはずなのだが、全体を見回しても革命的な理知が降ろされたという感じが薄い。特定の超感覚保持者の受信状態にしても、あまり芳しいものを感じないし、ましてや、人類の集合意識的にも覚醒の歩みは実に乏しい気がしてならない。

a0282620_2236626.jpg地球全体が低迷する意識の檻の中に閉塞されているのは、2000年以前とさほど変わらない気がする。その頃とはもちろん異なる事象はいろいろと出て来てはいて、決して状況は同じではないにしても、未だ超然と飛び抜けた先覚者は出現出来ない状態にあるようにも思う。
それは、何かによって光の情報ルートが遮断されているのはもちろん、わずかに漏れ出て届いたものでも歪曲と変形が多く、誤動作しかねない信頼に足るものでもないように思えてしまうところがある。傾向として、旧い時代のものとそれほどヴァージョンが更新されたようでもないのではないかと見えてしまう。

そんなところからも、どうも光の情報網がハッキングされ、無知と抑圧の時代性のマトリックスに閉じ込められているのは同じなのではないかと思っている。
おそらく、この微々たる進歩をこのまま続けていても、現在の意識の牢獄のような地球環境(固有振動数)は決して改善されるはずもない気がするのだ。これではせっかくの闇の収束が促されているのに、人類意識の覚醒状況がいっこうに上昇機運に乗らないのであれば、この先、何度転生しても意味がなく世界は変わらない気がする。

きっとそこには「銀河中心から発信される太陽経由の《真実の振動》情報」を地球人にもたらさない重要な障害、障壁があってそれを解除しない限り、この闘争と殺戮と強奪と奴隷化の世界は変わることがないのではないか・・・、そんな風に思えることから、そのヒントを探したいのだ。
さっそく予約注文して、読み漁ってみようと思う。
by martin310 | 2014-08-09 22:36 | 日々の思索ノート

夏の日に。小説のなかに魂の世界の真実を見る。人間の業を見つめて。


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a0282620_18364418.jpg休日の午後、出かけずに家に居るには、夏の日の厳しい西日の暑さを耐えなければいられない。晴天続きの陽の翳ることない熱射にあって、遠く海を臨む西に面した我が家の室内は、まるで熱線に炙られるように暑くなる。
そんなときは、離れのミニログ(コスカA)に避難して、夏日のまるで焦がすほどの暑さを凌ぐ必要がある。
6畳の小部屋は容量の小さいエアコンでも十分に冷える。電力の節約にも、また、普段あまり長居することがない分、こんなときこそ活用したい気持ちもあり、窓辺の緑を額縁に入れて、しばし午後の惰眠を貪るのだ。

さすがにうだるような暑さの中では、脳内も沸騰して思考自体もフリーズ気味だ。冷風の爽やかな小部屋に避難すれば、とたんに脳内に微細な電位が行き来するようになる。ようやっと、何らかの考えや、思いやらが風が吹きかけるように起動し出すのがわかる。


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最近、若き頃に読んだ小説の類を再読したい気になり、やや色焼けした古びた文庫本を棚から探し出して開いてみている。出来れば全集で読みたいのだが、今や、過去の作家の個人全集の新刊など皆無で、古書にしても、ちょうど手頃な時期の版のものなどまず見つからない。
かつては、全集のシリーズが大御所の出版社からよく出ていたものだが、時代はまったく変わってしまったようで、今やそんな需要は出版事業の照準にはあたらないようだ。

最近の文庫本は、文字の大きさや書体もかなり読みやすく改善されているようだが、自分たちが馴染みのある「文庫」の、あの古めかしい、生真面目な活版風の字面の雰囲気の方がそれらしい文学臭を感ずるものだ。

二十歳前後に読み漁った日本の近代小説が文庫本で200冊くらいはあるだろうか。今でも文庫専用棚に収納してある。
そのなかの赤い表紙群の中から取り出して、最後のページを開いてみると、そこには大抵、当時、購入した日付と自分のイニシャルが万年筆で記されている。
その頃、作家が万年筆を愛用していたことにあやかって、どこかで安いものを探して来たのだろう。青いインクで下手な字で書いてあった。

その作家の一連の私小説は、登場人物の名前こそ変えてあるが、ほとんどが作家本人に起こった人生途上での出来事が物語になっている。だから、作家の実際の実人生と、それをどう捉えていた本人だったかは、この小説自体が最もリアルな資料になっているのだ。だから今、振り返って過去に読んだ本を再度、紐解く作業に入っている。

読みはじめてみると、かつて学生時代に、おそらく通学の電車の中や、自分の寝床やらで目を通したこれらの小説の筋立ての、そのひとつとして覚えていないことに愕然とした。大概は読み進めているうちに、記憶が戻って来る箇所に出くわすのだが、それがまったくといってない。
ひょっとすると、買っただけで読まずにいたものだったのか?それさえ、今やまったく思い出すことができない。
とはいえ、仮に通読はしたにしても、いったいどれほどの内容を読み込むことができたのだろうかとも思う。

まだ学生の身分で、社会にも出ていないうら若き未熟そのものの自分が、人生の不条理、家系的な血の業の流れなど、かなりシリアスで真情的な小説世界にあって、いったいどれほどのものを受け取れていたのかは、想像に余りあるほど頼りないものだ。
おそらく、そんななかでは、これらの小説の内に描かれたものが、あまりに自分に取って推し量れないもの過ぎて、手に負えない代物として、本を手放してしまったのかもしれないとも思える。


だが、今やそれから少なくとも作家の書いた年齢をも越して、それらの人生のあかららな告白を読み進めていくと、逆に読み切れる以上の、人間の性(さが)や宿業的な因縁、深層心理、そして魂の世界の情動など、様々な重ね取った経験からの滋養が生かされ、深い読みが見て取れるのが面白さに変わっているのを知る。
それだけ、この文庫本を手にした時からの、時間の積層、人生の諸事の累積がつくり出したものによって、漸く作家が持っていた観念や諦念を客観視できる時点まで来たような気がする。
作家はおそらく、意識と魂の世界の現実を知らず、自分の実人生をもってそれへのアプローチに替え、それ故に小説として成立させることができたのだろう。
自分にはこの作家の魂の系統、ルーツがわかる気がする。なぜに、小説のテーマとなった人生の縮図が、そこから来るカルマの露呈であることが見えるからだ。
ストーリーが創作ではなく、自分に起こったセミドキュメントであることが、それらの感慨を読ませてくれる材料になるから、拾える解析内容になりえるのだ。

こんな小説の読み方も珍しいかもしれない。
自分にとっては、小説もそれをドラマ化した映画も、このような無意識界の真実をもとにどうしても観る癖がついてしまっている。それだけに、意識と波動の四次元の占める三次元現実の創造の仕組みは、もっと万人が共有すべきものに思えてしまうのだ。
それが解ればもっと、自分の人生に起こることの意味が、何に因って起こっているのかを知り、実は意味深い尊いものだというのがわかるはずだと思うのだが・・・。


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by martin310 | 2014-08-07 18:44 | 日々の思索ノート