伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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秋の夜を眺める。風の記憶と虫の声・・・。五感がもたらす記憶コードは、時間の概念をも幻想化する。


a0282620_14335933.jpg


寝る前には必ず、2階のデッキに出ることにしている。
家の中はそれでなくともずっと静かだが、すでにワンコもケージの中で寝静まっているので、そっとドアを開けて外に出る。

外の大気の瑞々しさが風となって体に当たる。
近隣の家の庭木に金木犀があるので、風の中にその芳しい香りが流れている。
室内でも僅かに聞こえていた虫の声が、一斉に眼下の草むらの広がりの中からそこここに響いて来る。まるでオーケストラを聴くように、位置と距離と声の質と、まるでステレオ音響で体を包み込むようだ。
虫の音はリズミカルにとてもピュアな音を紡ぎ出す。それは楽器以上にリアルだ。
うす暗がりに街の灯かりが揺れている。
空にはわずかに星が瞬いて見える。

しばしこの平和な世界に浸り、また明日が来る幸福を思う。


a0282620_14345376.jpg朝目覚めるとまた、このデッキに出て風と光にあたることから一日が始まる。
辺りの木々がざわめくので、風がやって来るのがわかる。
やや遅れて三角屋根の軒のデッキに大風が吹き過ぎて行く。

風の温度と粒子の肌の感触から、そして風に含まれる匂いからも、どこかで吹かれたときの記憶が蘇る。
ああ、あのときのあの山の頂で吹かれた風だ。
秋の湖水で嗅いだ森の匂いだ。
肌の触覚は子供の頃の運動会の記憶まで戻して来る。
そうだ、あの万国旗がはためく校庭にあった楠の大木の下で吹かれていた風だと・・・。

右脳の記憶バンクに貯められたイメージの欠片が、風ひとつでマインドに読み込まれて来る。そんな断片をつなぎ合わせると、いかに過去という膨大な時間の集積であろうとも、細切れのイメージ集に変わり、まるでショートムービーを見るように過去のワンシーンが再現される。
はたして記憶にだけ残る過去の事象とは、もしかして単なる幻影、イリュージョンとしてしか認識に乗らない。確かに過去にあったことだろうが、脳内の現象としては、もはや過去は記憶データでしかないのだろうか?

記憶が再現する世界とは、もはやそのときそのものではなく、自分の今が創り出すものであって、決して過去の時間がこの今に現実化することはない。
それが心や意識に映じた感光こそが、唯一、今の自分のリアリティに過ぎない。
だとしたら、時間を整理して構造化する左脳の優位な働きがなければ、それはいわゆる時間の当たり前としている概念を突き崩すものかもしれない。
直線的、平均的時系列の流れとは、もしかすると脳が勝手に生み出す幻想かもしれないのだ。


a0282620_1435381.jpgよく考えるのだが、体験する現実というのも、様々な波動のレンジがある。
もちろん誰でもが、この目に見え、実体があるこの三次元世界で遭遇する現実こそ、本当の現実であると思い込んでいるはずだ。
だが、例えば眠っているあいだに見る夢の中ではどうだろう。
細密でリアル過ぎる夢を見たならば、そのシーンで受けた心の動きやショック、想いなど、リアル性を主体にしたならば、それは現実と比しても変わらないか、もしくはもっとリアル度が高い場合もある。それは心の動きの度合いにもよるものだ。
さらに、メディテーショナルなヴィジョンを見た場合は、生涯にわたって記憶から離れないリアリティを感じるものもある。夢と違いヴィジョンの場合は、魂レベルでの全意識的な衝撃なので、記憶の機能を超えた体感的事実となり、その後の自分を大きく変え得る力も持ち合わせていることだろう。

そのように見ると、一体、この目の前に広がる現実世界とは、時間や空間を含めて、本当にこれだけが真実の世界とはとても思えない気がしてくるものだ。
だから、この考えが脳裡をよぎったときには、そうだ、きっと今ここで遭遇している世界でさえ、かりそめの幻であって、きっと本来の魂存在としての自分が体験として必要性があるホログラムが映し出されていると、そう思ったりすることで、現実認識の解釈を変えてみたりするのだ。
それも、やがて時という時間の流れがあるとするものが過ぎ去った後、これも新たな過去の記憶に加えられていくのだと、そう思いながら今日も風に吹かれてみるのだ。

真実の現実とは、魂が受ける衝撃や感動や気づきを通して、新たな振動波によって覚醒され、より大きな意識体となるものを言うのではないだろうか。
その為に肉体レベルの体験を触媒にして、リアルという意識の拡張作用を促している・・・、それがこの現象界の姿に見えているのではないだろうか。


われわれの存在の核になっているのは感知する行為であり、われわれの存在の魔術は意識を用いて気づく行為である。感知することと、気づくことは、ふたつでひとつとして機能し、両者は切り離すことができない。
(感知すること: perception  意識で気づくこと: awareness

                     カルロス・カスタネダ ~ドン・ファン・マトゥスの言葉~


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by martin310 | 2014-09-29 14:36 | 日々の思索ノート

我々の認識と行動のパターンには、脳内に埋め込まれた「爬虫類脳」に起因しているものが大いにある。


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『宇宙の深部から獲物を求めてやってきた略奪者が、今や我々の生活を支配するようになった。人間は彼らの囚人である。つまり略奪者である彼らが我々の主人である。彼らは我々を従順で無力な者にした。抵抗しようとすると抑圧し、独立して行動しようとするとそうしないように命令する。
(略)
今や我々は本当に囚人になってしまった。人間たちは、宗教や、善悪の概念や道徳的姿勢なども彼らが与えたものだということ知らない。我々が抱く成功や失敗も、彼らが持たせたものだ。強欲も臆病も、現状に満足して無関心でいるようにさせたのも、同じことばかり繰り返して平気にしたのも、うぬぼれて自己中心的にしたのも、彼らなのだ。

彼らは、自らの心を我々に与えたのだ。
略奪者の心は、飾り立てられていながら矛盾しており、気難しく、今にも我々に発見されるのではないかという恐怖に満ちている。しかし彼らが怖れていたとおり、もう発見されている。』

                    カルロス・カスタネダ ~ドン・ファン・マトゥスの言葉~

                    (ドン・ファン・マトゥスはメキシコ・インディアンのヤキ族のシャーマン)


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迂闊にも、人間の脳の一部に「R 複合体」といわれる、いわゆる「爬虫類脳」があることを今までほとんど注目したことがなかった。
これは大脳辺縁系の中に位置している古い脳で、「R」とは、爬虫類=reptolの頭文字で、「R-コンプレックス」とも呼ばれ、少なくとも5つの人間行動がこの「爬虫類脳」に起因しているということも主流科学でも認められているようだ。
a0282620_13413271.jpgその5つとして定義されているのは、
・強迫神経症的な行動
・毎日の個人的儀式や迷信的行為
・昔の週間へのやみくものな順応
・儀式の再現
・極端な先例重視(法律、宗教、文化など)
となっている。
ざっと目を通してみれば、よく見る光景で思い浮かぶものも多いだろう。
または、はちゃめちゃな為政者の多くがぴったりとこれに当て嵌まる気がしないだろうか。

さらにこの爬虫類脳による人間の性格特性には次のようなものがあるようだ。
攻撃性、冷酷さ、儀式偏重の行動、支配や権力や所有への欲望、力による正義、他者への支配と服従、衝動強迫や妄想、崇拝、頑迷、社会的序列への欲求など――まさにこの世の実態そのものだ。つまり、社会支配層は総じてこのような脳の働きそのものの世界をつくりあげているということであり、彼らもまたこの「R 複合体」の成せる人格を行使してその座に就いているともいえる。

a0282620_13472662.jpg人間の脳の要素にこの「R 複合体」があることは、多かれ少なかれ、この脳の活性を促すような周波数帯の増幅刺激によって、これら人間としての相当な低次元なマインドの隔離が可能になることは、容易に想像できる。
今まで、上記のような行動や性格特性が、魂の本質や意識構造によるもののみの原因に考えて来たが、それだけでは実現は不十分であり、実際の思考や行動を引き起こすメカニズムとして、この「R 複合体」の脳の絶大な活性が必要であったことで、漸く納得がいくようになった。無意識内部の潜在的構造だけでは、どうしても理解を超える執拗な異常性の言動は、どうしても体現的アウトプットするメカニズムが必要だったということだ。

ということは、意識ベースはある種の精神疾患ともいえる表面意識と無意識との激しい分離がもととなり、そこへ魔的なダークサイドエネルギーが混入し、事実上意識の乗っ取りが行われ、実際行動には「R 複合体」が増強拡大パワーを得ることで、現実世界での実動が可能となり、ソフトとハードの両輪によって、「彼ら」の指令する自在なコントロールが可能になるという訳だ。これで「彼ら」の望む代理人が、「彼ら」の望む通りの動きをすることで、世界支配は維持できるということだ。


さらに以前の記事にも書いたように、「彼ら」は人間の右脳と左脳の相互関連機能を切断して、多次元に繋がる右脳を抑圧し、松果体との経路も封じて左脳の三次元の可視光線帯域だけに対応する左脳のマインド牢獄へ人類を閉じ込めた上に、上記の「R 複合体」がときに君臨する低次な行動パターンの中へ落とし込んだのがその真相のようだ。
この「R 複合体」という爬虫類脳には、女王蜂や女王蟻が働き蜂や働き蟻と通信するのと良く似た「蜂の巣心理」ハイブ・マインド(集団心理)も埋め込んである。これは、大衆が皆同じ心理状態になり、同じ行動を取る集団心理の基本コードだ。つまり、恐怖や不安、生命の危機に瀕して、まったく知性や理性を働かすことなく、群れの行く方向へ単純に同調してしまう無知、無能な生き残り心理を生み出す。
羊の群れが囲まれた柵の中で、牧羊犬によって常時誘導や見張りをされて延々と柵の中を移動しているのを思い浮かべればわかるだろうし、実際現代社会が肉体的な生き残りと、金銭的な生き残りにばかり関心を持ち、もっと欲しい、もっともっと欲しいと物質と金と安全、健康ばかり追い求める姿を見れば、その為に毎日同じことを延々と繰り返す、働き蜂と働き蟻になっているのがよくわかるはずだ。

a0282620_13474622.jpg社会的支配者は、この爬虫類脳の絶大な機能によって大衆の上に権力を行使して君臨し、大衆もまた、権力者にこの爬虫類脳の機能を巧みに利用されて服従するというのが、古来からの人間社会の力の構図だ。この出力と応答という恐怖を媒介にした下等な行動パターンを精巧にコントロールして、大衆の例外ない同じ反応を作り出している訳だ。まさに「蜂の巣心理」の定型コードの内側に大衆は囲われている。

だが、この埋め込まれた下等で劣悪な脳機能は、十全な気づきの妙智と超越的意識によって対象化し、自己コントロール下に置くことも可能だろう。我々の意識は、抑圧されればそれだけ跳躍しようという正当な反作用のパワーを秘めている。意識と智が絶妙なバランスで結びついたとき、左脳、右脳の開放と霊性の獲得によって、根源意識とのルートが形成されていく。それがドン・ファン・マトゥスの言う、略奪者の「今にも我々に発見されるのではないかという恐怖」をそのものにし、やがて略奪者の力を殺ぎ、存在自体を無化することにつながるのだろう。

知ること、気づくこと、見えないものを見透かしていくことは、我々の個としての世界を見る目を変えて行くことであり、個から全なる本源につながる意識ルートによって、世界全体の改変のひとつの側面にもなりうると考えるのだが・・・。


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by martin310 | 2014-09-26 13:51 | 日々の思索ノート

時代は既に、「陰謀暴露論」から「陰謀現実論」の時代へと移行して来たようだ。


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時代はどうやら、トンデモと嘲笑される「陰謀論」から、徐々に認知者が増えつつあった「陰謀暴露論」の時勢を経過し、今や、リアルタイムに世界情勢から陰謀が即時に分析される言わば「陰謀現実論」の時代へと移行して来たようだ。 (起こったことは起こされたことだと、まさに紛争は現実の陰謀そのものという意味)
これはつまり、地球支配層のれっきとした実在と、その手法、手口、工作の陰謀の全容が公然と露にされる時代思潮になって来たことを意味する。 (もっともその道の探求者層のあいだに限るが)
もはや、こんな状況では陰謀が陰謀の意味をなさず、ただの表の謀略事件になりさがっていて、さすがの闇の勢力の本来の見えない、見せない力が既に破綻しかけているという証拠だろう。
(実際、かつては常に空間中に「彼ら」のコマンドとしての見えない闇エネルギー存在がつけ狙っていたが、今は消滅したのか見当たらない)

a0282620_1083674.jpg多くの気づいた意識的な人々は、「911」や「311」をきっかけに目が醒めて来た道程を進んで来たように思うが、それだけに以前はまったく何も知らずに、「彼ら」の下部組織の情報網の出す偽情報だけを信じて、見事してやられて来た訳で、長大な人類史の中にどれほど深く「彼ら」がそのアジェンダ通りに、10年や100年単位に緻密な計略を実行して来たかは、今になって漸く伺えるものになった。
特に近代史は、「彼ら」の意図をもとに見ていかなければ、まったく底流にある流れを見つけ出すことは出来ず、個別な局所的な事項をつなぎ合わせただけの、原因や根拠の抜けた形骸化した歴史観しか生まないしろものになってしまう。
さらに時代は下って、文明や宗教の起源に至るまで、そこに「彼ら」の仕業が存在したことも、今やぼろぼろと出て来ている。世界の四大宗教そのものも、その成立においては大いに疑わしい意図が見えて、人類はそのために2000年以上も遠大な時を、そんなドグマにマインド支配された抗争と殺戮の火種として操作されて来た現実をもよくよく知らねばならないことだろう。

それにしても実に長大な時を使って、人類支配を達成しようとする計画なことだ。超古代に人間の脳や、DNAの改変をやったのなら、もっと簡単に奴隷化が可能であったろうし、それでなくとも、地球外宇宙からハイブリット血族を使って支配を実行する「彼ら」闇の巨大勢力をもってしては、もっと強大な力で一気果敢に完全支配することも十分可能であろうに、そうはしなかったということ。
地上部隊であるハイブリット血族のネットワークにしても、実に手の込んだ網の目のような計略を長い時代を超えて実行して来たのと、それが未だ完全制覇には至っていない最後のプロセス途上であることにも、どうやらそこに大いなる意味があるようには思えないだろうか。

a0282620_1095360.jpgそして今、その地球を覆う巨大勢力が末期症状に近く、翳りが露になって来ているという事実。
 (地上での実働部隊は未だ悪足掻きを繰り返しいるようだが、少なくとも、非物質レベル、可視光線外の本体のバックアップは急激に減少している模様)
おそらくこの流れは「彼ら」の凋落ぶりが誰にでも露見出来る過程にまで進行していくものと見るが、なぜそこにこのような宇宙の運行のシナリオがあるのか、ということの問いは我々にとって重要なことだろう。

きっとこれらの長大な歴史の絵巻のそこここに、我々の転生の体験が魂という意識の記憶装置に記録されているとしたら、今この集約的な時代に生まれ来ている意味も理解できようものだ。
隠されてきた歴史を紐解くことと、自らのいくつもの各時代にわたる過去生記憶とが、掘り下げるべき重要な意味をこの包括的人生に内包しているはずだ。それだけに、貴重な秀逸な情報が世に既に多く出ていることは、まさに学ぶべき稀有な資料を転生ごと手にできるという、過去にはなかった福音を得ている時代が今だ。

これらの魂次元での本当の学びは、この肉体を持った三次元世界にあらねば学べない貴重な機会だ。しかも、時代性からいって過去を集約する大いに総括的学習の時到来ということもあるだろう。
今後の世界の激変を体感できるのは、おそらく26000年周期の宇宙の運行時期からいってもそうないことだ。
心して大切な日々を生きていこう。



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by martin310 | 2014-09-24 10:10 | 日々の思索ノート

限りなく静止に近い南伊豆の時間の流れ・・・時間感覚は地場の周波数が決めるのか?!


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南伊豆へ行ってみた。
もうすでに、このあたりも目ぼしい所は何度となく巡っている。
地図を広げ、目を皿のようにして、未だ足を入れていない場所で気になる箇所を探した。漸く小さな谷間の奥地に、わずかばかりの集落があるのを知った。地名も不思議な感じがあり、一度はどんなところか見ておこうと出掛けることにした。というか、出掛ける為にその目的地に設定した。でないと、行き着いて戻るポイントがなくて困るからだ。

a0282620_22521161.jpgネットでペット同伴でもOKなランチの店も一応探しておいた。
ブログ記事にたまたま出ていた自然食中心の田舎のCafeを発見した。
なんとその場所をマッピングすると、行こうと目星を立てていた集落の中にあるではないか。なんだかこの偶然の一致に不思議な気がした。


それとは別に、南伊豆というところは実に不思議な土地だと思う。
西の蛇石峠や東のR136号を吉佐美を越えて「南伊豆町」の標識を見ると、ある不思議な独特ののどかな波動に変わる。民家の数が減って、点在することからひと気がなくなるのでそう感じるばかりではない。確かに、人口密度は極端に小さくなる。(80人/km²)
細長い平野の中央を川が流れ、そのまわりに田畑が広がり、民家は平野を挟んだ低い山の懐に点在して建っている。人影は田畑にわずか見るだけだ。

時間の流れがまったく違う。
まるでほとんど限りなく、静止に近いほどに流れが緩やかだ。
時、分の単位が違うのではないか、秒などという単位はまず不要だろう。
おおざっぱに昼が来て、宵が来るだけの静まり帰った世界・・・。

a0282620_22525141.jpgランチに出向いたCafeもそのとおりの時間が流れていた。
先客がいてそのグループの注文に追われているのはわかっていたが、こちらがオーダーしてから小一時間が優に経って、漸くお昼にありつけた。
ワンの餌やりや庭で遊ばせたりして時間を過ごしていたものの、二人だけで待っていたらかなりの間の持て余しにさすがに閉口したことだろう。
ひとりですべてをまかなう田舎Cafeでは、お急ぎ客は禁物だ。
真昼の時間をこの地の時の流れに任せて、相当な寛容さをもって望まないと苦痛になってしまう。(でも、あまりにのんびりタイプの調理のようだったが)
まあ、これが南伊豆流だと思えば・・・と、いい経験に。


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気温24、5度の大気を切って窓全開で爽快に走るのは実に気持ちがいい。
のどかな田園地帯をゆっくり低速で航行し、風に含まれる刈り入れの藁の匂いや、金木犀の芳しい香がほのかにする初秋の伊豆路は、命の洗濯、細胞の浄化促進には最適な環境だ。
ところで、この南伊豆のエリアはどうしてここまで、ある種独特の時間感覚になるのか、以前から不思議に思っていた。
ただ風景、風物、環境がのどかという理由なら他でもいくらでもあるだろう。だが、ここはそれだけの理由ではないようなので、かつて何度かくまなくこの辺りの地場のエネルギー調査をしたことがある。といっても、観測機器は自分の波動感受力に依るしかない。

それによると、下賀茂や二条あたりの内陸部ののどかな田園地帯は、見たままのゆったりとした時間の流れ感覚なのはそのとおりなのだが、マーガレットラインの海岸線になると、それとは打って変わってかなりの高い波動域になる。
特に一町田から伊浜にかけては半四次元的波動域になる。明らかに日常の三次元感覚とは異なる、右脳的異次元に入ったような超越的な感覚になり、この地へしばらく留まることの至福感に占領される。

a0282620_2254176.jpg但し、そこから内陸部へ一歩入り、別荘地帯へ谷を降りていくととたんに超マイナスな波動域に変貌するのがわかる。おそらく谷底の方に闇のサテライトが設置されていたのだろう。
奇跡的にエネルギーの高い場には、それに隣接してその逆の闇の場が寄り添っているものだ。光あるところに闇もある・・・、それがこの世界の基本的成り立ちだからだろうか。

この伊浜あたりを頂点とする南伊豆の高エネルギー地帯も、昨今の闇のサテライト基地の無化が成ってからは、時を同じくするようにそれほどでもない場に変わり、今までの飛び抜けた地場の感じは消えて失せてしまったようだ。これは南伊豆まで来るエネルギーチャージの愉しみを失ったことになり残念だが、そういうことも地形に配置された地場の運命なのだろうと思っている。

とはいっても、南伊豆全体からは今も時の流れが相当にゆったりとする、不思議なエネルギーがあるのは確かだろう。おそらく地底に秘密があるのではないかと読んでいる。
他の地域とは異なる振動数を発する岩塊のようなものがあるはずだ。それが超古代に落下した他宇宙からの隕石の可能性もある。実際、東伊豆の海中にもそのような場があって、やはり時間が静止したようなエリアがある。 ※当ブログ『時間が止まった場所(伊豆富戸)』参照。
こういった隠された条件というものも、天の計画の一端の場合もあり、地球のエネルギー場の発振地になっていることもあるはずだからだ。
そういった視点で、山野を巡るのも新しい旅の目的のひとつとなる。
地場の波動というものが生み出すものは、案外、誰も知らないところで有意義な地球の覚醒の仕掛けになっているのかもしれない。


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by martin310 | 2014-09-21 22:55 | とっておきの伊豆

太陽からのフォトンの降雨によってこの時空は共振共鳴している。意識もしかり。


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a0282620_9305754.jpg「宇宙天気ニュース」によると、去る9月11日午前2時半に太陽がX1.6の大規模フレアを発したようだ。Xクラスに達するフレアの発生は、6月11日のX1.0以来で、3ヶ月振りの巨大フレアの発生になり、黒点数の推移からも昨今の太陽活動がかなり活発化して来ている証左になる。
このXフレアの直前にも、9日の午前8時半に発生したM4.5の中規模フレアというものもあったようだが、ちょうどこの頃だろうか、一日中異常な眠さと、倦怠感に襲われた日があった。少食・微食生活を継続している中で、体がこれほどだるく、眠気が取れないようなことはまずないはずなのだが、なぜかこの日はおかしかった。自分だけなら、自分だけなのだろうと別の理由によるものと考え及ぶのだが、ツレも同じような症状で、二人でおかしい、おかしいと言っていたところ、ネットのニュースでフレアのことを知って、そういえば、こんなことは以前にもあったなと思い、どうも太陽エネルギーの影響ではないかと考えるようになった。

しかも、この日を前後して、夜眠りに入ると、何度か目が覚めると、延々とエンドレスの夢を見ていることに気づいた。もちろん、夢は見ても不思議でも何でもないのだが、こと、眠りの間中、ずっと途切れることなく見続けいるのに気づいたことはあまりない。それも、夢を見ていると薄い客観意識で認識すると、意識的に内容を覚えようとして、目覚めた後でもそこだけは覚えていたりも出来た。
夢の中で、ある種自覚的に夢を見ているのを知りながら夢の中にいる自分がいた。つまり、夢の中の主人公でありながら、その夢全体を把握してリアルに感じている自分だったのだ。
この眠っているあいだ中、途絶えることなく夢見ている「エンドレス夢ナイト」は、それ以降数日続いた。
a0282620_9331840.jpgこれもおそらく、太陽からのフォトンのエネルギーによるものだろう、脳内のまるでフィラメントが電磁気的に点灯しているように、睡眠時の右脳が夢物語をエンドレスで上映している感じだ。まさにオールナイト映画のように、不思議な舞台設定と、登場人物と、奇想天外なストーリーが次々と生み出されていた。アストラルレベルで、実に多くの意識体験をしていたことになる。確かに、いくつものリアルな感覚が目覚めても残っていた。

太陽からのフレアの肉体レベルの影響は、今までの経験からCMEが地球に届いて磁気嵐などが起きる以前に、フレアが起きた時点ですぐさま反応するように、波動のエネルギーの方が時間差がなくやって来る感じで、CMEが届くまでの2日ほどのタイムラグはないようだ。そうすると、どうもX1.6の大規模フレア前のM4.5の中規模フレアの9日あたりから体が反応し出した換算になる。

そこからさらに一週間が経過し、いっそう時空のエネルギーの変化を感じるようになった。もっとも、これは今回のフレアだけの結果によるものではなく、今年の月日の経過と共に明確になりつつある、ひとつの時空傾向の考察なのだが、どうも、感じるところ、徐々にではあるが、確実に相対的な意識レベルの傾向の変化が伺われ、どうも今までのような「左脳的な、現実的な、精密な、行動的・活動的な、計算による、計画的な、打算的な、損得勘定的な、強欲的な、いわば策謀がやりやすいエネルギーフィールド」から、より「右脳的な、直感的な、静的な、対極的な、非活動的な、瞑想的な、自然に則した、時間の束縛から解放的な」時空に微妙ではあるが変化して来ているように感ずるのだ。
それは、太陽の光の中にも、大気のプラーナの中にも、体に吹く風にも、森の繁りにも、雲の動きにも、清流の水の粒子にも感じられるものだ。

a0282620_9333674.jpg波動に敏感な人なら、きっと以前より動きたいと思うより、静かにしていたい、と思う瞬間が多くなって来ているのではないだろうか?
あくせく、あくせく、時間に追われ、お金に追われ、責任や義務に追われ、植えつけられた「ねばならない」、「なになにすべきだ」という脅迫観念に追われ、マインド牢獄の虜になって、時空の波動から分離していく自分すら省みられない事態になっても平然としていられるだけの余裕は、もうすでにないのではないだろうか?
必要最低限の活動は何とかやって、あとは静寂の中に身を置くことの方が、今や自分の意識を安定化し、やすらかな平和のなかに居ることが自然のような感じになっているはずだ。逆にそうでなければ、情緒の安定が保てなくなり、不足感や喪失感、神経衰弱な不安感が先立って来るかもしれない。

それとこのような右脳が活性化されるようなエネルギーフィールドでは、直感による閃きや、イメージや言葉、場所、人、書物などなど、自分にとって今必要とするものが思わずやって来たりして、意識から消えないようなことも起こるかもしれない。わからないながら、それに従ってみる方が、左脳で拒絶するよりも得策だろう。降り注ぐフォトンの雨の中に、意識のヒントは微粒子となってあらわれている。それが右脳の中に降る。


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自然の中に分け入って風を浴びてみよう。
初秋の爽やかこのうえない温度の風は、体中の細胞を吹きすぎるとき、DNAに覚醒と歓喜の波動を伝えてゆく。
a0282620_930328.jpgあまりにも捉われ、拘束され、がんじがらめにしていた対社会的なしがらみや、人間関係、経済、法、地位、常識、慣習、ならわし、価値観などなど・・・、それらも一旦、秋風に吹き飛ばしてみて、なにが自分を縛っていたのかをよくよく見極めよう。そこからはじめて開放がはじまる。
無意識内には、どれほどのトラウマと、思い込みとブロックがあるのか、それに従属させられて来た今までの自分自身の意識を思いやろう。
風のなかには太陽からの覚醒のためのフォトンエネルギーが宿っている。
それに全身全霊で吹かれよう。
細胞のひとつひとつが呼び覚まされる歓びを感じるだろう。
清流の水に足を浸してみよう。
山から湧き出る清水には、清冽な神気が漲っている。
聖水に足を浸せば、そこから神聖な氣が体中に拡がる。
それが本当の洗礼というものだ。



もはやここまでの時空になれば、今までのような騙しと隠蔽を主体にした、情報操作と洗脳と、意図的な煽動と工作と、刷り込みや摩り替えや、恐怖によるコントロールや、大掛かりで緻密で強権的な陰謀の手法は、そのトリックに掛かる方も、掛けるために動く方も、先にそれ自体の波動がもはや時空の波動に合わないことから、どこか気乗りのせぬ、馬鹿馬鹿しげな、嘘っぽさが先立ち、白け気味で効果が薄い、イミテーションなものに自ずとなっていくだろう。
どうだろう、勝手違いに焦った挙句墓穴を掘るのは、もはや自滅を意味することになる、そういう時空になって来ていると見るのだが?


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by martin310 | 2014-09-18 09:41 | 日々の思索ノート

自然界の奥地へ向かう意思・・・閉鎖回路ループ(マインド牢獄)から意識の旅に出よう。


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      「決まりきった生活習慣を繰り返している限り、
                  魂の新たな次元は現れてこない。

                                    ――ヘンリー・ヴァン・ダイク



どうして自分が、このような未だ足を踏み入れていない自然の奥深いエリアを探し求めようとするのか、しばし考えていた・・・。
そこは自ずと、人の手の介入度の少ない、もちろん観光地からは大きく外れた人の行かない、物理的にも、波動的にも本来の自然界の持っている深遠な精霊界の波動のようなものを保持しているエリアになるのだが、それはおそらく、その波動域を通じて、この今いる世界とは異なるエネルギーの振動領域へ、少しでも意識レベルで出ようとする欲求によるものではないかと思い至った。

それは他でもなく、今居る世界があまりに棲み辛く、波動の合わないことが耐え難いところから来るものでもあり、本来、魂が志向する世界でもあるものが自然界の奥にあると見るからでもあるだろう。
だからといって単に逃避願望から、紛らわしや癒しを求めて出向くだけのことでもなく、いわば、余りに存在するだけで意識レベルでは過酷な世界であるのが、解り過ぎてしまったからでもあるだろう。

a0282620_1351267.jpg端的に言って、ずっとそうだったが、人の創り出すマインドの牢獄のような世界に長く接触していなければならないことに、かなりの精神的困苦を感ずるようになってしまったことにある。つまり、人との関わりの多くならざるを得ない領域に、自分が居ることがいたたまれなくなるのが実感なのだ。
周波数の明らかに違う場に、自分を置かざるを得ないというのは、それが避けられない生活条件である以外は、限りなく場違いな違和感を越えた、何とも居心地の悪い、嫌悪感に似た、拒絶感をも持つに至るところがある。

特に、大衆が集まる物や欲求や、遊びや、行楽や、癒しやサービスを求めて群れる場所に至っては、もう、近寄り難いほどの拒否反応がある。場自体が、このマインド地獄の創造物である、さらにそれを強化する機能を持たせた悪所に思えて仕方がないからだ。

視野に入る人を一瞥すると、たいへん慢心しているようで失礼千万だが、どうしてもマインドの状態、現在の意識レベルが見えてしまうところがある。視覚的な波動の読み取りが瞬時に働いて、このあたりにいることがわかってしまうだけに、見る人、見る人が皆、一様に顕在意識の囚われの状態から一歩も逸脱するつもりもないのが見えてしまい苦しくなる。三次元視覚と同時に、意識波動の生み出すオーラ場からの読み取りもしているのか、なぜか瞬時に読めてしまうところがある。
だから以前記したように、あるときは群集を見てゴーストのように感じてしまうのだ。物質と五感の欲求に囚われコントロールされた、低振動の意識に隔離されたまま、時間の檻に生け捕られている幻を見る思いだ。かつての自分もそうだっただけに、旧い自分の形骸を見る思いだ。

このいわばマインド牢獄にいる低振動の集合意識は、見事に自然の場も三次的な物質レベルからも破壊していく。人の惹起する自我をもとにしたマインドの低次振動は、もとからある聖なる振動場を俗のエネルギーの停滞場に変えてしまう力を持つ。そうやって、日本の国土も、現実の自然破壊に継いで、精霊界の調和した聖なる地を次々と何でもない、名ばかりの、ありふれた景観地に変えてしまった。
a0282620_13511588.jpg今やかろうじてその残骸が奇跡的に残されている場だけが、わずかな救いになっているだけだ。それもあるエリアの中のごく限られたポイントだけに光はあるのみだ。人の入り込む数が多いほど、指数関数的に分子レベルからのエネルギーの破壊は進む。だから都市やそれに順ずる人口密集地は、非自然の低密度な粗密で荒い荒廃したエネルギー溜まりに相違ないのだ。マインドの生み出す想念波動というものは、いわば自然破壊の最たるものであることをあまりに人は知らない。


人の世界からも、自然の場からも、同調できる異次元につながる魂が安らげる場は、もう行き場がないほど狭められてきている。このような理解し難い困苦を共有できる存在もいったいどれほどいるのかも知らない。
だが、もとよりここまでの状況を迎えるまで、おそらくそのプロセスのすべてが知らぬまでも前提に、この世での存在意義を求めて来たのだろうから、今ここからどう超えていくかが、次なる自分の向かうべき問題となるのだろう。

安易に気を紛らせるだけのものに執着する気もなく、あてがわれる簡易な手立てに狂奔する気もなく、ただ坦々と意識と知力の追求の手をあきらめないことだ。この世的な成果は言うまでもなく、マインドが創り上げたホログラムでしかない仮想のものだし、生きた価値を見出すのも自分の魂の学びの結果以外にないのだから。


それにしても、マインドに占領された脳が認識する世界は広いようであまりに狭い閉ざされた場だ。そこから、この世界に存在しながら尚且つ脱するのは、意識を通じた超越的飛躍以外にないだろう。息苦しい(或いは生き苦しい)のは、ただでさえ、そこからの開放を意図するようになる。この意志こそが、マトリックスからの離脱を後押しするものだ。

自然界の奥地へ向かう意思こそ、閉鎖回路ループから旅に出ようとする内なる要請なのだ。


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by martin310 | 2014-09-15 13:58 | 日々の思索ノート

清流の河原で、二人と一匹が青い山を眺める。(安部川の上流にて)


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我が家から日帰りで行ける範囲で、未だ行ったことのない、しかも自然界の氣に満ちているような場所を、何度となく地図を広げては探していた。
というのも、長年、そういう風にあちこちと自然の場を探索するようなことをして来ただけに、住まいのある伊豆半島内はもとより静岡県内、山梨、神奈川、長野に至るまで、日帰り可能なエリアでは、もう足を伸ばそうとする宛が既に枯渇しているほど、思い当たる行く先がなくなっていた。
確かに、同じ場所でも各季節でまた違う味わいがあり、新たな発見もあるものだが、それにしてももう余りに行き過ぎているので、そんな意欲も湧かずにいるのが昨今である。

a0282620_11283231.jpgそれも単に、るるぶ的な視点で行き先を特定するのでもなく、また風景写真を撮ることが主でもなく、未だ知らぬ自然界のエネルギーの高い場を求めての小旅行であるのが、なかなかこれという場に行き当たらない理由である。つまり、波動がすべてなのであって、今の自分が求めるような理想的な波動場を探索するのが目的であり、内なるものが自然にそういう場を求めるのに従うまでである。
もちろん今までの風景画像を見れば分かるように、まずは人がほとんどいない地で、人為によって物理的に荒らされていないところで、しかも、波動的にも人の意識の破壊にあっていないような、人知れず太古からの大自然のエネルギーが奇跡的にも保たれているような場がそれなのだ。
だから、人口密集地や都市圏はまったくスポイルされる。どうしても、首都圏に向かう側は行く気がしない。実際、もう何年も東京方面へは近づいたことがない。遥かに大地をうず高く覆うように人工的建造物が密集するような、高密度な自然離反地域には、どうしても心身ともに拒絶感が強い。エネルギー的にまったく相容れないほどの隔たりがある。
なので、少なくとも人界からやや外れた伊豆の山の上に身を置いているのだ。そうでないと、身が持たないのが現状で、本当はもっと奥地のさらに奥に住まいたいくらいだ。
まあ、少食・微食を実践し不食を目指す食生活で、森の開けた空と海の見える地に、植物を庭に群らせて木の家に住む生活というのだから、もう既に仙人のはしくれになりかかっているのかもしれない。
ただ、未だに暮らしの糧を得る為の金稼ぎをする必要があるために、人界に近い地域に半仙人生活を余儀なくされているのが現状だ。そんなものに支配されない暮らしが可能なら、もっとあらゆるしがらみから隔絶されたような場で、日々を過ごしているかもしれない。


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a0282620_11232469.jpgさて、そんな訳で今回探し当てたのは、県内でしかもおよそ片道3時間位で行ける場に、こんなところがあった。
それは、静岡の代表的な大型河川、大井川と富士川に挟まれた安倍川という一級河川がある。源流は南アルプスの山塊群だ。上流には大井川のようにダムがないだけに、川の流れは自然そのままの清流である。
川沿いに延びる県道29号線を終点の梅ヶ島まで行った。梅ヶ島は温泉地であり、何軒かの温泉宿が軒を連ねているが、そこまでにもいくつかの温泉がある。そう言うとかなり魅力的な地であるのに、地方の温泉地がどこもそうであるように、ここもかなりのさびれようだ。
途中の道も、前後まったく車の影を見ないほど、貸切状態で超低速で風景の探訪が出来る。2、30㎞でのんびり脇見運転で行けるのがこういう所のいいといころで、これはと思った場所で停めてカメラを向けるという具合な開放感がある。

とりたててここという風景はないのだが、山も川も実に迫力に満ちていて存在感の強さに圧倒される。大水が削ったような川岸が、増水時の川筋の激しさを物語って、この地の自然の力の凌駕した厳しさを感ずる。1本の県道だけで結ばれた奥地の人々の生活は、洪水にあって一瞬にして陸の孤島になる。

a0282620_1125158.jpg清流が岩を削る河原に下りて、昼を食べた。
今回から連れと二人に一匹が加わった。もっとも、もう既に子犬のわんこは、6月の半ばに生まれて2ヶ月で我が家にやって来たのだが、河原のランチにまで連れて来たのははじめてだ。
まだ、川の何かもわからないが、岸辺の砂地に降ろすと、怖がらずに足を水にも着け、慣れるとゴロタ石の河原を平気で全速で走っていた。
野生のDNAというのは凄いもので、人間でさえ、足元に注意しないとこけそうになるこんな河原を、ろくによく見もせずにあらゆる足場の状況に対処して走るのであるのだから、見ている方が驚くばかりだ。


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a0282620_1128010.jpg誰もいない河原で、二人と一匹がのんびり瀬の音を聴きながら青い山を仰いでいる・・・。

向かいの森の木々が折から大風にゆらいでそよいでいる。

河瀬の石に当たった水の動きを、まるでダ・ヴィンチがスケッチしたように見つめている。

遠くの山の頂に雲がかかりはじめ、川岸に咲く野草の揺れも風に激しくなって来た。

こんな山奥の河原の石に腰をかけながらも、時は静かに移ろいで行く。

かすかに、奥地の人の住む気配に人の世のありかを感ずるだけのこんな地球の片隅でも、世界が動いているのをひしひしと感じながら、この時代のこの時を生きる。


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犬の寿命からいえば今後十数年、
一緒に暮らすことになる運命共同体の
メンバーのわんこ・・・名前は「Qoo」。
今後も登場することが多くなるので、
ここにお見知り置きください。
(ポメラニアンとチワワのミックス、
生後もうすぐ3ヶ月、メス)
※特技はあらゆるものの破壊工作。
(何でもかじってぶっ壊す)
by martin310 | 2014-09-11 11:31 | 風景探勝

滝の聖なるエネルギーで、禊祓のように意識の浄化と覚醒を促そう。~河津七滝にて~


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地球は宇宙空間から眺めれば青い水球のように見えるほど、多くの水を地表が分けて湛えている。水球の青のほとんどが大海の深いブルーが占めるが、地表のグリーン地の中を分け入って拡大していけば、やがて細い水の筋が見えて来る。ここ日本の伊豆半島の内部をズームアップしていけば、まるで毛細血管のように沢や川が地を這っているのがわかるだろう。

地球の「水」の流れのエネルギーを求めて、伊豆ではここ、七つの滝が密集している河津七滝(ななだる)へまた足を運んだ。
この七滝は、約2万5000年前に伊豆東部火山群のひとつ「登り尾(のぼりお)南火山」から流れ出したものが生み出したもので、溶岩が冷え固まる時の収縮でできる「柱状節理」が刻まれた中に水が流れをつくり、豪壮な滝が落ちているという、伊豆の中でもとりわけGEO的な壮観な眺めを見ることのできる大自然が生み出した名所だ。

今まで大抵、下から4番目の「初景滝」まで行って戻ってしまうことが多かったが、今回は補修の終わった散策路も完備されたようなので、「蛇滝」や「えび滝」、「釜滝」のある上流を奥まで登ることにした。
緑の樹間から漏れる明るい陽光に照らされて、滝壺のエメラルドグリーンがいっそう美しく輝く。谷間にこだまして轟く滝の音が、寡黙になる意識に聖なる自然の波動を沁み込ませていくようだ。
流れに沿って歩むうちに、そして次なる滝が近づくうちに、まるで滝の水の落下が漸進的にそうさせるように、意識のスペクトルの深層へと意識の焦点を沈下させていくような気配だ。落水の勢いが、谷間に響く轟音とともに、深い意識の濃紺の水底にメディテイトしてゆく。


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滝というものは、古来から滝行という禊の修行法があるように、自然景観の中でも抜きん出て精神的でコンシャスなものだ。禊の場にするように浄化を促す要素もそうだが、山域から湧き出た、水の落下が生み出す聖なるエネルギーが、おそらく意識の周波数帯域を拡張させる効果を持っているのかもしれない。
水泡や飛沫が踊る滝壺の水面を眺めてみよう。
肉眼では捉えきれない瞬間の姿を、カメラのシャッターは一瞬の光の凝集する像として切り取る。
変容する水の様態は、思ったより饒舌で複雑な形体を生んでいる。もちろん、何度撮ってもひとつとして同じものはない連続体だ。これは生き物とほぼ変わらない。生きている時空変容体のようだ。
また、見ようによっては無数の星の集まる銀河のようでもある。


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水には波動を記憶する性質がある。水に限らずすべての物資は波形構造を持った原子核と電子の電磁相互作用による振動体なのだから波動記憶を持っているが、こと水は情報を蓄え保存する能力に長けているようだ。それだけに、ホメオパシーを活用した治療法には、レメディという極度に希釈した成分の波動を利用するものがある。
人間の体内には60~70%の水がある。脳は頭蓋骨の中で脳脊髄液という液体のなかに浮かんでいて、脳は80%以上が水分であるといわれている。
いわば、人間は水でできた魂の格納庫のようなもので、この三次元の現実界を生きる為の乗り物である。しかも、伝達される波動情報を感知したり、その波動の周波数に敏感に反応し影響される。細胞から意識まで、外的にも内的にも接するエネルギーに微細に同調しうる波動媒体であることは確かだ。


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それだけに、意識や肉体を健全に健康に保ちたいのなら、影響を被る波動の質に十分に留意する必要がある。つまり自分の肉体や意識を守る為に、不健全に振動数を低下させるものを排除することに意識的になろう。
物には形や色、質など、そのまま波動をあらわす性質がある。音にも、匂いにも、空間にも、そして身体に入れる食物や飲み物、体に纏う衣服、人間を取り巻く環境として、家具や家屋や土地や、或いは電磁波であったり、放射線であったり、はたまた、他者と共に居る環境、その他者の意識、想いであったり、波動を生み出すもとを挙げれば切りがないほど無限にある。
いわば、我々の生きている環境というのは、気がつけば、あらゆる波動の坩堝(つつぼ)、振動波の混濁するカオスの只中にいる訳だ。電波や電磁波だけでも、もはや電子レンジ状態の中に投げ込まれて生活しているのが常であるのに、ましてやそれ以外のあらゆる波動の嵐の中にいることを余りに知らない。
だから、見えない闇の勢力に、各地に分散して配置していたサテライト基地から意識の拡張を頭落ちにさせるような、意識周波数を低減しおくような処置をされていても一向に気がつかないはずだ。さらに、物理次元では、極調低周波による脳波やマインドコントロールにもターゲットにされていた訳である。

a0282620_2110568.jpg単に波動といっても、随分とレンジは広く、そこにあるコード体系も複雑で、どれをも、誰もが感知出来る訳ではないのだが、少なくとも、自分自身の内部が許容出来ないものをきちんと意識化して拒絶できるほどに、感覚や感性を磨いておく必要はあるだろう。
そうでなければ、人の念や生霊、地場や室内のマイナス波動の有無なども感じない無感覚な人のままになってしまう。波動の世界、覚醒の時代にあって、それを感知できないとは致命的ではないだろうか。
宇宙の根源の意識にアクセスするにも、この意識を通じてしか他に方法はない。根源意識に一度でも触れた至高体験なしには、どうしても向かう先の世界の展望を持つことは難しいだろう。

それだけに、自然の場に回帰して、そこで地球の息吹、聖なる波動に肉体と意識のすべてで触れ合うことが、最も大切な本来の自分を取り戻す行為になるはずだ。
浄化と目覚めをもたらすものは、自然界と宇宙を通じてしかありえない。

滝は轟々と、人知れず、今日も聖なるエネルギーを谷間に放出している。


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by martin310 | 2014-09-08 21:13 | 日々の思索ノート

初秋の大気に、体感の爽快さと光の波動の清浄さを感ずる。空と森と水を求めて・・・。


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気温24℃、快晴の初秋の日、窓を全開にして走る伊豆路の風景は爽快そのものに展開して行く。
行く先に土中の水分が陽に照らされ、水蒸気をあげて道に漂っている。森の中を貫く山道を行くと、しめやかな樹木が発する微細な香りと、土の肥えた微生物の生み出す苔臭いような匂いが鼻を掠めていく。時折、木花がどこかに咲いているのか、懐かしいような花粉の匂いが混じるときがある。それに、民家の続く街道沿いでは、一瞬、クチナシの芳香が嗅覚を刺激する。

光溢れ、穏やかに大気が吹き過ぎて行く。
狩野川の流れに沿って続く田舎道の方を選んで、低速をキープしながら長閑な風景を見やる。バックミラーに映る後ろにつく車をやり越して、また、とろとろとゆっくり風景が移り変わる間を愉しむのだ。できれば車でなく、荷馬車のような速度の方がこの世界にマッチしているかのようだ。

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狩野川畔のいつものお気に入りの川瀬に来た。ちょうど頃合よく、鮎つりの釣り人が竿をわたしている。近くの荒瀬では豪壮に水音がしている。
上流に川筋が消えているところに、古いログが建っている。まるで異国の風景のように見える不思議な場だ。なぜか、この家の前には「トナカイ」という看板が掲げてある。かつては宿としてあったのだろうか、それにしても伊豆に「トナカイ」とは意外性も意外だ。だが、それが妙にこの風景にマッチしていて、北米とはまた異質な温暖な世界の極北がここにあるようだ。

~空と森と水と~・・・、blogのサブタイトルにそんな言葉をつけたが、どういう訳か、やはり「空」「森」の画像ばかり続くと、自然に「水」のある場を志向して来る。水の流れや飛沫や深みのようなものが撮りたくなる。
水は実に多様な姿を持っているが、その生き生きした清流の千変万化する様態のイメージを捉えたいと、脳裡に水のある場が巡り来る。なので流れのある場や、滝を目指して半島を南下する。といっても、中伊豆から下田までのいつものコースには違いはないのだが、行く度毎に見るもの感じるものが違い、自分の今の意識が反応する世界を切り取ることになる。

                           ◇◇◇

a0282620_1122726.jpg思い返すと、今年の始めの華々しい時空の変化は、この
『天からの光の降下は、すでに自然界を一新した。~山を見よ、森を見よ、空を見よ。~』 (2014/01/23)
という記事ではじまったが、その山を撮ったのも今日の路程に見る場所だ。
それにまた、この記事、
『八ヶ岳で発見したこと。見えない意識のベールが解除されたか?!』 (2013/11/29)
や、この記事、
『見えない意識の世界を牛耳るのが、見えない闇勢力の手法。そのサテライトの存在について。』 (2013/12/02)
にも記したとおり、同様に伊豆にも非物質レベルの闇のサテライト基地がいくつも分布していた。“していた”と過去形で断言できるようになったのも、今年が月日を増す毎に確定さを増して来ている状態を何度も確認出来ての結果からだ。それだけ、可視帯域外に存在する闇波動の発生ポイントが機能を終わったことによって、我々の意識や脳の機能における低周波領域での囲い込みが解除されたことを意味する。
この日のコースも、そんな場の再確認も兼ねてのことで、特にそれらのサテライトの影響でもあり、また過去の意識レベルの低迷をもたらす感情体の擾乱からカルマの固着を意図したような、古き悲しみや憂いの凝集された地場をも、実際、見事なまでの開放と浄化がもたらされ、今やその跡形もないほど清浄なものとなっている実感があったことを報告しておこう。

このことは、こと伊豆の狭いローカルな領域に限られたことではなく、地球規模のマクロな時空の変化を象徴していることだ。これほど今までの過去の時代の長きにわたる暗影に翳った時代のダークサイドの地場的な呪縛がその意味をなさなくなっているのだから、これは人類意識の封印にとって、かなり革命的なことなのだが、それに気づく人はいない。
地球圏外から送られる人類意識の低周波領域への封印は、地にもそれを受け受送信する基地が無数に配されていたということだ。なぜなら人は皆、地面に最も接した場に生息する種であり、地上の最下層のエリアを低振動のバリアで封じておくことは当然のことで、しかも地下や岩や山塊などにそれらのサテライト基地を隠すのにはもってこいの条件だったからだ。

a0282620_11251293.jpgしかも、内在するものが可視領域にあらず、見ることが出来ないことをいいことに、巨石や山塊をご神体にして崇めさせられて来た歴史は周知のとおりだ。そこで修行する宗教までつくって来たのだから、姿を変えたサタンや土星を崇まさせる「彼ら」のやり口とまったく同じことがわかるだろう。もっとも、像や書物や鏡などを拝ませる手法が世界の宗教の典型だというのは、このことからも実にナンセンスなことかがわかるというものだ。崇め祭る本体の中に、「彼ら」の代表がうすら笑いを堪えて鎮座しているのが見えたら、誰がそんなものを崇拝するであろうか。

覚醒意識を封じるとは、「騙くらかして信じ込ませる」ことが最良の方法なのだ。例え宗教の世界ではなくとも、他のどの分野にしても信じて疑わない「信仰」的世界は存在する。そこへ留まらせて気づきをさせないことが、「彼ら」の支配を最大限にする手法に相違ない。
左脳支配のマインドの牢獄に入れておけば、矮小で偏狭な柵の中で勝手に自滅の道を歩むだけなのだ。意識の周波数帯を限定するリミッターのように、人と人とのあいだの低次な自墜落なカルマの渦に入れ込んで、輪廻の閉ざされた牢の中に封じておくのもまた、この人間界の檻を維持させていくことに必然のことでもあるだろう。

騙されない意識を持つというのは、騙されていた自分を熟知して、無知蒙昧の暗闇からの離脱をはからねばならない。それは単に、「知」だけでなく、導きを受けた体験から糧を得て、体得した「智」でさらなる気づきの意識拡張をしていくことにある。

騙されていた時代から、騙されない時代へ。さらにもう騙せない時代が近づいているとすべきか。
川の流れや緑の山や、蒼穹に浮かぶ白雲を眺めながら、密かな時代の変遷を感じているのである。


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by martin310 | 2014-09-04 11:26 | 日々の思索ノート

「静寂」な意識世界へのアプローチ。人はいったん、すべての意識の縛りを取り外すべきかもしれない。


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雨上がりの朝、空にはまるで宇宙船の大編隊のようなちぎれ雲がびっしりとひしめき合うように浮かんでいた。“宇宙船、大空を満たす”光景とは、きっとこんな風に夥しい数の飛行艇が空の全面を覆うイメージなのだろうと思いながら、爽快に晴れた夏の終わりの空景色を眺めていた。



それこそ“意識のスペクトル”をずっと下って、静謐で豊かで平安な領域に出ると、そこではもはや現象界の音という音は消えて、ただ、静寂のみが広がっている。
a0282620_20405168.jpg日常の日々の細々は特に変わりもせずとも、意識はそれら三次元の事柄を今までどおりこなしながらも、どこか静寂な静まり返った世界に居るような心境にある。身体のなかの中心をまさぐる感覚も、経絡の下部、丹田あたりに落ち着くような感覚があり、どこか三次元世界とそれ以降の世界との両方に同時存在するかのような、いわば、多次元の静まり帰った湖水に、片足を入れてその冷やかで静謐な安寧に触れているような感覚といおうか、どこかパラレルな二世界を常に感じているようなところがある。

よって、自然と、今まで気に留めることもなかったいわゆる「静寂」という世界のすばらしさ、心地のよさを常に感ずるようになった。
音はできるだけ耳に触れることない微弱な音量のものを志向し、風のそよぎや、草の葉ずれや、小さき虫の声など、微細で霊妙な静かな音世界を好むようになった。
a0282620_20412624.jpgもともとすべて木で覆われた我が家の室内では、ログ壁を通してわずかに聞こえる外の風の音や虫の声以外、特に夜は静寂が支配している。しばらくオーディオ機器も電源を入れる機会がなく沈黙している。雨がときおり屋根を細かく鳴らして降ることや、大風が吊るしてある庭のサインボードを揺らして音立てること以外、あたりの草地や森は息を潜めている。
木の壁は湿度も適度に吸収するが、音をも柔らかな丸みを帯びたものにしてくれるようだ。パイン材の人肌のような表面が、反射する音の粒子をも丸めてくれるかのようだ。

ひとたび音が止むと、気がつくとこれが真正の「静寂」かと思うある時間がやって来る。それはもちろん、聴覚的な実際だけでなく、それとともにある意識の静寂な世界が、自分の中から外へ、廻りへと広がっていくような気がする。
何ものも要せず、何ものも争わず、何ものも心乱すことの皆無な世界・・・。
充たされる感覚をより超えて、それすらも感じない透明で澄明で広大な静けさ・・・。

だからといって自分の実体が消えるような儚いものでもなく、重量のある実体は確かに、胎(はら)に重みを纏った実存はそのままに、ただ、意識が異次元の集合した無限に連なっているような感覚が実感としてあり、かつまた、動きの必要を感ぜずにただ在ることに徹する至福、といった不思議なありようを持っている。


a0282620_20414423.jpgこの心境はどうも今まであまり目にも留めていなかった「草」の美しさ、静けさに注目が向く傾向がある。まったく自然に、どこからともなく種が飛び、様々な種類の野草がびっしりと生えた草叢こそ、静寂な自然の宝庫と感じ、その宇宙に触れたいと思い、しばし草叢を眺める。
雨露がしたたり、濡れて緑の映えた草はまた、ことのほか美しい。
また、暗い夜の草地を眺めるのも好ましい。眠る前にいつも、二階のデッキから家の回りの草地や森を見つめる。遠い海に浮かぶ漁火の灯りも美しい。
夜霧に暗く翳を落とす草叢の静けさはまた格別に魅力的だ。
秋の虫が早くも鳴きはじめ、神秘的な夜が広がっている。

眠りに着くか着かぬかの中でも、意識の状態の解明を頭はずっとやっているようだ。同時に、さらに深い洞穴を沈降するかのように、意識の深部への下降を促すように、脳から意識への感知器官の手渡しをしているようでもある。
いつしか、脳波が静粛になり、眠りの世界の旅の中で、意識だけが夢を見ている。


明けて朝が訪れても、波のない湖面にひとつ、足のかかとから波紋が広がるかのように、「静寂」な世界は続いている。

人はいったん、すべての意識の縛りを取り外すべきかもしれない。
それを決して縛りとも思わず、自分への促しや勇気づけと思っていたような肯定的なものでさえ、案外、現世的な“ねばならない”を押しつける信条体系の刷り込みを抱いているものである。
「静寂」極まりない世界では、それそらも寂寞を乱す要素に過ぎず、荷物を下さずには静謐で神聖な世界へ立ち至っていることはできない。
物はすべて、物に類する物的な価値のものも、価値や評価に準ずる誇りと尊ぶものでさえ、「静寂」の世界ではいらないものになる。

草叢を見つめよう。
木を眺めよう。
空を展望しよう。

世界は意識で感じ、意識でつくるものだ。
私たちの本体は意識である。


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by martin310 | 2014-09-02 20:44 | 日々の思索ノート