伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新の記事
飴細工のようなカラマツソウ(..
at 2017-06-26 13:35
足場だってセルフビルド。単管..
at 2017-06-24 16:01
梅雨らしくなる前の庭便り。(..
at 2017-06-20 10:41
西伊豆の山の上で外ランチ。(..
at 2017-06-17 16:08
西伊豆の山の上で外ランチ。(..
at 2017-06-15 19:18
わんこ3歳の日に・・・。
at 2017-06-13 14:34
ブドウ棚の仮設置と最近の庭の..
at 2017-06-09 10:47
緑の癒し・・・高原キャンプ。..
at 2017-06-05 13:48
緑の癒し・・・高原キャンプ。..
at 2017-06-03 16:34
キャンプシーン画像にHDR風..
at 2017-05-29 14:28
画像一覧
カテゴリ
全体
*D.I.Y
∟18mの土留め柵
∟DIYインテリア
∟ガーデンハウス
∟ガーデンフェンス
∟ウッドデッキ
∟Tool Shed
∟キャンプ系 DIY
ログハウス
キャビン
*キャンプ
∟高ソメC
∟奥大井・八木C(3)
∟かじかの里公園C(3)
∟秋葉神社前C(4)
∟朝霧ジャンボリーC(2)
∟西湖自由C(3)
∟道志の森C(7)
∟田貫湖C(1)
∟駒出池C(6)
∟デイキャンプ(6)
車中泊の旅
ガーデニング
田舎暮らし
サイクリング
八ヶ岳ポタリング
おすすめショップ
カフェ&レストラン
BOOK&CD
風景探勝
とっておきの伊豆
とっておき八ヶ岳
スピリチュアル
日々の思索ノート
アート
文学
音楽
オーディオ
映画
オリジナル動画
YouTube
vimeo
お気楽メモ帳
社会問題
時代の真相
秘史探求
その他
「食」の問題
選挙関連
TPP関連
原発関連
UFO関連
以前の記事
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
ブログジャンル
twitterで更新情報がわかります。
ブログランキング
検索
記事ランキング


<   2014年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧

夜毎見る夢次元は、大宇宙と内なる小宇宙を結びつける鍵か?すべてが連動するこのとき。


a0282620_1010434.jpg


やはり思ったとおり、睡眠中のオールナイト夢見状態はどうやら、太陽フレアと同期して起こっているようだ。
ここのところ毎日、毎晩、たくさんの夢を見続けている。小用に立つ毎にそれらのイメージを記憶しておこうという意志が働き、目覚めても忘れていないものが増えてきている。その度に、違う場面設定、ストーリー、登場人物などが入れ替わっているので、まさに睡眠が浅くなる度に、上映されている映画が切り替わるようだ。

a0282620_10105346.jpg宇宙天気ニュースによれば、10月23日から立て続けにXクラスの大規模フレアが毎日のように出ている。
(20日:X1.1、23日:X1.6、25日:X3.1、26日:X1.0、27日:X2.0)
それにしても、X3.1とはとてつもない大規模フレアだが、奇跡的に強いCME(コロナ質量放出、磁気嵐)の放出は確認されず、地球への影響は目立ってはないようだが、ここまで強い太陽フレアで磁気嵐が観測されないのは異例中の異例のようだ。
だがおそらく、ここまで太陽活動が活発化している背景には、物理的に地球への悪影響がない中で、相当な量のフォトンエネルギーはもたらされているはずだ。
それがひとつには、自分にとっては夢次元の活性化を生み、さらに知られざるところでDNAの新たな改変にも寄与している可能性もある。ここまでの大規模な太陽イベントがあって、我々の肉体や意識に、なんらの影響もないことはかなり考え難いことに思える。時期も時期であろうし、世情の馬鹿馬鹿しい騒乱の渦中を眺めていても、明かりに照らされて次々と闇が表に出されているとも言える。
あまりに低レベルすぎる事柄であるだけに、余計に為政者たちの劣化の甚だしさに怒り心頭でその奥を見ようとする動きももたらされるかもしれず、分かり易い舞台から観客を誘おうと意図しているのかもしれない。

最近はこの夢次元の世界が、現実の世界との相関性というか、陸続きであることを追求しようと意図しているところがある。
それは、特に精神分析学の夢判断的なものではなく、または、明恵上人の夢を悟りへのテキストに用いるというのでもなく(河合隼雄著『明恵 夢を生きる』に詳しい)、ニューエイジ的なアストラル世界の探訪でもなく、大きく拡張した現実というひとくくりの世界として、意識レベルでの格差をつけない同時並置世界として認識していこうとするものだ。

だから床に着く前に、さて今日の上映会は何が観れるのかと期待感を持つほどだ。実際、上映が始まると実に興味深いシーンが映じられる。それはすでに忘れてしまっていた過去に出会った人たちとの再会でもあったり、数年、数十年前の家族とのワンシーンであったり、それも場所や背景はまったく別仕立てのものでありながら、ただ、不思議とそれぞれの人物との関係性は同じで、性格や内面など、実際とほぼ同じように反映されている。
場面の記憶というのは、例えワンシーンであっても、内側で感じ取るものにはかなりの豊富な情報量があるもので、それは言語による説明を遥かに超える意味を包含しているようだ。

結果、そういう夢を見ることで、自然と穏やかで平和な心境になっているのを発見する。以前のように、癒すべきセラピー的効果というよりも、過去の精神的、心理的記憶の綾を解き放ち、ただ平静にしめやかに、陽が照るように、風が吹くように、意識の層のうちに平和な空気が広がる、そんなものをもたらすような夢見がどうやら多いようだ。

それに、少食・微食による、いずれは不食生活を目指す毎日の中で、肉体レベルの変異も加速されるような気もする。
DNAのフォトンによる改変がすみやかに行われるにも、この「食」による肉体の変態というのは、かなり重要な要素であるように思うのだ。
つまり、フォトン(光子)による変異は、三次元の肉体レベルから、より光に近づく為に非三次元化、非物質化が要求される。食べ物を多く摂取することで肉体を維持するシステムとは、過去の三次元の物質界に激しく縛られる方法論であり、これからは、この食物という三次元物質に依らない、光、プラーナによる生命維持が宇宙の運行に即した生存システムになるはずと思えるからだ。

つまりはそれ故、太陽活動の活発化と夢見による意識の電磁気的輝き、それに「食」からの開放による肉体の変態、同時にフォトンによるDNA改変。これと連動するように地球の地殻変動や世界情勢の激変など、様々な外的、内的を問わずの変容が今すでに活発化をもたらしている、そう思える昨今だ。

a0282620_1014151.jpg



a0282620_10103413.jpg


※写真は、山梨県・南アルプス街道から早川の上流、西山温泉近郊の景観。
by martin310 | 2014-10-29 10:20 | 日々の思索ノート

「不食」の次に来るものとは、「無為」という非実現性の世界。だが、それは多次元への入り口でもある。


a0282620_13462463.jpg


a0282620_13532993.jpg当ブログの「不食シリーズ」でもおなじみの“山田鷹夫”氏の新刊、『無人島、不食130日』(三五館)が出たのでさっそく読んだ。
沖縄の西表島に隣接する無人島「内離島(うちばなりじま)」での130日に及ぶ不食実験の体験記だ。山田氏ならではの奇想天外な発想と実践による、小気味いいほどの現代生活の対極にある環境での、自分の体と人生を張っての実践録だ。毎度思い描いたことを本当にやる、氏の行動力の凄さに驚かされるが、そこで体験から得たものを読むことで、こちら側にもなにものかインパクトを得ることがある。
今回も4ヵ月に及ぶ灼熱の無人島でのたったひとりでの不食実験を完結させたのは当然のこと、そのことは普段からほぼ不食が常態化している山田氏にはさして難しいこともなく不食を愉しめたようだが、今回はその先にあるものの方が俄然興味深かった。

それは、氏もこれに一章を費やして書いているほど今回の体験による得た重要なものとして、―不食の先にある「無為」―ということだ。
これには新刊のリードからしてピンときていた。

“不食の先にある「無為」―仕事がなくてもいい、何もしなくてもいい”

辞書によると「無為」とは、・・・[1]自然のままにして作為しないこと。[2]変わりなく平穏なこと。無事。[3]行為を無駄にすること。なにもしないこと。

そうだ、「なにもしないこと」だ。
ここには、その逆の「なにかしなければならない」「なにかの役に立たねばならない」「実績を残さなければ生きた意味がない」という、勝手で強力な脅迫観念からの最大の開放力がある。
この呪縛に案外縛られて日々を送っている意識者も多いのではないだろうか。知らずしらずにずっとこれらの観念の網が、マインドの自由を奪い、急き立てられる感じや、それに順応できない不足感に、自己抑圧的に苛まれるということもあったように思うのだ。

だが、いったいそんな現世的な実現の有無、功績観、達成感だけが意味あるものだろうか?それこそ、目に見える現実創造だけが自己の目的だろうか?
そういう疑念、疑問がずっと燻っていたところに、目に飛び込んで来たのがこの山田氏の言う、「無為」という言葉だった。

無為とは、頭の支配から逃れること。身体の気持ちよさに従うこと。
無為とは何もしないことに本当の豊かさがあるとする思想である。
「人は何もしなくても生きられる(=満足を得られる」という悟りである。「人は食べなくても生きられる」もまた無為の一部である。

山田鷹夫著 『無人島、不食130日』より

このあたりは、自分としてもまずは不食に近い生活を送ってみて、つまり少食・微食生活を既に半年以上実践してみたことから実感できるものかもしれない。
食べないことを生活の何割かにあてはめることが日常化して来ると、やがて来たるときが来る「不食生活」も実際、視野に入って来ることになる。いざとなっても、食べなくてもいられる安堵感というものは、想像以上に大きい。
もし、本当に人間の生きる為の必須条件の衣・食・住のうちの「食」が消失すれば、どんなにか地上での生存が楽になり開放されることだろうか。
「住」にしてみても、これも当ブログのシリーズ記事「スモールハウス」で生きればよし。「衣」はもともと最低限しかお金をかけないものなので、自分としてはほとんど問題外だ。
「食」のない人間になることは、自然に三次元からの存在しながらの離脱感が強くなる。つまり、意識の多次元の領域が拡大・拡張して来るのが普通だ。

そうして存在の多次元化が進めば、その先に来るものがこの「無為」を全意識的に許容できる自由だ。究極的には、この三次元を超える不可視領域の意識の広大な世界での実存ということになる。
その世界での自由創造こそ、本来人間があるべき次なる段階なのだと思うのだ。
そのことをはからずも山田氏は、無人島での不食体験の中から得たということだ。おそらく、表現は違えども、氏の意識はこれらのことを知ってのことで、氏独自の実践を通じての記録を書くことで、世に届けているのだろうとも思える。

時代は「ある」こと、「あらねばならない」ことから、「ないこと」、「ないほど豊穣な世界がある」ことに移行してきつつある。そういうことが本来、次元上昇の現実的、実践的変容の道なのではないだろうか。

この今こそが、人間の意識の変容と、肉体の変態のときなのだろう。


a0282620_13542143.jpg



a0282620_13541137.jpg


※写真は、山梨県・南アルプス街道から早川の景観。
by martin310 | 2014-10-27 13:56 | 日々の思索ノート

何かがやって来ているという意識の予感は、こんな世界の到来を予期しているのだろうか?


a0282620_1145822.jpg


この目の前に広がる現実世界は、かつて若かりし頃、まだ大いに未来が開かれていると思えたときに比して、実に狭く、過密なだけで猥雑で、しかも一律で短焦点な世界であるかを実感する今日だが、いったいそれは何から来ているのかをよく考えることがある。

a0282620_1153639.jpgあるていど、年代を超えて生き続けて来ると、まがりなりにも現実世界での経験値は増えていく。それは単に、人間社会のしつらえられた制限のグリッドにやたら深く組み入れられていくことなのかもしれないが、およそ若年の青臭さは、それらの大人の掟社会の枠からはみ出る快感が勢いを後押ししていた感があり、もはや厳重に絡め取られて大人らしい大人のふりをして生きるのが慣例になった今では、行動や行為そのものよりも、現実という対象や世界そのものの認識、捉える感知構造のありかたについての興味の方が勝っているようだ。
つまりは、積み重ねて来た体験から得た認識や、社会や慣習や常識のような向こうから与えられ、ある意味強要されるが如く、認識の内部に取り入れざるを得なかったものなどの集積としての今の認識の地平を、いまいちど整理しなおして、これからも通用させることができるものと、そうでない旧来の世界観によるものを峻別して、それらの認識内の配置から新たな認識の地平での遠近法を設定していくという、そんな時期にさしかかっているような気もする。

a0282620_115507.jpgそうなると当然、現実というもののカテゴリーが俄かにその領域の範囲を限定し出すことになり、見出すものの範疇がとても目に見える現象界だけのものと規定するには無理を感じて来るものだ。
現実の出来事の起きて来る裏側にあるもの。現実を現実化するまでのバックグラウンドの非物質領域でのプロセス。結果としての現実想起のもたらす、重なった次元での多様に混交する仕組みなど、それら可視領域の外での出来事まで読み取ろうとすることで、はじめて見えて来る真実・・・。そんな重層的な時空構造体をも探りながらの現実認識法を、ある程度それでも感覚のうちに取り入れて来たのかもしれない。

それだけでも、これまでの年月の経過が意味なく過ぎ去って来ただけのものではない実感を与えてくれるが、この時代に生まれ合わせた幸運がはからずも授けてくれたものでもあるだろう。ほかの多くの過去生では得られなかった僥倖を今生、この時代の成果がもたらしたものでもあるのは確かだ。
それだけに、この後に来たるべき時代というのは、これら今までの認識の地平の規範になっていた信念体系のいい意味での崩壊現象が起きて来ることになり、そこには新たに開ける拡張現実界の多様で重層的なネットワークが形成されて来るのではないかという予感がする。
つまりは閉ざされ仕切られて分断されて来た多様な周波数域の現実が、相互につながり連携しながらリアルを生み出していることが、より鮮明に意識化できて来るといいうものかもしれない。
例えばそれは、この目の前に広がる現象界と、その背後にある四次元世界、さらには想念の波動世界、睡眠中の夢の次元、覚醒時のヴィジョンのエリア、そして未だ見ぬ未知なる多次元宇宙・・・、言語にするとありきたりの用語しか並ばないが、それぞれに壮大な世界を拡げている。

a0282620_116150.jpgそのことと同期してのことか、この今でさえ、どうにも確かなものとしては掴めないが、何か言葉には出来ない高次な叡智の大気のようなものが既に差し迫って降りて来ている気もする。この周波数域は言語の範囲を超えている。言語による理解はとても不可能な、テレパシックな領域の別世界だ。
おそらくこれが地上に降り来たると、人の意識のうちでの相当な意識格差が助長される気がする。もう今までの認識(awareness)がまったく通用せず、認識の擾乱が起きるのも必至ではないかと。それも、受け入れるにたる意識にあるソウルによるもので、決して万人にではないだろう。

いずれにせよ、問題は自分の意識がそれらのセンサーであり、司令塔であり、制御コントロールセンターであることは確かだ。ここで感知する見えない情報こそが、これからの自己の新たな観念構造体を形成していく。それはかなり多次元的で有機的で柔軟で理知的なものだ。この世界に在りながら多次元世界にも在り、人間的活動は同じでも意識的活動は多様で広範だ。存在自体が宇宙に貢献するような、そんな歩く移動基地局のようなものになるのかもしれない。
by martin310 | 2014-10-23 11:07 | 日々の思索ノート

Xフレアによる夜空に輝くオーロラのように、脳内にオールナイトの夢見がつづく。新世界がやって来るのか?


a0282620_22442886.jpg


a0282620_22451241.jpgまたまた昨日、太陽の2192黒点でX1.1の大規模フレアが発生したようだ。今日も引き続き活動は活発で、Mクラスが5回も発生しているとのことで、ノルウェーでのオーロラも何度も空全体で輝いているようだ。

どうも不思議と同時期にリンクするように、また眠っているあいだ中のエンドレスな夢見がちょうど昨夜あたりにあった。まるで北欧の夜空のように、脳内の映写場に夜通しのオールナイト上映会が催されているように、頻繁に夢を見ていた。しかも、眠気がいつもより早くやって来て、床に着くのも早くなり、睡眠時間も伸びて、いっそう夢見の時間を長く持つことになる。
夢の内容に、何か気づきを意図する意味あるものが含まれているかと言えば、それはそれほどのものでもなさそうだが、映像的には映画のようにある種ドラマチックで、そこいる自分の心理や心境などは実にリアルな感情を伴っているのを強く感じている。
いつもどのシーンでも、自分は何か時間的なものに迫られているようなことが多い。思っている以上に、自分の動きが遅く、迷ってしまい、やたらに時間がかかてしまって危機的状況に陥るということがよくある。夢の中ではひとつの行動から次に移るとき、常にそれ以前のことが忘却の憂き目に遭うようで、終始過去を忘れてしまっている。もっとも夢の中では、時間自体が自分の感覚的な主観によるもので、如何様にも伸び縮みするようで、平均的時間軸ではない夢世界の自由変形の時間があらわれるようだ。(もっとも、現実の時間ですら、そういうものに近いのだが)

脳内のオールナイト夢見の他にも、昨今には今までにない意識のかんじがあるようだ。それも太陽活動と条件づけられるかどうかはわからないが、どうも直感的には、太陽系全体の銀河のうちの移動領域で、何か新たな波動エリアに進入したのではないかと思えるほど、過去の世界とは違う場所に意識のありかたが変化してしまったような気がするのだ。
ひょっとすると、夢の中で見た世界の意味にも関連しているにかもしれないが、どうも過去の記憶はあっても、いまやそれに意識がフォーカスするほどの力量を持ち得ないような感覚なのだ。つまり、今まで興味を持ったであろうことや、好奇心を炊きつけられたものであろうことが、如何にも色褪せて見え、もはやあってもいいが敢えてそれに手を出そうという気力がどうしても湧かない感じと言おうか・・・。
だからといって、特別な諦観があるわけでもなく、すべてを知ってしまった訳でもなく、何故か空虚で興味の対象からは外れてしまうのだ。

なんだろうか?およそのこの世界の隠されていた仕組みのようなものは、様々な情報からある程度は知り得たところもあるが、決して充分ではない。だが、それでもいくらか、知ろうとしていた目的を果たしてしまった感があるのだろうか?
未だよくはわからないが、どうもうすうす感じるのは、この次元感覚ががらっと変わる時期が近いのでは?というものがある。
そう、今まで遠大な期間、闇に隠されていた真実が露になり、あらかたその種あかしも進んだかのように、これからまったく新たなステージに行く先駆けのようなものが顕れて来るのかもしれないと、そんな感覚がやって来ているようだ。

来たるものがどんなものかはわからないが、太陽系は銀河の海の中を航行する中で、きっと今までとはがらっと違う濃度も周波数も高い高次元ゾーンへと突入している気配なのかもしれない。

<参考> In Deep さん 「超巨大黒点群が地球に向いてくる」
       http://oka-jp.seesaa.net/article/407426472.html

a0282620_22445239.jpg

by martin310 | 2014-10-21 22:52 | 日々の思索ノート

まるで暗雲晴れた地球を象徴するかのように、紺碧の空に初雪の富士が光を放っている。


a0282620_11525953.jpg


我々の智と認識を、実に狭いレンジの檻の中に閉じ込めて来た仕組みの全体像が、その事細かな実例の数限りない報告によって暴露され、意識的な視点を持ち合わせている人たちのあいだでは、かなりの共通認識が広まって来たようだが、それによって単眼的な狭窄視野から、複眼的多次元的広域視野にどんどん改新されて来ているのも事実だろう。
そのことによって、自らの置かれた生活そのものの現実が、「彼ら」の形成してきたピラミッド構造の最下層の一角にあることも見て取れるようになっただろうし、しかも、表のピラミッドのほかに、その裏に奥行きをもった五感を超えたそれをもれっきと存在していた仕組みが、かなりの精度で解明されて来てもいることから、余計に、今の暮らしの実態そのものも、それらの見えていなかった構造の枠の中に、厳格に収められて来た結果であることに、合点と納得と言い知れぬ屈辱感と諦めに似た諦念を抱くこともあるだろう。

a0282620_11534760.jpg今このときは、それらの支配システムの屋台骨がガラガラと音を立てて崩壊していく様を見ることができるような時が到来している。気がつけば、あれもこれもという時事的情報から、世界的な動きとして日々、その類例とする内容を知ることになって来つつある。
まだまだ、ほんの一部の層にしかそれは届けられていないが、やがてその数は広がり、おもてのNEWSとしても取り上げざるを得ない事態にまで発展していくものと思える。

長いあいだ無知蒙昧のうちに流されて従わされて来た世界から、それらの支持と実行系統に異変が生じてその機能が失われていったなら、きっと思いもよらぬ変化が巻き起こるのではないだろうか。
抑圧と呪縛のピラミッドそのものが瓦解する様相を呈しながら、真実のあるべき姿が顕れて来たなら、最下層の結果としての目の前の暮らしの世界そのものも大変貌を遂げる公算が大きいだろう。なぜなら、制限と限定の世界構造からの開放が始まるからだ。
これはもちろん物理的制約からも、精神的、意識的制約からも見えない箍(たが)がはずされることを意味する。時空間にあった見えない網が消えて、絡め取られて袋詰めされた意識のパッキングが破られ、宇宙に開放系のルートが与えられることになるからだ。

地球に届きにくくされて来た、覚醒の周波数帯が甦る日もそう遠くはないはずだ。せいぜい自らの多次元受信機をきれいに磨きあげながら、宇宙インターネットの開通する時代を模索していこう。

まるでそんな雲晴れた地球を象徴するかのように、紺碧の空に初雪の富士が光を放っている。


a0282620_1243995.jpg


a0282620_11532327.jpg


※写真はいずれも我が家とその近くで撮影したもの。
by martin310 | 2014-10-16 12:05 | 日々の思索ノート

自然のもとに光と色彩と、先進な波動の情報を求めて。~小さな旅は続く。


a0282620_21454483.jpg


今は休日となると、晴れていれば出来る限り自然のもとに出掛けたい衝動にかられる。二人の他に新たに一匹が増えたこともあり、家の中の世界ばかりしかあまり知らないワンコを出来るだけ外の世界に触れさせてあげたいこともあり、キャリーに入れてワンデイ・アウトドアを体験させている。
思い返してみて去年と言えば、ちょうど “TOOL SHED” のD.I.Yに熱中していて、およそ出掛けることなく毎休み中作業に勤しんでいた時期だったのだが、今年はもう既にそのような1年前が遥か遠い日々のように感じるくらいに、気がつけば生活の流れも意識の地点も、いつのまにかぐっと距離を伸ばしたように感じられるものだ。

a0282620_21463123.jpg時間の流れがあまりに早く、一日が短く、思えばどんどん日数が経過していく。だからといって、日常にめまぐるしく激しい動きがあるのかといえば、そんなことはなく、至って平穏で静かな日々なのだが。
または、時事情勢が逼迫し、動乱のごとく驚天動地な事態が目に見える形で起こっている訳でもない。変化は確かだが、かなりインナーな動きでしかない。それなのに、時間は加速度的にスピードアップしているような感覚にある。
おそらくこれが、幻想としての直線的時間の、時空の固有振動数による変化をあらわすものなのかもしれない。
来るものは激しく早く差し迫って来るようで、去っていく事柄はあまりに流れに遠く運ばれている・・・、そんなまるで川瀬の中に立っているような時間の奔流に身をあずけているような気さえするようだ。

なので自ずと、流れの川原でなく、静謐な湖水を選んでバランスを取ろうとしているのかもしれないが、秋の装いに静かに移行している森と、秋空に深い紺碧を見せる湖水の魅力はやはり心を惹きつける。
a0282620_21464518.jpgそれに大きな湖ほど、空を大きく見せるものもない。青空を渡る雲を眺めることも、天からの光の微粒子のなかの波動情報を感じ取る重要な要素だ。太陽が放つ光の波の内部に、セントラルサンから送信される意識の覚醒コードが組み込まれているはずだからだ。視覚領域を超えたなんらかの振動分子が意識に微細な反応を示す。湖面に生成される風のつくり出すさざ波の細かな動きのうちにも、光の粒子が踊り、同様な言葉にならない極微な情報をもたらす。

そうやっていつのまにか受け取った「感じ」というものを、時間をかけて意識の中で反芻するうちに、閃くように「こういうことだ」という見解がやって来たりする。それをさらに、短い文面に置き換え形にすることで、一様な受信サイクルが一段落するといったような感じだ。
もちろん、それを裏打ちするようなweb上の良質な情報源もチェックしながら、自分の新たな「認識(awareness)」をつくっていく。
その為にも、出来る限り、天からの光を求めて自然界に奥深く入ろうとする。地図を広げそのポイントを探し、脳裡に地場のエネルギー地図を描き、目指す場所を目的地に据える。

これから秋の紅葉がたけなわとなる。一段と光と色を求めて出掛ける意欲もさらに高まるだろう。もちろん人が行かない、秘された好ポイントへ、日帰りミニトリップは今後もしばらく続きそうだ。

※写真はすべて本栖湖にて撮影。

a0282620_21471995.jpg


a0282620_21465973.jpg


a0282620_21473386.jpg

by martin310 | 2014-10-13 21:53 | 風景探勝

降り注ぐ天からの光のうちに、この世界の変化の兆しを見る。


a0282620_22302613.jpg


地球はどうやら、遠い過去からの見えない支配力の呪縛に隷属する文明から、新たなそれらと決別した独自の本来あるべき世界へと変わる大いなる転換期に具体的にさしかかって来ているようだ。
その新旧が入り混じって混沌とする情勢が、先進的な情報源からは伺い知ることができるようになって来ている。それも地球内外からの「彼ら」やその実働部隊の力が殺がれ、目に見える形にまでその凋落ぶりが露見できるようになったことにも顕れているように、実際、地上で策謀をはかる代理人たちのエネルギー的バックアップ体制が崩壊しかけていることにもよるもののようだ。
だが、まだまだ旧態依然たる動きの末葉は、慣性運動の如く未だ遅れたタイムラグのように、しばらくは時代錯誤の猛進ぶりを発揮しながら、しゃにむに独裁的な力を振るおうとするだろうが、所詮、それも権力にしがみつく幻想に過ぎないことが露になって来るはずで、今にその哀れな姿を見ることになるだろう。

そんなデジタリーな情報と同時に、自分独自に感じ取る天からの光の中にも、新たな兆しの波動状態が垣間見える気がする。
風景のなかに光を見ようとするのは、他でもない、太陽という光子による大情報源からのエネルギーの微細な変化を感じ取る作業から、例え、地球到達以前のハッキングによる情報改悪はあったとしても、そこから僅かにでも漏れ出る真性の波動を細心の感性で感知すると、そこには明らかに今までと違うものを見るのである。

それは、昨年やそれ以前の降りて来ていたものとは、また一段と堅牢度が増したような強さと正確さを持った波動構造をしているのがわかる。
このエネルギーの中では、嘘やごまかしや偽善や、隠蔽の芝居や、強欲による強権性や、およそ宇宙の法にそぐわない冷酷な他者支配などという想念自体がまったく波動的に合わないものとなるだろう。もし、それを強引に続けるならば、それを見知る方からは露骨に実態がおかしなものと察知され、あまりに時空との異質さに誰もが気づいてしまうようなしろものとなることが予想される。
それだけ宇宙から降り注がれているエネルギーは、真性度の高いいわば「まこと」の強力なコードを伴ったものに変化してきているようだ。

このことは、各人においても自分自身の本質を見据えて、自らの魂の目的に沿った生き方をしていないならば、益々苦しい現状を迎えることにもなるだろう。この波に乗れているか乗れていないかは、存在のよろこびを享受出来ているかいないかで容易に自己判断できるだろうし、そうでなければ「なぜ」「どうして」という自分に対する問いから、新たな気づきが生まれ、成長への欲求が育まれることになるのかもしれない。
つまりは、天からの大いなる意志のなかに、どの人も招き入れられて、そこから各自の次なる道の進化が促される状況にあるというのだろう。

そんな波動域にすでに地球は包まれているようだ。
時代は表立っては未だ見えないが、確実に波動的にはそれに先んじて大きく変化しているようだ。進化のスピードはこれから嫌が応にも喚起されて来るだろう。

※写真は、西湖にて撮影。

a0282620_22304583.jpg

by martin310 | 2014-10-12 22:31 | 日々の思索ノート

白州の田園地帯で見たもの。近い未来(開放された世界)が空からそこに降っていた。


a0282620_20411265.jpg


四尾連湖を後にして、市川大門まで山を下り、甲府市内へ入った。いつもは国道20号、つまり甲州街道を北上して八ヶ岳山麓へ近づくのだが、できるだけ見飽きた風景を避けようと、それと平行に南アルプスの裾を走る田舎道を、例によってのろのろと行き、やがて武川から白州の奥まった地帯へ足を踏み入れた。

白州は八ヶ岳と向き合う南アルプス山塊のすぐ裾に位置している地で、尾白川の流れを中心に裾野に広がる丘陵の田園地帯だ。
今まで八ヶ岳側の山麓を常に目当てに出掛けて来ていて、ついぞそれと向き合う形の武川や白州の地には、これも一度も入ったことがなかった。

a0282620_20425457.jpg大武川に沿って緩い傾斜を登って行くと、一般の民家に混じって、別荘風の垢抜けた建物が点在し出した。そうか、今まで八ヶ岳山麓にしか目が行っていなかったが、こちらの南アルプスの裾野エリアにもログハウス系の建物がよく似合う地があったのかと思った。おそらく、一時静かなブームだった頃があったのだろう、やや築年数の過ぎた避暑用の家屋が川沿いの道に見てとれる。
また、それと対照をなすように、古くからの農家の集落が寄り固まっている場所もある。新旧の趣を持った建物が混在しているような田園地帯だ。


a0282620_2042124.jpg


脇道に誘われて広大にひろがる田圃の一本道に出た。大空の下、うす青く聳える黒戸山や甲斐駒ケ岳を背景に、左右の棚田の中央を真っ直ぐに伸びる道の先には、赤いログハウスが印象的に見えていた。
あまりの気持ちのいい光景に、思わず車を停めて外に出た。

なんだろう?この場は。
他のところとはまったく違うエネルギーに満ちている。
それが何から来るのか、しばしあたりを見回す。
確かに空間の広がりはアルプスを背景にして、この周囲を見える光景以上に大空がいっそう開放的なものにしている。そこに真っ直ぐの道が、遠近法的にも距離を伸ばし、ズームアウトされた奥のログ群の大きさもそれに輪をかけているようだ。だが、そんな視覚的なものだけではない気もする。
左手にある大屋根のログも、その雰囲気を盛り立てているように思えた。天窓が並び、チムニーが屋根を飾り、サイドの白樺やバックの青い山々がいっそうこの住居をロハスなものに見せている。

a0282620_20423175.jpg


この場のエネルギーは、どうやらこの建物を目にしたときから、その中心はこれだという確信がやって来た。
今、目前にしているが、そこに存在する以上の何かが目にしている光景から出ている。そのあたりだけ時空が異なることがわかる。

ただ、その時点ではその理由がわかった訳ではなかった。
確かに魅力的な光景ではあったが、それほど特別なものでもなく、決して生活臭がない完全にリゾート的にリファインされたものでもなく、えてして高原の景勝地にはありそうな景色でもあり、それがなぜ、こんなにも時空の異なる世界を醸し出すのかは、その後ずっと考え続けてやっと理解出来たものだった。


a0282620_2043184.jpg漸くわかったそれは、視覚を超えた感覚で受け取ったもので、おそらく、今を基準に言えば、来るべき次なる時代の時空波動に包まれていたというものだ。つまり、天からそこにだけタイムワープしたように、ピンスポットで差し込んだ光のように、未来のエネルギーが降りていたというものだ。
それをもっと分解するなら、この今の制限され、抑圧され、拘束された不自由な世界から、「彼ら」の支配力のマトリックスから開放された後の世界の持つ波動を先んじて示されたようなものだ。
それをこの場に建つログ風の住居に与え見せられたもので、つまりは今まで、そして今でも、ずっと否が応でも味わい続けて来ている現在のようなあらゆる縛りから解き放たれ、経済やエネルギーや時間や法や、労働や食や健康や老いや意識などを覆う限界を高じられた仕掛けから開放され自由を得た暮らし、そういうものを垣間見せてくれた波動であった。
その世界では、人は本当に自分の望む暮らしが愉しめ、自然の大きな懐のうちで、自分の顕在意識と魂との経路が結ばれ、ハイヤーセルフを通して本源意識とのつながりも回復し、物資的生活からより光的な次元の暮らしぶりが主となるような、かなりアセンドした世界を得るようになる。それをこの場に降り来ることによって感じさせられたのが、その意味だったようだ。

それは、はからずも自分がずっと志向していた次なる理想の世界の光景なのかもしれない。それをこの白州の田園地帯で気づかされたということだろう。
その来るべき世界は、まんざらそう遠くにあるものでもない気もする。この生きているうちに経験しなければ、逆に来世に期さなければならなくなるものだからだ。そう長くはならないだろうし、そんな兆しも世界の情勢の一部には既に見えはじめているのではないだろうか。


a0282620_20414332.jpg

by martin310 | 2014-10-08 20:46 | スピリチュアル

山上の小さな湖―四尾連湖にて。 「今」に存する感覚を得る。


a0282620_1459788.jpg


富士川沿いの道を甲府へ向かう途中、以前からその存在は知っていたが一度もまだ足を踏み入れたことのなかった山上の小さな湖、四尾連湖(しびれこ)へ行ってみた。
ここはアウトドア雑誌やネット情報で見かけて、キャンプやカヌーなどの好適地だとは知っていたが、実際、地名の読み方もわからず、どのあたりにあるのかもおぼろげにしかわからず、地図で詳しく道筋を調べてみると、その登り口は今まで何度も通っていた「本栖みち」の途上にあることがわかった。
もちろん、道路標示には至る先が「市川大門」としか出ていないので、およそこんな美しい湖がその先の山の上にあるなどとはついぞ思わない。なんでも、この小さな湖は、その昔、富士五湖ならぬ、富士八海と呼ばれたうちの、有名な五湖の残りの三湖のうちのひとつらしい。なぜか、富士八海というと、どうも古代歴史の古文書の「宮下文献」に記された世界のような、古代富士王朝の頃の神秘感を感じる気がする。字の当て方にしても、どうも秘史としての古代王朝的な雰囲気を持っている。(別名、志比礼湖(しびれのうみ)、神秘麗湖とも書かれるようだ)

a0282620_1522429.jpg登り口でさえ、こんな狭い道がそうなのかと不安に思い、Uターンしては道路標示を再確認しに行った。直後の脇道を指しているのか、その先の交差点を指しているのか、実にわかりにくい所だ。
カーナビなど敢えて装備せず、道路地図を頼りに、自分の勘を働かせて探すのが本望なので、このような見つけるまでのドラマも小さな冒険の一環なのだ。
それにしても、初めて走る道は初見の景色と相まって、とても興奮する。未知なる領域に足を踏み入れるわくわく感はいいしれぬものがある。家からの日帰りコースのほとんどを走破し尽くし過ぎているきらいがあるなかで、まだこんなところにまったく自分にとっての未開の地があるとは思いも寄らなかった。それだけに、湖を目指し、延々と登る山道の工程は実に愉しいものだった。行き交う車さえまったくなく、超低速であたりの山々の風景を堂々と脇見しながら行く道は、相当な開放感がある。思わず、あまりの心地よさに奇声を発するので、同乗のワンコがそれにいちいち反応する。連れはそれを笑う。


a0282620_1513917.jpg


標高をどんどん上げ、峠のようなあたりのすぐ下に湖の水面が木立の中に見える。湖畔は、水明荘龍雲荘が占めているようだが、対岸のキャンプ地まで歩いていけば、絶好の“湖畔でランチ”の場がある。(湖面標高880m)
こんな知る人ぞ知るような場にある湖だけに、一般の俗化からはかなり守られているようだ。湖畔の土の道は、どこか異国の湖を思わせるように魅力的だ。
周囲1.2キロしかない湖は、静まり返っている。ときおり山荘の人の声や作業の音が漏れて来るだけで、あとはまったく人気がない。湖畔の来訪者は、我らふたりと一匹だけである。
まあるい湖上の空だけが、森と山のあいだに空いている。
草地にシートを敷いて、バスケットに入れて持って来たサンドイッチや焼きたてパンなどを食べた。爽快に風が渡っていく。湖面にそれが風紋をつくる。
ワンコを放すと、草の生えた中を嗅ぎながらあっちにこっちに走りまわっている。あまり離れると恐いのか、また自分で戻ってくる。
いつものごとく、コンパクトバーナーで湯を沸かし、コーヒーをドリップして飲んだ。至福のひとときである。

a0282620_1524446.jpg何でもない休日のワンシーンだが、そこには比類のない幸福感がある。美しい自然と共に家族の一単位がそこに存すること。満ち足りた時を何にも遮られずに過ごす自由・・・。
あとで思ったのだが、この日の一連の小さな旅の中で、およそ普段のような脳内思考がまったくなかったのに気がついた。つまり日常の雑多なマインド世界から完全に自由で固定されない、その時、その瞬間に十全と自分そのものであったことが不思議だった。
今、そのもののうちに在った。自分自身ですら意識せず、およそそれは「無」のような心境、そこに在るだけのそれになりきっていた。

それも意図的、意識的にそうなろうとした訳でもない。いつしか、そうなっていたという、そのことに一日の終わりに気がついたということ。
この感覚は案外、今までにないものだった。
(この無のような心的世界の裏側には、もちろん膨大な広がりと複雑過密で、乱雑で醜悪な世界の実像が横たわっている。日々、情報探査によって知る内外の情勢をバックに、おぞましい地球の現況を知るにつけ、この日の開放された光の世界がいっそう輝くのは言うまでもない)

それは美しいものだけに反応する自由、その時、その刹那に充溢する至福・・・。そんなような心的体験がこの日に与えられたもののようだ。
「今」に存する感覚、というのはこのことなのだろう。
言葉にすると、とたんにありふれたものになるが、言いようのないそれは、体験で得るしかないものだ。

湖岸の景色を撮ることに夢中になって砂浜のあるところまで行っていると、姿が見えなくなって不安になった呼ぶ声が湖面を渡って来た。


a0282620_14593576.jpg

by martin310 | 2014-10-06 15:13 | 風景探勝

風景による既視感(デジャヴュ)体験・・・富士川の福士洞門は超古代文明にもあった!?


a0282620_11403971.jpg


この歪曲しながら蛇のように横に伸びる長い眼鏡トンネルは、静岡県の富士川に沿った国道52号線の福士洞門を対岸から望んだものだ。
富士川を川筋に沿って北上して甲府に至る道は、以前からのお気に入りのコースで、そろそろ久し振りにと思う頃に行ってみることになる。その途上の南部町あたりにこの洞門はある。

a0282620_1143385.jpg今から10年ほど前だろうか、はじめてこのコースを走ったとき、この無数のアーチが横並びにつながるトンネルを見て、ある不思議な感覚に襲われたことがある。
まず一見して直感的に、「あっ!これは見て知っている」と思ったと同時に、実に懐かしいようなものが湧き上がってきたものだ。
そう、それを「既視感」、いわゆる「デジャヴュ」というのだろう。見たことがあるといっても、決して今の時代ではない、果てしなく古い時代、そう有史以前の記録のない昔だ。
アーチ型の窓が並ぶ、ちょうど同じような建造物を、おそらく超古代の記憶として持っているのだろう。当時は、このような鉄筋コンクリート造というのではなく、何かそれに代わる強度の高い土のようなもので出来ていたように思う。なのでイメージとしてテラコッタのような質感を思い起こす。設計デザインの基本としては、現代のような直線的なものより、曲線を多用したような柔らかい形体が主流だった気がする。

それにしても、まったく超古代の建造物と同じものが、こんな川沿いの国道に偶然建設されていたとは驚きを通り越して、長大な時間を超越して、また同じものがこの世に出現する不思議を感じたものだ。
もちろん大手ゼネコンの仕事ではあるだろうが、まさかそんな見方があるとも知らずに造っているはずだ。
こんもりとした木々に覆われた小山と、川の流れと相まって実に魅力的な世界を現出している。ここには超古代文明のロマンが充溢しているのだ。
特に夕暮れどきになり、洞門内のオレンジ色の照明が点々とアーチから漏れる頃の感じは、言うに言えない魅力に溢れる。そんな光景を見やっていると、まさにタイムスリップしたように、今という時間のフレームから別の時空連続体の世界へと行ってしまったような錯覚にとらわれる。

                         ◆◆◆

風景による印象的な「デジャヴュ」には、過去に日本列島の各地で遭遇したいくつかがある。

a0282620_1144614.jpgそのひとつは、沖縄の那覇の南東、国道331号線を走っていたとき、眼下の海に迫り出した「奥武島(おうじま)」を見たとき、無言のうちにまた遠い過去生で見ていた超古代文明時代の同じ出島を思い出していた。
この画像とはもっと違って見えていたが、そのイメージに合うものはないので、自分の脳裡にだけ残っているのだが、おそらく、幾分、魂記憶のある夢幻的な波動に包まれる中で目にしていたので、余計に追想的なロマンティシズムの彩りを帯びていたのだろう。
こんな島がかつては大洋交易の玄関口になっていて、大きな古代の船が出入りしていたようだ。そして、この地の高台には、海の王宮のような王族の滞在施設があったような気がする。外光はまさに沖縄のような超ビビッドな明るい色彩に輝いていた。

                          

a0282620_1144238.jpgそしてさらに、北海道の日勝峠あたりを走っていたとき、トンネルから出ざまに急に、超古代文明の頃の同じような道路や高架や隧道が縦横に交差しているような超近代的風景を幻視していた。
ああ、同じだ!というように、目に見える光景に違いはあっても、高速で走行中の感覚がまったく遠い過去の世界へ入り込んでいるのがわかった。
現代と同じような高速道路網があって、自動車というような乗り物で当時も位置移動をしていたのだろうか?
また、同じように、車のリアビューを走りながら見ていて、似たような乗り物があったのか、過去の時代の意識とが入り混じって来ることもある。

                          

a0282620_11454310.jpgもうひとつ衝撃的だったのは、あの横浜みなとみらいのランドタワーが完成した頃、中華街に寄ったついでにランドタワーを目の前で見ようと、散策しに行ったことがある。
横浜の街が暮れかかり、タワーにも灯りが映えていた。それをタワーの真下から見上げた瞬間、暮れかかる空に聳える巨大建造物の窓の光とともに、恐ろしい勢いで過去の記憶が脳に衝撃を与えた。
「こっっ、これは見たことがある!」
そう、この時代ではもちろんない、おそらく1万数千年前だろうか、そんな過去の時代に確かに見ていた建造物とまったく同じものが、そこに建っていた。あまりのショックにしばらく呆然としながら、今の時間と、過去の時間の落差のない、ぴったりと重なってしまったような実に不可思議な感覚に捉われていた。

いったい時間とは何なのだろう?
本当にそれは過去なのだろうか。今に同時にあるのではないのか?
パラレルワールド?平行宇宙・・・。
夢なのだろうか?いや、現実だ。
では、夢が現実なのだろうか?

a0282620_11443649.jpg米国の量子物理と超弦理論の専門家である物理学者ミチオ・カク博士によると、デジャヴュは「異なる宇宙からの転移、あるいは(波動の)同調と関係があるかもしれない」という。
パラレルワールドは、それぞれの宇宙は同じ振動数で振動していないが、ひとつの宇宙と他の宇宙が「同調するとき」に、宇宙と宇宙の間で転移が発生するという。

そのような、ひとつの宇宙と他の宇宙が「同調する」場というものが、この世界の中にはあちこちにあるものだ。
旅をしながらよく、そういう体験に遭遇する。
きっと、この世界は我々が知る以上に複雑で多様で、広大で多次元なものだということを気づくようにと手配されているのだろう。

既視感体験というものは、確かに、想定された既存の時間感覚を揺さぶり、意識を新たな次元へと拡張させていく働きがあるものだ。
by martin310 | 2014-10-02 11:50 | 日々の思索ノート