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伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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時間の静止した世界。あたりまえのタイムフレームから一時的に出てみてわかること。


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※我が家からの沼津湾の眺め。いつもより望遠でズームアップして撮ったので、中央左からの達磨山の先に伸びる岬、大瀬崎の細長い半島まで見える。


雨が降り続いた翌日、予報どおり朝から爽快に晴れ渡った。
大気が雨に洗われたように清々しく澄み、秋の名残の紅葉が未だ色を失わず、折からの強い陽光に美しく輝いている。

ここ、我が家からの沼津湾の眺めにも、その眺望の下段を埋め尽くすように、森の黄葉が常緑のグリーンを従えて鮮やかな彩りを見せていた。二日ばかりすっかり霧や雲で姿を見せなかった富士も、宝永山の下まですっぽりと厚化粧したように深めの雪衣を纏っていた。どうりで肌寒いわけだ、富士山に雪がかかるときは、ここ伊豆の山中でも大気がいっそう冷ややかになる。


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※我が家から車で小一時間、上の写真の岬、大瀬崎のすぐ近くから富士山を入れて撮る。


この日の超快晴になるだろうという予想が的中し、ちょうど休日にあたったので、さっそくいつもの西伊豆までの海岸線コースをまたのんびりと行った。
山の上の我が家からは、沼津湾の海景を見るまで30分もかからず行ける。三津(みと)や西浦を過ぎて大瀬崎(おせざき)までの海岸縁の細い道を富士を眺めながら行くと、もうそこは伊豆の古くからの漁村エリアだ。
ここへ来るといつもながら不思議なのだが、こんな短時間しかかからずこの地域に進入すると、今までの時間感覚とまったく違う、まさに時間の静止したような、時間の流れそのものが消失してしまったような奇妙で、いやに心地いい空気に全身が包まれる。
奥まった内海がまったく波を運んでこないようなべた凪の海になり、わずかに風の音と鴉の鳴き声がしているだけの動きのない世界に変わるのだ。陽光は静まり返った漁村の風景に、淀みなく隅々まで明るい光を漲らせている。
同じ人の住む世界でありながら、湾を隔てた向こうの沼津市の都市建築群が富士の峰の下に広がり、まったく此岸とは対照的な動的で人工的で現実的そのものの風景を見せている。まるで蜃気楼のように近代都市が対岸にあらわれたような不思議な好対照性を見せている。


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※西浦からの富士の景観。雲を隔てて天上界の富士の峰とその下界に広がる沼津の都市景観、そしてこちら側の漁船の漁風景、異なる世界が層によって分けられ、それがひとつの世界として一体化しているような不思議な構図だ。


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※沼津湾に浮かぶ海上ピラミッド「淡島」。島の頂には淡島神社があり、島を覆う樹林帯は南方系の植物群落による異色な雰囲気に満ちている。


大瀬崎を過ぎ、井田(いた)集落までのまったく人家のない森の道が、最も日常の時間感覚から遠い世界を感じさせる不思議な空間だ。
何がそうさせるのかいつも来ると考えるが、理由は解らずとも、感覚的事実は常にこの場の反時間性を実感させる。
我々が日常を過ごす、せわしなく煩雑で、流れに乗るよりも追われる苛烈さを感じる時間の世界と、このあたりで感じ取る無時間性とのあいだには、かなりの波動的な隔たりがあるように思えるのだ。いわば、タイムフレーム自体がまったく異質で、ここに居ると時間のあるかなしかの時の流れのうちに、肉体も意識も溶解していくような快感を覚える。
それは下の写真の風景に懐かしさを覚えるように、古代人が持っていた時間の豊饒な営みをこの地が磁場として保持しているのではないかとも思えるのだ。本来、人間は原初の地上ではそういうタイムフレームのもとに生きていたのではないか。そして、我々現代人は、時間という概念でさえも、感覚を麻痺され、洗脳という無意識下の思い込みによって、幻想のタイムフレームの中に閉じ込められているのではないかとさえ、思うほどだ。

せわしなく、ある種、脅迫神経症的に時間の幻想に追われて、無目的に能動されている我々とは、実際はまったく奇妙な世界の住人たちと化しているのではないだろうか。
ずっと自由に、思うがままにこの風景を眺め、無為の時を充溢して生きるのも、決して無意味なことではないだろう。むしろ、日常の閉じられたタイムフレームから離脱して、天地自然の大時間の無限の中に遊ぶことの方が、きっと本来のホモサピエンスの野生を回復させる機縁になるかもしれないと思うのだ。
あたりまえと思い込んでいる時間の流れでさえ、巧妙に操作されたマトリックスの最たるものではないか。「進歩」などという脳内幻想と同じものかもしれない。いったい何に掻き立てられているのだろうか?

そんなことをついぞ考えさせられる、時間の静止した場であった。


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※井田近くの道路脇から対岸の日本平方面を望む。いつもながら感じるとおり、ここからの樹間から海を隔て遠く見える対岸の風景は、なぜか古代の頃見ていた風景のような妙に懐かしい感覚を持つ。
by martin310 | 2014-11-28 14:09 | 風景探勝

今の世界での物との関わりを考えれば、どこか自動的にミニマリスト化している自分に気がつく。


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Bライフセミリタイヤ系のブログを読んでいると、「ミニマリスト」という語句を目にすることがある。
以前からあった用語なのかと思いきや、これはミニマルライフなどから派生して出てきた、いわゆる物を最小限にして生きる生き方を目指す“最小限主義者”を意味することらしい。(もともとはミニマルアートの芸術家をそう呼んだことが元らしいが)
もっとも大雑把な意味で捉え、その定義も範囲も曖昧なのがいいところで、いわゆる“断捨離”を基本に、出来る限り必要のないものを捨てて楽しめる時間や空間、心の余裕など大事にする生き方志向の人――といったような意味で使われているようだ。

アメリカからのスモールハウス・ムーブメントなどもこの動きの部類を代表しているのだろうけれど、余りに物の溢れた、物質にあまりに依存し、それに振り回され過ぎる現代人の状況から、よりもっとシンプルに、自分らしい暮らしを実現していこうとする、物数を最小限にして無駄のない暮らしやすい環境を志向しようとする動きだろう。

それにはもちろん、経済が低迷不振の社会状況も手伝って、いっそう個々人の消費マインドの落ち込みもあり、物を少なく、生活費も極小に、住環境もスモールに、自分がすべてを取捨選択し、大切なものだけに囲まれて暮らすことを目的化しようとするのも、十分頷けるものだ。



a0282620_1557395.jpg分にとってはこの「ミニマリスト」志向なるものが明確にある訳ではないし、今からそれを目指そうという気もないのだが、考えると、生活のある部分ではかなりミニマライズされているところもあるなと思えるのだ。
特に“断捨離”を大々的に実行して持ち物を極端に減らした実績もないし、家をスモールハウスに建て替えた訳でもない。(新築した5年前にはまだそんな思想はなかった)
だが、様々な生命維持に関わる秘された情報を探索していくにつけ、特に「食」に関することや、「情報」に関することは極力、以前の“B層”的発想からは逃れることが出来てきたかもしれない。

つまり具体的には、当ブログでも何度も記事にしてきた「少食・微食」の実行や、健康を損ねる可能性の高い食物や添加物を摂らない食生活や、「情報」に関しては、新聞を取らないのは当然のこと、TVすら持たない。ラジオでさえ、番組を厳選して聴くような感じだ。
TVのない生活は実に爽快で、もともとあの垂れ流される音声だけでも、空間の波動がものすごく悪くなり、それに耐えられないことから一切機器自体を買わないことにした形跡がある。ラジオはAMは一切車でも聴かないし、FMでも家ではどうも気が向かない。それより、ログハウスの中の木の壁に囲まれた静寂感の方が数段心地いい。

水に関しても、別荘地で地下水源で他よりかなり水質はいいのだが、体に入れる水には伊豆の深層水を一か月に一度、150リットルほど汲みに行き、それを飲用や調理用にしている。

タバコなどはもちろん吸わず、酒・アルコール類も一切飲まない。と、いうか飲めないので仕方ない。味がどうしても嫌いなので。

れにこれは最近の傾向として、アウトドアやDIYのように熱中するマイブームがないことから、道具も本もCDもほとんど欲しいものがなく買わない。インテリアやエクステリア、ガーデニングにも熱が冷めたのか、まるで物を購入する必要がなくなっている。
衣服?ほとんど今までのもので済むのと、外出は人のいない野山しか行かないので新調することもない。

全体に欲求が退潮気味になり、物的な志向がなくなりつつあるのか、どれを見ても欲しいものがなくなって来ている。だから、Amazon の“あなたにおすすめ”が冴えないラインナップに見えて仕方ない。

という訳で、自ら志向する気もなかった「ミニマリスト」という世界が、実は知らないうちに自然と近づいていたというのが実感だ。もっとも、生活圏に保持する物の量は、以前から捨てずに保管しているので二人暮らしにしてはあまりに多過ぎの傾向は否めないが、意識の性向としてはなぜかミニマムになってしまっているのが現状だ。
今後、経済状況が益々悪化していくのなら、もう生き永らえる為の最低限の物の購入だけに絞り、いっそうミニマム化生活は進んで行くだろう。
おそらく「隠れミニマリスト」が常態化するようだ。



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by martin310 | 2014-11-25 16:07

夕日を見る眼と心の静まり。来るべき時に只静かに黙想するように居る。


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よく晴れた日の夕暮れは、西の空のクライマックスがやって来る。

何度もやって来る夕焼けだが、同じような日没は決してない。常にその日、その時、空の状況で如何様にも変わる。
茜色に染まる日もあれば、思ったほど鮮やかにはならずに暮れ落ちる日もある。日中の晴天ぶりから、つい色鮮やかな夕焼けを期待するが、案外そのとおりでないことが多い。
雲の反映もこの黄昏時のイベントに大きく影響する。陽の落ち去った後の残照が雲に当たったときも、絵も言われぬ美しさを見せるときがある。雲の位置と形、ディテール・・・、美が生み出される要素は複雑多様だ。

西の海に面した土地に建ったお蔭で、これほど夕焼けを愉しめる家もない。午後の室内はゆっくり西日に暖められて、陽が沈んでもほかほかしている。部屋のログ壁に黄金色の強い光が映じているときもあり、壁面に掛けた写真額のマットが色焼けするほどだ。
建物の前面が強い西日に晒されるので、外壁の塗装の傷みが早いのも運の尽きだが、夕日に照らされオレンジ色に輝く我が家を見るのも、自分の塗ったパインイエローの色の相性の具合に悦に入る瞬間でもある。夕日の赤みがオレンジから黄金にまで見せるときもある。

この地へ来て早5年目となった。
こんな場所で今のような、こんなつつましやかな暮らしをするとは、それ以前では考えもしなかった。人生のある動的なポイントでは、一気にあらゆるものが急激に動くものだ。
思い返せば、今のこれほど平静な落ち着いた暮らしぶりが出来るのは、それら約10年ほどの人生の流れのうちの巨大な波の過ぎ去った後だからとつくづく思う。あらゆるものの噴出が一気に起こり、動乱の中で過去の時代の清算をするのであろう。それは自分の生み出す力学ではない、ある運命のシナリオがあり、それに沿って天が必要な擾乱を起こし、その経験を与えるのであろう。
旧い時代というものは、そのように個人レベルでの人生の流れでも起こり得るもので、時代状況すべてにわたって新たな幕開けがあるというのも、実感として理解出来る気がする。
今やそういう意味でも、逆に何もないまっさらな地点から、次なる時代を生きるという、新たな意識の地点に立っているのかもしれないが、それにしても年代的にも経験知的にも、若き頃のような情熱も興奮も持ち合わせてはいない。いかにも只静寂なままの放埓さがあるだけのような気もする。

黄昏を眺める如くに、眼は澄んで、心は静粛そのもののようだ。


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by martin310 | 2014-11-24 22:27 | 日々の思索ノート

「9歳、宇宙のしくみを語る」 ~運命っていうのは、自分のこと、自分がすることがわかっているんだ。~


YouTube でたまたま発見した9歳の子が語る宇宙のこと。
3分あまりの短い動画だが、宇宙や人生についてかなり深いことを語っているので、ここに取り上げておこう。
いわゆるクリスタル・チルドレンという、かなり進化した意識を持つ魂としてこの地球にやって来ている存在だが、語り方を見ていると、高次なスピリットからそのままダイレクトに分化した魂のようで、子供のわずかな地球での経験からでない既知の叡智をそのまま語っているような凄さがある。地球への転生の意味とスタートラインが、既に我々とは違った役割を持ってやって来ているのを示しているのがわかる。
地球の進化は、既に緊急発動の時を迎えている証左ではないだろうか。


「9歳、宇宙のしくみを語る」
https://www.youtube.com/watch?v=0elS0Y5x_vU

「地球人のためのスピリチュアル・レッスン」より
http://VastStillness.com


 (文字起こし)
僕たちは地球にいる。この地球はたくさんある銀河の中のほんの一つの惑星にすぎないんだ。言ってみれば僕たちは、この庭にいるアリと一緒なんだ。アリは、この庭の外の世界なんて知らないでただ歩き続けているよね。他にもいろんな世界があって、自分たちがその一部なんだってこともわかってないんだ。人間も同じようなものだよ。外の世界がわかった時、初めて、自分たちが巨大な銀河のほんの一部に過ぎないことがわかる。


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a0282620_1382777.jpg僕が思うには、この宇宙にはさまざまな種類の生命体が存在している。細胞や有機物、目に見えない存在もいるし、発見されていない存在たちもいる、僕たちが行くことのできないところにもいる。彼らは僕たちと同じような考え方をするかもしれないし、違うかもしれない。いつか彼らを発見するかもしれない。でも、今のところわからないということだよ。捜し求めれば必ず見つかるってもんでもないんだ。その確証はない。つまり、自分が何を探しているのかも知らないで永遠に探し続けているのと変わらない、ということだよ。


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そうだね、実際たくさんの宇宙があるかも知れないし単なる空想かもしれない。簡単に答えることはできないね。だって、宇宙に何かあるって証拠は何にもないじゃないか。証明できるのは、自分自身だけじゃないかな。それと、宇宙の中で自分がいる場所、それだけは確かなこと。僕たちは理論は作れるけど。真実はわからないんだよ。


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これは一番難しい質問だね。僕が思うには、人生の意味というのは自分次第で、どんな人生を自分は生きたいのかだと思うんだ。他人がどうしろとか、どうこう言えるもんじゃないと思うんだ。自分で決めるしかないんだ。自分のことは自分しか決められないんだよ。かりに、ほとんどの人に反対されたとしても、それが完全に無理だってことはないんだよ。


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a0282620_1384135.jpg僕たちの人生は、たぶん運命づけられているんじゃないかな。だけど、その運命は変えることが出来る。(そうなんだ~でも、知れてよかったよ)僕の言ってることは間違ってるかもしれないけど、人生はある程度のことは決められている。ドラマみたいにシナリオがあって、僕たちは自分で知らず知らずのうちにその役通りに行動しているんじゃないかな。だとしてもだよ、運命っていうのは、自分がすでにわかっていることを教えてくれるものなんじゃないかな。運命っていうのは、自分のこと、自分がすることがわかっているんだ。これもまた僕が間違っているかもしれないけど、運命が僕たちすべてを支配しているんじゃないかな。



そう確かに、人生のおおよそのシナリオは既にあって、そこに登場する自分にとって大いに人生の道行きをいい意味でも、そうでない意味でも左右する人物や物事は、絶妙のタイミングで配置されている。まさに芝居やドラマの各幕切れがあるように、いくつかのセクションに分かれていて、各シーンが相互に連関し合い、時系列による体験の積み重ねによる意識の進化、魂の生長を促すように仕組まれている。

彼の言うように、「運命」はそれを熟知していて、魂の学ぶべくものを現実体験を使って得られるようにと、当人の無意識を介して物事の選択を促しているのだろう。だから人生の岐路に遭遇したとき、二者択一の選択の理由は理屈でない、どうしてもそちらに自然と傾いているのだ。無意識は既に知っているので、すんなり選ぶ方は決まる。ただ、左脳思考はそれをあれこれと理由づけする必要からこねくり回すのだが。

運命と魂とは、ある意味パラレルな関係性を持っている。魂は求める道にそぐわないところを本人の表面意識が停滞していると、重苦しい不満足感で様々な心的現象を起こす。そして、本人の魂と切り離された表面意識に危急を知らせるのだ。
運命はさらにそれより高い位置と、長い時間枠で全体を俯瞰し、魂の望む道行きをサポートする。大いなる人生の青写真をもとに、各所の詳細については自由意志に基づいた柔軟性を与え、人生のテーマを生涯を使ってまっとうできるように、常に大いなる意識で導いているといえよう。

と、これまで実人生上での経験知からこんな考えを持つようになったが、9才の彼はその歳でそんなことを語っているだけに、既に我々のやって来たことを既に終了し、それを糧に新たな役割を果たす運命を持ってやって来たのだろう。
彼のこれからの人生は、我々を次ぐ未来なのかもしれない。
(Martin)
by martin310 | 2014-11-19 13:06 | スピリチュアル

散歩道にて。錦秋のあまりに美しい最後の輝きが魅せる世界のあらわれ。


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生後5ケ月のワンコと散歩に出るようになった。

それは、家の中で走り回るだけの箱入り娘だったワンコが、ある日、庭先でリードを引っ張るとそれまで頑として動かなかった頑なさをやめて、急にどこまでも風を切ってずんずん歩くようになったからだ。

自分の背丈からしたら6分の1しかないチビ犬が、いきなり坂を登り、疲れを知らず見晴らしのいい丘の上まで一気果敢に平気で駆け上がって行く様に、あくせく息も絶え絶えに逆にリードに引かれる身となった自分からしては、実に驚きの運動能力と絶句した。

ワンコに引かれながら眺める散歩道の木々の色の美しさに心惹かれながら、カメラを手にしてこなかったことを後悔した。
あまりの光の映し出す色彩の鮮やかな様に、あらためてこんな我が家からわずかのところの木々がまるで違う世界に変わったように見えた。

a0282620_2025653.jpg秋から冬へのちょうど最後のピークの日だなと思い、散歩から帰ってもう一度カメラを持って出掛け、画像におさめて来た。
これほどの色の輝きは、これから色醒めて、やがて落葉し裸木になり、モノトーンの冬の装いに変わっていく、もう今年は見られない今季最後のものだ。

それにしても家の近くのいつもの道で、こんなに光の美しさに感動したことはない。それは視覚を通した光以上に、注がれる波動のクリアさが際限ない高いものと直感する。

「これはもう、外世界からやって来る光には闇の要素がまったくないな」と思ったものだ。
「あとは残留している人間の意識の内部だけに限られるのではないか」
という感慨が湧いた。

外宇宙から地上の人の意識に侵入し、自在に豹変させ、意図する方向へ動かすという闇の支配の元が断たれたように、外部からまったく姿を見せずエネルギー的に介在する闇意識が、見事に消滅しているのをここに感じるのだ。
これは以前は考えられないことだった。絶望的なほどこの覆いは強力だった。誰にも知られぬうちに、大衆が、個々人がコントロールされていた。
そこには人間の意識システムのあらゆる操作法を熟知した勢力によって、自在に操つられていた事実があった。
三次元ではまったく手がかりを見せず、見えない四次元の波動コントロールの世界を隠れ蓑に、人の意識を掌握して自在に動かし、闇の世界を現実界に広げようとする魂胆たるは、それを知ればどれだけ卑劣極まりないものか。

a0282620_20254019.jpgだが今や、そんな見えない被害のうちに影響された意識の後遺症は残っても、これからも続けられることはもうない。もはや、個々人の魂の性向そのものによって培われた意識があるだけだ。つまり個々人のオリジナルなものだけが残され、コントロールされる巨大なバックアップはもう消失している。
それだけに、天から降っている光は限りなくピュアで美しいものになる。
あとあるのは人為的な闇意識を保持した人の上に立つ人間たちの群れが、どのように光の側に投じていくかが今後の世をつくっていくのではないか。

そんな風に思える我が散歩道の秋の彩の日だった。
世情の動きは緩慢なく激しくなりつつあるようだ。
愚かな為政者たちの末路を見るのも、この時代を生き、目覚めた意識で見つめる人の数が順次増えつつあることが、より時空の光の量を拡大させる為に早まることだろう。


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by martin310 | 2014-11-18 20:28 | 風景探勝

視覚は広がる視野領域の中で、物語を持つ風景を発掘しているのかもしれない。美しき樹の姿と山の図。


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どうも山を背景にした枝張りの美しい樹木の姿が好きなのか、まわりから一際映える大木の雄姿を見ると、必ず被写体としていろいろなアングルで画像におさめることになる。

a0282620_20412115.jpg安倍川沿いの閑散とした県道をのんびり風景を脇見しながら走っていて、この樹はぐっと視線を惹き付けたものだ。車を停めて撮ろうとするまでの意志を生じさせるほどに牽引力があった。
茶畑の向こうに一本だけすくっと麗しき姿で立っている樹が、折からの陽光を浴びていっそう枝と葉の密度の美しさを誇っていた。背景の三角山もまるで絵に描いたように昔話風の雰囲気をもって背景に溶け込んでいた。

物語性を含んだ風景というのが、自分の求めるひとつの異界の光景につながるものだ。ありきたりの現実感に飽きあきしている視覚には、そこからやや夢世界に逸脱したような、童話的イメージの領域に意識を引き込む力をもった風景というのが、一服の安息を与える。

眼前に実在する光景から、脳内に結ばれた像を介して、無意識の記憶の蔵にある茫漠とした過去の記憶端子につながると、そこで電磁気的な脳内反応が起こり、物語性を主体にした別のイメージ空間が拡張していく。
この空間の中に意識がたゆたうとき、そこには三次元の寒々しく無味乾燥な現実界を遥かに超えた豊かさと安逸な時間がゆらいでいる。

人が休息や娯楽に求めるものは、ある種この世界へのルートを探す行為なのかもしれない。人は機械の内部のようなメカニックな現実だけでは生きられないのだ。だから眠って夢を見る。メカニカルな世界と形象の自由闊達な創造の世界とのあいだでバランスするのだ。

いわば写実のリアルさ故の現実の図像から、曖昧模糊とした心象のドラマチックな絵世界への誘惑・・・、それが見る行為から、感じる行為への創造性のふくよかな橋渡しとあたたかな感応の歓びを与える。


a0282620_205039100.jpg山懐に抱かれた山野を分け入ってゆくのは、
自然の生み出す景観の中に
“物語”を持つ魅惑の風景を
光と影がもたらす視覚像のうちに
まるで珍しい鉱石を発掘するように
探し求めているのかもしれない。

ようやく辿り着いたその前で
一幅の絵のように像を確保し
また何度も見返すことができるようにと
ありがたく持ち帰る。
写し撮った風景はまた、
ときに見返す毎に
新たな“物語”を語りかける。



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※写真はいずれも、静岡県の安倍川のわらびの温泉付近からの風景。




こんなBeautiful Relaxing Harp Musicを聴きながらどうぞ。
by martin310 | 2014-11-15 20:51 | 風景探勝

晩秋の爽快な晴天は、不自然なまでの異界感覚がある。目に見える実在の異世界を求めて。


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9月の半ばに行った安倍川の上流梅ヶ島(静岡県静岡市葵区)へ再度足を運んでみた。
緑豊かな清流の風景が、この紅葉の秋にどんな風なのか見てみたかったからだ。
前回と同じ河原に下りて、いつもの“河原でコーヒーブレイク”を味わった。
空は雲ひとつなく晴れ渡っているが、気温は低く、北風も強かった。
紅葉ももう終盤で、かろうじて色はまだ残っているも、色はかなりくすんでいた。
それを補うように、猛然と明るい陽光が照って、黒い影との強烈なコントラストでなんとか絵にしてくれていた感じだ。

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安倍川の水量はかなり減っていて細々としていたが、それでも上流はこのように清らかな澄んだ山の水が流れていた。
厚着の背に太陽が当たると、とてもあたたかになるが、風そのものはもう冬の厳しさをすでに運んで来ているようだ。時の移り変わりは早い。
河瀬には、落葉した赤い葉がその縁に溜まっていた。木々のシルエットが目立つのも、すでに葉を失っている骨組みのみが露見しているからだとわかる。

大気がもやることなく澄み渡っているだけに、遠景の山々の細かなディテールまで浮き立つように迫って来る。強い日差しでものが際立ち、後景までクリアに彩られて空との境界を極端に断絶させる。まるで真空の世界のジオラマを見るように、ある種、別世界に変幻してしまったような感がある。

晩秋の爽快な晴天は、そんな不自然なまでの異界感覚がある。じっと眺め渡していても、どこかあの世的な架空性を持っている。
極彩色に輝き、蒼穹の底のような青い山容が聳える。谷間に深く刻まれた深い陰影との対比が生み出す、まるでソラリゼーションのような世界・・・。

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常に取り囲まれ、逃げ場のない人工のありふれた景観から、一時退避するかのように自然の只中に分け入って身を沈めたい衝動にかられるからか。
あまりにレディメイド化され、すべてがブランド化された世界からの逃避からか。
見るものすべてが人間に依って加工された既成品でしかない人工物の坩堝から、天然自然の紛うことなき人の手の入らぬ自然美の世界へ向かう意志。
そういうものが山並みを分け入り、河の流れが奥まで続く里村を遡上し、南アルプスの山塊群に連なる源流域へ誘なって行くのだ。

見回してみれば、どれもこれも既成物で溢れかえっているこの世界は、あらゆる物が記号化され、製品にまつわる既知の情報がまとわりついている混濁した情報知の集積場ではないか。
そこに居たたまれなさを思うなら、向かうのは天然の原像が宿る地であるのは、意識の正常化作用の成す技であるのは当然ではないだろうか。
人間はあまりに自らが生み出した物の世界に惑溺し過ぎ、極度の自家中毒を起こし過ぎている。しかも過度の常用から神経麻痺も甚だしく、自然と謳うものまでブランディングしなくば対象化もしなくなってしまった。
いったいこの先、これ以上どこへ行こうとするのであろうか?

異界をこの世に求める意志は、まだ見ぬ実在の未開地へとまた次なる風景を探して行くのであろうか。

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by martin310 | 2014-11-13 19:28 | 風景探勝

美しき風景との出会い・・・それは、神聖な自然界の威光を迎え入れに行くこと。


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秋の山々の装いは、それまでの緑のヴァリエーションが主体だった色彩世界を、一気に絢爛たる極彩色の豊穣な色世界に変えるところから、風景の美を嗜む者にとって網膜反応の饗宴の季節と言えるだろう。
色数とその組み合わせの妙を山と木々と空と雲に見る、映像性の豊かな被写体が溢れる山野である。それも、光あればこその、この瞬間以外にない、まさに一期一会の蓋然性と共時性にあてがわれたひとつの奇跡の産物である。

人は感動の光景を前にして、時と共に失われていくその姿を何かに託して残しておきたい衝動にかられ、画像をおさめることが可能な機器でその風景を切り取る。それさえも持ち合わせていなければ、心のスクリーンに写し込んで忘れずにおこうと、一心に見つめ続けるかもしれない。

デジタル画像はweb上では常にあらゆる箇所に配置され、ページを移動する刹那に視覚に入れるだけで、一瞬にして次のページヴューに移動しているのが日常だ。およそ画像を見ている時間は視覚の脳への伝達速度にしかならないほど短いものだろう。つまり、モニタ上に現れた瞬間に消費され、再度眺められることはほとんどない、まさに使い捨ての運命にある。
だが、物質的存在感を厳然として持っている壁に掛かった額入りの絵画であったなら、人はそんな一瞬の視覚的消費行為には至らないだろう。実在の風景を眺めるように、その場に腰掛けてしばし見つめて味わうかもしれない。
いったい、その違いは何なのだろうと思うことがある。
もちろん、絵画も画像情報としてweb上にあれば、それも写真とほぼ同じくらいに短命な扱いをされるかもしれない。

人間の視覚と行動は不思議なものである。
ただ言えるのは、最も永く、しかも感動のままに美しく人の中に残っていられるのは、きっとこのような画像や絵ではなく、心の感じた風景であろうと思う。心の琴線に触れた胸躍る光景は、生涯、さらにそれをも越える魂の記憶にすらなり得る価値がある。

自然はしかし、そのどれをも選ばず、誰に見られようとも、見られることすらなくとも、一切を拘泥することなく、ただそこに在るのである。厳然と、崇高なる美の姿を露に見せているのだ。
自然界の美しさを求めて山野をさすらう者は、それゆえに尚、儚く消え去る一瞬の美に出会おうと、また、おさめて残そうと小さな矩形のフレームの中にその像の影を写そうと試みるのだ。
息を呑む美を目前にしたとき、意識は自動的にレンズを向けさせる。美との遭遇を記録しておくかのように、自分の今を風景に託すのだ



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※写真は、山梨県・南アルプス街道から奈良田近郊の景観。
by martin310 | 2014-11-10 13:55 | 風景探勝

光は色を呼び込み、色はそのうちに光に霊妙不可思議な新たな次元の要素を抱き込んでいる。


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ことのほか空をよく眺める。
外に出ればまず空だ。
空はひとつの時空の窓だ。
モニタから世界を眺めるように、
それらの情報の裏づけを確かめるように
宇宙のWindowを見つめる。

確かにこの大空でさえ、「彼ら」には痛く傷つけられた。
空に毒性スプレーを撒く。空にプラズマで穴を開ける。
空の反射板を使って地面を揺り動かす。
空を熱して気候を激変させる。
とかく空は激しい戦場の場だった。

だが、外宇宙からも太陽からもやって来るものは常に空からだ。
人が空を仰ぎ、天を崇めるのも、皆空からの来訪、降臨だからだ。


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また夜毎見る夢実が盛んだ。
少し低調な日もあるが、また復活するときもある。
宇宙天気ニュースをチェックすると、そのつどフレアの規模と同調するのがわかる。(第24活動周期のピークにさしっかっているようだ)
太陽から送られて来る新たな活性エネルギーは、深夜のスクリーンにまたたくアストラルな映像を上演させて来る。
その鑑賞者であり、主役でもある自分は、演じながら客席にもついている。意味深な場面に遠い日を回顧したり、そのときに気づけていなかったことをも気づかせてくれる、実に霊妙な映像のリバイバルを観る。

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世界では、いくつかの情報によれば、今まで人知れず自在に歴史を作り続けて来た一団の敗北が濃厚になった兆しが見られるようになったようだ。
歴史とは自然界の動きがそうであるように、有機的で不可逆的で不可抗力の勝る生き物のようなものだと思い込まされて来たが、明澄で冷徹な光源に明らかに照らし出された末に解ったのは、常に一握りの集団によって、またそれらを見えない次元で動かす者らによって、見事に予定通りに仕向けられ、作られて来たことが明らかになった。
それら今まで遠大なあいだ、見事に計画通り実行されて来たことが、今やこのときになって予測に反して劇的に破綻の憂き目をみるようになったようだ。
そんな地球の場の大転換が、多くの住人にはまったく見て取れぬあいだに、すみやかに進行している裏には、おそらく膨大な規模の掃討作戦が展開されているに違いない。それらの詳細が表に出て来るのは、事が完了してからの先のことになるであろうが、時期同じくして、空を眺めたり、自然の場を見つめたたりする中で、結果として何かが変わっていることに気づくこともある。
それはあまりに繊細で微妙で、霊妙不可思議なもので、感覚に神験があらわれたように時に極微なセンスで呼び起こされることがある。

この外光に照らし出された世界を見ていると、その光のすべてが太陽であることをも普段は忘れて意識さえしていないのだが、事物や風景を通して眼に入って来る光の微粒子のうちに、何か今までの光の要素とは違う、さらに純度の高い色彩の極微粒子が含まれていることに気づくのだ。
光の波動にさらに高次元的要素が追加されたような、プラズマチックな光子の実在。
だから、あまりに自然界の色という色の純度の高さが違うように見えるのだ。大気そのもののピュアな質が桁違いに異なる。今までの鈍重な光の成分とは格段に違う高純度の波動が付随している。

またそれらの光は、同時に降り注ぐ全領域に、穏やかで平静なしめやかなエネルギーを帯電させているようだ。どっしりと平和的で、均整のとれた調和度の高い波動を降り立たせている。
これは過去の「分離」を誘発し、争闘的な不調和を促す波動傾向とは本質的に対極にある本来の宇宙の融合性を持ったエネルギーだ。
過去には何度もこの流れを天は降らせる機会を生んで来ただろうが、漸く静かなうちに定着するレベルに達して来つつあるようだ。
もちろん、まだまだこの先、「分離」を受け継いだ過去の流れはそれ相応に続くだろうが、総体としては人知れず極微の世界でシフトを果たしているように感ずる。(このことは争うことや、争うのを見ることに違和感と馬鹿ばかしさを覚える感覚を伴うこととなり、それは時空の波動との乖離が生み出す現象なのがわかるはずだ)
やがて両極が混在する混沌の中から、次第にこのシフトを具体化する事象も数多く出て来るようになることだろうが、それまでカオスの只中にあって、事の成り行きとその貴重なプロセスを体験のうちから学ぼうではないか。人類の解放の時代を生きるチャンスはまたとない。


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※写真は、山梨県の丹波山村の丹波渓谷にて撮影。
by martin310 | 2014-11-06 14:05 | 日々の思索ノート

風景の中に波動を読み取りに行く。地上に降り注ぎ、自然界に帯電したなにものかの記号を探すのが旅だ。


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秋の透き通った大気に、緑と黄金の光が明澄に反映する。空は抜けるように限りなく晴朗に広がる。

気温が下降し、ぴーんと張り詰めたような空気の澄み具合に、静かに感性の糸も反応する。自然の溢れる只中に身を探り入れるように置いてみたい衝動にかられ、また山塊の聳える奥地にまで足を踏み入れる。

もともと風景から何かを感じ取ろうとする性向は若年の頃からの傾向としてあった。だから絵画的世界への志向も青年期にはあって、それなりの道にも進んではみたものの、どうも一元的に既成の創作的スタイルに沿っていることが出来ず、あれもこれもと別の要素にも手を染めた挙句、そのひとつもものにはならず、形も成さずに趣味嗜好に毛が生えたくらいにしかならずに来たのが今である。

何にもならないものを追い求める・・・。
ただ、内なる求めに従って歩む。
たとえそれが形にならずとも。

今はそれでも、充分意義があるように思うことが出来るようにもなったが、器用貧乏の外道志向には、世の中に通用するような形あるものが生み出せない要素が多い。なにせありきたりのものに追随していくことが元来嫌いでは、既存のフォーマットに則り、それを生かして人の中に出て行こうとすることすら望もうともしない。
ましてはへたに注目されるようなことをしようにも、すぐに消費され、使い捨てされる運命であることも重々承知の上、同じことに密度と覇気を持って食い下がるように進もうとするのは、最も興味の湧かないものでしかない。

良く言えば境界なくクロスオーバーなのか、枠に入らないアバンギャルドなのか、まあ、そんなものにすら値しない“辺境のさすらい”なのか。どちらにしても、カテゴリーや目次にはいっさい並ばないフリーエリアの住人でありたいものだ。というより、どこにも属せない範疇外が居場所なのだろう。

そんなことは自然の中へ行く旅の目的もまた同じだ。
観光でもなく、癒しの旅でもなく、写真撮影がメインでもなく、およそよくわからないであろう風景からの波動を読み取りに行くのがその本望なのかもしれない。
だからといって、チャネリングやリーディングのようなメッセージ化できる類の文脈でもなく、何か有益な教えを与えられるわけでもなく、それはおよそ形を成さない波動的スピリットのようなものだ。言語化してみるにはあまりに翻訳的形体を持たないもので、もし文章化できるとしたら、相当量の文節によりエッセイ的、詩的なものになるのだろう。
それも同時に、時勢的な裏事情の流れをおおよそ知ってのもので、その前提条件の上に、さらに非文字情報的なものだ。webでよく目にするNEWS的情報の性質はいっさい持っていない。まさに非三次元的で言語化の困難な、エネルギーや思いや予兆のような、超感覚的知覚のみが反応する領域のものだ。

そんな形にならないものを、出来るだけ封じ込んで表そうとするものに写真がある。その日、その時、その瞬間、その場で、そのアングルでなければ存在しない、天と自分が結ばれた刹那の波動を封じ込んだ共時的しろもの・・・、それをできる限りパッキングしたものとして像を結ぶもの。
太陽がもたらす七色の反射光が織り成す無限なる射影物の世界。さらにそれに乗じて、可視光域を超えた多次元的光子を含有した超越情報の世界がひろがっている。

それを掴もうと格闘するなかで、いつしか意識に織り込んで来る新たな世界。
もはや地上の既存なる世界が対象の影が薄くなった今日、求める活性を促してくれるものは、そういうもの以外にはない。

見えている場で、見えているもの以上のものを見ること。
未だ見えていないものを見ようとすること。
意識と意志を行使し、感覚域を超え出ることを目指すのは、新たな時代、新たな世界の出現の兆候を得ることかもしれない。

次なる時代の予感めいたざわめきが聞こえる。


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※写真は、山梨県の増富から瑞牆山(みずがきやま)山麓近郊にて撮影。
by martin310 | 2014-11-04 22:02 | 日々の思索ノート