伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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年の暮れに陽も暮れる。こんな日はもう焦らずのんびりいよう。虚構のような時代の狭間で。


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年の瀬も迫りにせまって、もう今年も今日、明日のみとなり、そんな忙しい時間の流れの中で、できるだけ静かにいようと、午後の西陽の射すリビングでしばしうたたねをする。
気がつくと、窓辺のソファーに寝そべる顔の上に、折からの午後の陽射しがまたたいていた。

いつも時間の流れは同じように過ぎて行くのに、こと、大晦日が迫って来ると、やたらにカウントダウンがはじまったように時間があわただしく短くなっていく。
a0282620_18263359.jpgおかしなもので、時の区切りが明確になった時節は、嫌に時の推移というものに意識がフォーカスしてしまうものだ。年号の数がひとつ増えるだけなのに、人は新年を迎えるに際していつになく緊張するようだ。
やっておかなけらばならにことを済ませておこうと何やら動きが激しくなる。必要なものをすべて蓄えておこうと、やたらに店先が混雑する。交差点を行き交う車の動きも、妙に神経が苛立っている。

庭のあちこち手を入れておこうと思っていたことも、遂に思ったとおり、思ったままで終わってしまいそうだ。別に今年中にしなくてもいいことだからと言い訳して、またそのうちにと年越ししてしまう。
なぜか今年の後半は、庭仕事もDIYもいつもと違い気が張らずに、行動に出なかった。怠けクセが癖になると、いつまでも同じ調子でいってしまいそうになる。動き出せばそれが次々と展開を生むかもしれないので、まあ慌てず来年から動き出そう、ということにしている。


こういう日は、William Ackerman なんてのが聴きたくなる。アコースティックなサウンドで静かにログの室内に響かせたい。
YouTube で探すとやはるあるものだ。下のボタンからどうぞ。

The Impending Death of the Virgin Spirit: William Ackerman




William Ackerman を聴いていると、部屋の中の一部を撮りたくなって何カットか切り取ってみた。
小さな画像のカレンダーは今年ので、下のバックの絵のあるものは来年のカレンダーのジャケットだ。

時代の裏側は、多くは見えないうちに大きく変わろうとしているのかもしれないが、表に見えているものはそれほどのこともなく、期待に胸踊るようなものは見当たらない気がする。もし偉大なる変化が起こるのであれば、このあまりの静けさと、手ごたえなく、手がかりさえ心もとないうちで事が起こっていくというのだろうか。
もしそれが時代の遷移の一様なのなら、むしろ何事もない平板な時間の流れのうちにこそ大事を成すという作戦のあらわれなのかもしれないと、思いたくもなるほど実態の読めない不可思議な時代の狭間の時に思えるのだが・・・。


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by martin310 | 2014-12-30 18:29 | 田舎暮らし

「たそがれる」ことの至福。夕日を見ながら時間の波間に溶けて行こう。


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陽が西に傾いて、ものの影が徐々に長くなる頃、わんこの散歩がてら丘の上の見晴らしのいいところまで坂を登った。
牧場跡の草地の向こうに雪を頂いた富士がくっきり見えた。

西の海は翳って、空だけが黄金色に明るい。
我が家からも同じ景色が望めるが、ここからはもう少し上から角度が出て見下ろせる。遮るものがない分、いっそうパノラミックな風景が見られる。


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冬の日の黄昏時は、光の変化がとても早い。
目を他に向けていると、もう次の段階に景色が変化している。
あたりの明度が下がって来ると、急に空気の冷たさを思い出す。
暮れる間にと自然と坂を下る足が速くなる。
わんこも下りはするすると軽快に歩く。上りのときの半分前足が浮いたきつい引きをせずとも、飼い主も同じ速度で下るのでテンポが合うらしい。

a0282620_842282.jpg家に戻っても、尚また窓から西の空を眺める。
我が家では、夕暮れどきは敢えて早めには照明を点けずに、自然に陽が落ちていく暮れなずむ時を愉しむことが多い。
大窓や天窓から室内の暮れ方も、光の加減が微妙にうつりかわっていく様が、ログ壁に反映してひそやかなドラマが見られるからだ。
次第、次第に明るさが落ちていく室内と、窓の外の空の夕照が同じように息を潜めるように沈んでゆく。

暗がりが満ちた室内では、2つ3つの間接照明を点ける。
屋根裏天井のダウンライトで全体を明るくしてもいいのだが、こういう時こそフロアランプやテーブルランプ、それにキャビネット照明でムーディーな感じを味わいたい。
日本の家の照明というのは、えてして妙に明るいシーリングライトを煌々と点けるのが典型だが、洋画を観ているとほとんどがシェードランプなどをいくつか点けたような間接照明の室内が多い。西洋の家には日本のような直管の蛍光灯で、室内全体をぎらぎら照らすような感覚がないようだ。ぼうっと各所に光源を持つ照明のスタイルが主で、それが日本にはどうも有効ではなかったようだ。

a0282620_843725.jpgなのでこの家を建てたとき、照明についてはかなり厳密に計画を練ったものだ。天井のダウンライトの分割やウオールライトやその他の個別照明など、どれを点けるかで幾通りもの照明パターンがつくれるようにバリエーションを持たせたプランにした。
自然の光の変化ももちろんのこと、夜の部屋の中は照明の工夫による、また昼間とは別の世界の演出を愉しめるよう、光のもたらす明るさと影の効果を活かせるような空間をつくろうと思ったのだ。

一日という時間の経過のうち、陽光による光の変化、そして夜の室内・・・。時間と光のもたらす変化を暮らしの中で感性に響かせること――それも生きることを愉しむのには欠かせないものだ。
忙しい日々のうちにも、このような感覚的享楽もひとつの余裕として持つことも大切なことだと思う。


映画『めがね』では、南の島で「たそがれる」人々をユニークに描いているが、ちょうど我が家からの夕焼けを眺めているとき、この『めがね』での「たそがれる」ことの素晴しさを思い出した。

そうだ!「たそがれよう」
幸福とはこういう自然な行為から心のうちにひろがってゆくものだ。


映画『めがね』のテーマ曲「たそがれの予感」を聴きながらどうぞ。

映画『めがね』のテーマ曲


この映画のサウンドトラックCDもかなりいい!
映画「めがね」オリジナル・サウンドトラック
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          ▲我がわんこも2階のデッキで「たそがれ」ているところ。
by martin310 | 2014-12-26 08:13 | 田舎暮らし

今日という日なので敢えてこんな情報も参考に。何を祝っているのかを知っておこう!(ニムロドの生誕日に)


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我が家では特にクリスマスだからといって何か普段と変わったことをすることはありません。
この雪ダルマ君も、今日の為に飾ったわけではなく、年中、文庫本の棚にほかの飾り物と一緒にごたごた置いてあるものです。

別にクリスマスの隠された意味を知ったからということでもなく、もともと特別なことをする気がなかっただけなのですが、もちろん、本当の意味を知ったからには余計にまったく興味が失せた以上に、あまりに知らない人が世に多いので、少なくとも情報だけは頭に入れておいた方がと思った次第です。

それにしても、「彼ら」の騙しと隠蔽と偽装の仕業の典型を見るようで、このクリスマスの一件についても巧妙に世界をだまくらかして祝祭日にしているというのも、すべてが万事、無知の牢獄に隔離する手法はここに集約されていると見えるものです。

だからといってこの慣習をどうのこうのと言う必要もないのですが、物事の裏に隠された真実、実像を知るという必要不可欠な知的行為は、こんなことの一件からも学べるのではないでしょうか。

ちなみに、この雪ダルマ君、左足の長靴が脱げてしまってますが、それが何か暗示的な意味も含めて、クリスマスは実はよからぬものを祝っていたという笑えない現実を認識しておきましょう。(実際は、家人が掃除中にもげてしまったようです・笑)


参考までに以下にクリスマスの情報を

◆内海聡氏のフェイスブックより
 https://ja-jp.facebook.com/satoru.utsumi/posts/734973513253071

クリスマス

まさかこのウォールを見ている人に、いまだクリスマスがキリストの誕生日で、サンタクロースがプレゼントをくれるおじいさんだと思っているグーミンはいま せんよね♪。そもそもクリスマスは悪魔崇拝であるキリスト教を広げるための口実ですが、サンタクロースなどほんの数十年前につくられたインチキ物語でしか ありません♪。だいたい本物のサンタクロースはセント・ニコラウスというのです♪。

そもそもクリスマスはイエス・キリストの誕生日ではありません♪。本当の誕生日は秋だという説があり、その他には春だという説もあります。いずれにしろ 12月25日はニムロドの誕生日であり、これは旧約聖書で最初にヤーヴェに逆らったものの名です。ニムロドはその意味で悪魔であるとか反逆者であるといわ れてきましたが、その誕生日を祝うのは当然ながら理由があるわけです♪。

そもそもサンタは単純にサタンを入れ替えただけであり、セント・ニコラウスは、クランパスという獰猛な生き物とヨーロッパ中を旅することになっています ♪。クランパスは、割れた蹄、長い舌、頭には角、暗い色をした煤けたような皮膚、その皮膚にうっすら生えた毛、そして熊手を持っています。子供たちにとっ て、クランバスは、悪さをする子供を鞭で叩く悪魔のヤギのように見えるのです♪。

クランパスは、聞き分けの悪い子供を連れ去って、地獄の深みに落とすために、子供を入れる大きな袋を持っています。子どもたちは、クランパスの黒いバッグ に入れられて連れ去られていたといい伝えられますが、これは悪魔崇拝の初歩的な観念です♪。悪魔崇拝の中では子どもから犠牲にするのが第一義であり、サン タクロースはそのために重要な役割を果たしてきました。Xmasの『X』というのは二ムロドの象徴で、勿論悪魔のマークそのものであり、merry Xmas は『Magical or Merriment Communion with Nimrod』という意味ですね♪。

ではメリークリスマス♪。
悪魔を祝うニホンジンのために♪。


◆カレイドスコープさんのブログ
 「クリスマスはニムロド(ニムロデ)生誕を祝うもの」
  http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-291.html
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by martin310 | 2014-12-25 09:41 | その他

目に見えている世界以上に、目に見えない世界の変貌が劇的なようだ。2015年は顕現の年か?


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それにしても、気がつけば、この時空の闇のエネルギーの所在は、かつて最も酷いときから比べれば、格段に減少、減退し、もはや消失に近いほど一掃されたのではないかと思われるほどだ。

web上に挙がる世界的な動向からも垣間見られるが、特に自分の見渡せる周囲をよくよく観察するなら、それがもっともリアルに身近な現実感を伴って確信できる。
特に顕著なのは、自分が接する人々の言動や感情の動きや傾向、情緒や意識状態を省察していると、何かある意味、まるで憑きものがとれたように爽快にニュートラルになっているのがわかる。
もちろん本来のものはそのままだが、かつてはまったくわからないうちに意識介入され、知らないうちに自分ではないものに必要以上に煽られ、異常なほど感情を露にしたり、無軌道で無思慮な行動に急き立てられたりしていたものから解放されてきているのではないだろうか。

かつての闇の見えない手口というのは、カルマとして魂に残留している部分に侵入して、拡大、増強し、無意識を操縦してカルマの嵐のままに動かすようなコントロールを各人に施していた訳だが、それらが見事に外されたのではないだろうか。
これは自分との過去生からの因縁を深く持っている相手ほど、その変貌ぶりが顕著にわかるはずだ。闇のエネルギーは、この個々人の意識の深層、魂を覆うカルマ溜りを標的にして、その闇が闇である分離意識を最大限利用して操作を仕出かしていたのだが、その箍(たが)が外され、見えない次元からの操りが消失したようだ。
以前は、目の前で意識の中に闇が入った瞬間を目撃し、その為に自分が攻撃の矛先に向けれらたことも多々あったし、まったく見知らぬ人を使って妨害の駒として操作して来ることもあった。それはあらゆる手で意識を媒介に攻め立てて来ることが頻繁にあったものだが、おそらく2010年頃のピークを境に徐々に下降して、今年1年のあいだに劇的な闇の解除、敗退が起こったのではないかと感知できる。

地球上から闇の撤退は捗々しく完了しつつあるのではないか。もっとも、目の前の自国の状況は一見して、その真逆のように見えるのは致し方ないが、見えない次元での構造は以前とはまったく違った形に転換されているように思うのだ。

地上の各ポイントに張り巡らせてあった闇の地上局、闇波動の発信基地は、調査して巡った範囲では、既に機能不全というか、もう存在していた形跡以外には感じられなくなったほどだ。
今年、霊山があるエリアでの噴火や地震がいくつかあったが、それもおそらく地上基地の重要ポイントの破壊であったようにも思える。ひとつには、修験道の聖地にはほとんどこの闇の地上基地がその裏に築かれていたものだ。その最大規模のものが破壊されたと思っている。

闇エネルギーの供給ルートというのは、簡単に言えば、地球外宇宙→地上基地→下部地上局→人の無意識内という具合に、ネットワークが組まれていた訳だ。
この地球支配ネットが解除されたことは、過去数万年、それ以上の支配体制の崩壊を意味し、このあとはまったく今までとは異なる世界が現出することになることは、理屈の上からも理解できるだろう。

人の意識に残っているのは、もともとのオリジナルの魂の抱く業(ごう)と、この闇の支配下にあった時代のカルマの集積だろうが、おそらくそれらを解除させずに覆い尽くし、まるでバリアーの中に閉じ込めていた闇の力が消失したのだから、以前よりはかなり容易に気づきによって解消できる状態にあるのではないかとも思う。
もっとも、それも元来が闇意識の性向を持った魂のその人は、その意識さえ持たないかもしれないが、光の強度によっては魂の苦しみから気づきがもたらされる可能性はあるだろう。

国内の時勢の推移を眺めているだけでは、最悪の階段を転げ落ちていくように見えてしまいがちだが、その裏ではまったく別の驚異的な世界の進捗が進んでいるようだ。時空の波動状況もまた、案外それに似て、まるでエアーポケットに入ったように空虚な感じが続いていたが、ここに来て急激にその実情を知らせるように、意識に何ものかが起き出したように感じるので、今これを記しておこうと思ったのだが・・・。

グレゴリオ暦の妥当性には異論が多いが、一応それに沿った年の境目が近づいていることで、宇宙も一様にこの2015年への移行期に何ものかを放っているのだろうか?


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by martin310 | 2014-12-24 10:40 | スピリチュアル

家はもはやセルフビルドで建てよう。超ローコストでなければ経済不安の時代を生き延びれない。


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▲母屋と別当のミニログ(コスカA)。この小屋サイズで六畳の広さ。クローゼット兼、ゲストハウスとしている。


自分はもう既に終の住処(ついのすみか)を持ってそこに住まっているけれども、もっと若い世代の人たちはこれから、何処にどんな住まいを持とうかという、人生の最大のイベントを体験する時期を迎えることにもなるのだろう。
それは夢の実現でもあることから大いに楽しみでもあり、はたまたたくさんの現実的課題との対面でもあり、この世界の仕組みを骨身に沁みるように感じるものでもあるだろうし、衣食住のうちの「住」にかかる取り組みへの金銭的、肉体的、精神的な労力はそれ相当なウェートがあることを実感することにもなるだろう。

特に、“スモールハウス”などのキーワード検索でこのサイトへ来られた方々は、この何事にもお金がかかり過ぎる世にあって、自分の手で超ローコストのミニマムハウスを建てられるのではないかという、熱い期待と夢と手の届く現実感から情報を求めていることもあるのだろうと思う。
確かにweb上にも、セルフビルドして小屋生活を実践している人の記もあちこちに散見されるようになって、いっそう自分の手で小屋を建てて住むということが、誰にでも可能な事柄になった昨今がある。

それも“スモールハウス・ムーブメント”の波もあって、ことこの日本では、本来の大型住宅を持つ生活リスクの問題からのアンチテーゼのようなものとは一線を画した、画一的な一般の経済的なレベルから独自に逸脱して、今まででは考えられないほどのローコスト生活の志向の中から生まれて来た、いわば超ミニマルライフが自分の身の丈であると自認した人たちの、自然なライフスタイルとして、セルフビルドの小屋生活が、ひとつの若者の生活基準として顕れて来たものかもしれない。

よく、今これまでの自宅の建築や、家にまつわるもののDIYや、はたまたガーデンハウスを一棟自分の手で建てた経験知から思うのは、もし今の家を持たず、これから自分が終の住処としての住居を建てるとしたら、絶対どれほど時間がかかろうともセルフビルドしたいと思うのだ。
それもメーカーのキットハウスなどでない、完全オリジナルの設計によるツーバイフォー工法による自由設計のものを建てたいと思う。
それは、“TOOL SHED”という小さなガーデンハウスを作った経験がものをいって、充分、六畳サイズの小屋なら射程距離だと思え、これを単位として3棟の組み合わせで充分快適な平屋の複合住居を作ることが可能だと自負している。

現在のログハウスはもちろん、二人で住むにはちょうどいいサイズで快適なのだが、なにせあまりに建設費にかかり過ぎたという反省もあり、もし、建てようとする時期に、既に“スモールハウス”なるもののコンセプトを知っていたのなら、もっと違う志向になっていただろうと思うからだ。(もっとも、例えそうであっても様々な条件からそのとおりになったかはまったく不明だが。)
家というものは、材料費自体はそれほどでもなく、工賃と付帯設備にかかる経費がとんでもなくかかるもので、少なくとも、工賃を自分の労力に替えれば相当額を浮かせることが可能だ。付帯設備も自分で出来ない最低限を業者に頼むだけにしていけば、かなりコストは抑えられる。
少なくとも、最初に現在の家のログキットの価格の安さに目が釘付けになって、ログハウスに決めたいきさつがあって、見積り総額はその3~4倍にもなる現実を知って、ログの贅沢さに溜息が出たのだが、もう後戻り出来ずにそうした訳なのだが。

まあもっとも、住居をセルフビルドするには、現実的には退職後フリーになってからの充分な自由な時間を持たずにはかなり難しいこともあるので、仮にもし、働きながら休日をすべて費やしてのことなら、作業効率の悪さから、完成まで少なくとも1年以上は月日が経ってしまうことも覚悟しなければならないだろうし、時間と経費をどのくらいかけられるかにすべてはかかっていると言えるだろう。
だから、どの年代で手を染められるかは、それぞれの家庭事情や時代環境、人生のプロセスなどで如何様にも条件が変わって来るだろう。
つまりは、人生の成り行き、それこそ運命に因るところが大きいだろう。なので言わずもがな、人生の一大イベントであり、暮らしを決定する最重大事でもあるのだろう。

しかしながら、既成住宅はあまりに高価で、スタイルはありきたりで面白みに欠け、そこまで高機能的ではなくとも、もっと自分のライフスタイルに向いたBライフ的で、身近で、自然に馴染んだ住まいというものがあってもいいし、家という既成概念に捉われない自由なミニハウスとしての住宅だって、自分がよければいいはずなのだ。
なのでこれからの人たちには、是非とも、従来の住宅という既成の枠を超えた自由な発想と自作にかける創造性を持った、住まいの構築に向かってほしいと思うところだ。


※六畳サイズの小屋の3棟の組み合わせとは。
①リビング・キッチン棟、②寝室・書斎・収納棟、③浴室・洗面・サニタリー棟の3棟をL+L字型に結び、つなぎ目にデッキを配置するというプラン。ツーバイフォーの壁パネル工法なら、二人で充分施工可能で、足場も組む必要もなく屋根工事も出来る。


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▲完成後1年経過の我が“TOOL SHED”(道具小屋)。SPF材で作ったにしろ、塗装の具合もまったく問題なし。これをサイズアップしていけば、充分居住用の小屋は出来るという実感を持った。


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▲この窓もすべて自作。ガラスでなくアクリル板を使ったが、まったく問題なく雨露を寄せ付けない。家にとって窓のデザインは重要。既製品のアルミサッシほど味のないものはない。


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<参考>
以下のサイトには、世界中のアイデア溢れる新発想のミニマムハウスの記事が紹介されている。毎回かなり刺激的なものを見れるので、これからマイハウスを構想中の方にはお奨めだ。
「未来住まい方会議」 http://yadokari.net/
by martin310 | 2014-12-17 11:44 | *D.I.Y

雨に濡れた黄金色の森。山の上の辺地にて情報の窓から世界を覗く。


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宵からずっと雨が降って、屋根裏に雨音が響いていたが、朝方少し小降りになると俄かにあがり、2階の窓からの紅葉の終わりの景色が妙に明るい黄金色に包まれていた。

写真では思ったように、ぼうっと輝く黄金色の森の感じが出なかったが、こんな雨の日のほの暗い景色に焦点を合わせるのも珍しい。もっとも、例年と比べ今年ほど紅葉の写真を多く撮った年も初めてかもしれない。

それは今まで、秋の紅葉という題材そのものがあまりに写真としての季節ものの定番に思えてしまい、変に既定路線的で、ありきたりなのを毛嫌いするきらいがあったからだ。単に自分の思い込みに過ぎないのだが、撮り貯めた画像をプレヴューしてみても、去年以前、紅葉写真はかなり少ない。
今年は思ったより、紅葉の色の冴えがよく奇麗で、しかも長い期間持続的に被写体になり得たという好条件もあったのだろう、自分ながらよく撮ったものだと思う。思いがけず行った先が紅葉の名所であったこともあり、自然とカットの枚数も増えたからだが、それにしても身近な我が家のまわりの景色などもよく撮ったもので、それだけ今年の紅葉の具合が絵になるポイントをいつもより多く生んでいたようだ。
現在のように、もう枯れ落ちる頃まで目を惹くようなことは今までなかったと記憶している。それだけよく紅葉の色彩の成分がよく保持された年だったのだろう。

雨に濡れた暗く寒い初冬の森というのも魅力的だ。
今まで色づいていた葉が、既に季節の終わりと本格的冬の始まりに、朽ちるように茶系かまたはモノクロームに色を失っていく今、そんな色のない世界への挟間の物憂い美しさがまた、鮮やかな色ばかりを追うのでないワビサビの感じとして魅力的に見えるのも、案外世代的にもそんな心境の傾向を帯びてきているからかもしれない。


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人に会うのも珍しいほどのこの高原の地にあって、雨の日の休日ほど静かなことはない。散歩する人もいず、道を行くのは僅かに宅配の車だけなほどだ。
時折、雨脚が強くなって三角の大屋根に雨音が響く。雨どいをあえてつけない軒からは、窓の外の景色が白むほどの滴が流れ落ちる。
ワンコが丸くなって眠っていさえすれば、家の中もしーんとした静寂に包まれる。

我が家の位置からは、山を下り市街地に出て、平野を貫くように走る国道に出ずとも、山合いの林道をくねくね行けば、北は箱根にも南は中伊豆にも行くことができる。行き交う車のほとんどない、山間に開かれた畑地の広がる、集落の点在する山里の風景の中をのんびり行くのは、ことのほか心地よくこころなごむ。
行楽の時節になれば、伊豆の幹線道路は他県ナンバーの車でごったがえすが、そんな世俗の煩雑な空気にいっさい触れずに、まるで別天地のようなエリアに暮らしているのをあらためて感じる。

これでもし、ネットという広大な情報の海への窓口を持たずにいたら、テレビも置かず、新聞も取らず、スマホも持たず、ラジオもめったに聞かない我が環境では、まったく世間と同様の情報空間からは見事に置き去りの、まさに情報の限界集落化していることになるだろう。
だが電話回線を通じて世界中とネットワークでつながった情報のweb(クモの巣状)を持ち得て、表から裏、中心から枠外に至るまで、探し当てて知ることが出来るツールが用意されている現代だからこそ、こんな辺地なところでも、時代の流れから取り残されることはなく、むしろ居住区はどこにいても、先進先鋭の情報にアクセスすることには事欠かない時代性を獲得しているといえる。

むしろ高密度な人間の生活圏から離れた辺地にいるからこそ、世上がよく見え、また世情の様子を感じることもある程度客観視できるのかもしれない。これはある意味、古くからの伝統的隠遁者の心性があることを示しているのかもしれない。
とはいえ、それほど高尚なこともなく、ただ多くの人の波間では息苦しく、山野に囲まれた辺地でしか憩うことが出来ないからだけなのだが・・・。
時代は一見、またもや明かりの見えない世界へ逆戻りしているかのように見えるが、裏側の奥や、次元の外縁から操作していた力は相当な勢いでそがれているようで、日々刻々とそれらが表の変化として顕れてきつつあるようだ。


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by martin310 | 2014-12-13 07:13 | 風景探勝

風景のなかに橋を渡す。橋はこちらとあちらを結ぶ次元のポータルのアナロジーなのかもしれない。


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もともと風景に対する感応度が高い感性の質なのか、撮る写真もおのずと自然風景ばかりになるのが常で、なかなか他のものへ対象が向くことが少ない。気がつけば風景ばかりを撮っている。
それも手つかずの自然の、まさに永劫の時の流れから変わらぬ美しさを保った風趣を感じさせるようなをものを求めて撮ろうとする。
というか、風景としての波動の高い場の、それをそのまま画像に取り入れたい衝動から、画面の趣を壊すような人工物は極力排除したいと思うし、逆にそうでない場所には撮ろうという反応を起こさないことから、結果そうなるのだろう。

だがそんななかでも例外がある。川に架かる橋だ。
特にトラス橋というジグザクした直線の構造体の橋には、その美観から風景に溶け込んだ美しさを感じ、つい眼を吸い寄せられ、カメラを向けることがある。人工物を画面に好んで入れるのは、橋くらいなものだ。
山深い中を蛇行した川が流れ、そこに塗装色も際立つレトロな伝統的構造デザインのトラス橋が架かっているなら、遠景から近景から、橋上からと、何カットも撮ってみたりしている自分がいる。人も車も通らず、ひっそりとそこに架かっている橋は実に魅力的だ。

思い返せば随分前から「橋」そのものが好きだった感がある。橋は渡るより遠くから眺める方が好ましく、橋とその背景となる風景とが絶妙にマッチングして溶け込んだ美しさに心惹かれたものだ。
なので、フイルム時代の写真にも橋を撮ったものが多い。ちょっとした“橋フリーク”なのかもしれない。子供の頃の記憶にも、いくつかの川がある故郷のイメージには、古めかしいトラス橋があったことを思い出す。

今でも走行中に興味を惹く橋を発見すると、わざわざ停まって眺めては「いい橋だ」と独りごちる。画像に収めるに耐えるものであったのなら、カメラを持ち出してしばらくあっちこっちでシャッターを切る。


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                         ★★★

a0282620_2037012.jpg今から15年前に描いたやはりトラス構造の鉄橋の絵だ。
これは東伊豆に実際にある伊豆急の鉄橋で、撮った写真をもとに童話の世界風に描いてみたもの。
当時はこんなほんわかした夢心地の世界を表現したいと思っていたようだが、今も頭の片隅にはまざまざとした現実世界だけに執心しない、半夢世界の風景を志向するものも残っている。人間は、リアル現実のみだけでは決して心の豊かさは持ち得ないものだ。そこに想像と創造があってこそ、存在の幸福感が加わってくる。
淡い青空に浮かぶ丸っこい白い雲は、よく実際空を見上げたとき、似たような光景に出くわすと、自分で描いたこの絵の世界を思い出す。こんな空の情景は、ひとつのある幸福な世界の象徴のようになっている。

                         ★★★

a0282620_20371164.jpgこれは八ヶ岳山麓を走る小海線の小さな鉄橋だ。
車一台が漸く通れるほどの狭い橋脚のあいだしかない、これ以上小さな鉄橋はないほどの珍しいものだ。だが、まわりの風景とのあいだで醸し出す味わいは、上の自作の絵と同様のように既に絵として出来上がっているような風景だった。
こんな夢見る風景、それも鉄橋のつくる風景に小淵沢付近で出会うとは思ってもみなかった。

                         ★★★

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上3点、下1点の大きな写真はいづれも静岡県中部の早川や安倍川に架かるワーレントラスといわれる形式のトラス橋だ。
構造上このスタイルを採用しただけで、特に意匠を凝らしたデザインを求めたものではないだろうが、この単純な三角の繰り返しの橋が、そのボディーカラーと相俟ってシンプルで美しいスタイルを見せている。

なぜに橋なるものが好きなのかをよく考えてみるが、理由づけるところは、こちらとあちら、閉ざされた世界を結ぶもの、此岸と彼岸を渡すもの、文字通り今現在のこちら側の世界とあちら側に伸びる未来とを橋渡しするもの・・・、そんな風にこじつけるのだが。
いや単に、風景のなかにあって、人工のオブジェクトとして、横軸の構図を際立たせる有効な対象物なのかもしれない。橋のある風景は、いずれにせよ絵としての構成要素として重要な役割を持ち得るのだろう。

最後の写真は吊り橋で、これも早川や安倍川の上流にはいくつも架かっている。ワイヤーによる構造体なので、線が細く写真ではあまりに存在感が出ないものだが、これですら、川の上に架かっている様子は、川からの高さと不安定感から風景をまた一味別のものに変える。

橋というものをさらに拡大妄想すれば、それは次なる世界へ渡すもの――次元のポータルとも捉えられる。結界に橋を渡したものがあるのはその為で、俗界と聖域を橋で結びつける道となる。精進潔斎、禊をして橋を渡るのは、新たな世界へ入るための先駆けの儀礼ということだろう。
この世界も、ある意味でこれから橋を渡って向こうへ行く為の通過儀礼を、今このとき混乱と混沌のなかで行っているのかもしれない。禊で穢れを払うには、あらゆる汚辱が泡と浮き上がって来るのだろう。それを大多数が認めることなしには、次への門は開かれない。そういうことなのだろうか?


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by martin310 | 2014-12-09 21:25 | 風景探勝

いったい何のために、どこへ向かわされて行くのか? 窓越しの初冬の風景を眺めながら思う。


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上空に今年一番の強い寒気団が入り込んで来て、晴天のもと、厳しい冷たさの風が吹いているのを、普段、なかなかそこに居座って眺めることのない2階のロフトの窓から外の風景を眺めてみる。
遥か50キロ先の山並みまで広がる平野をバックに、隣地に自生したまま放置されている木々の葉が風に揺れるのをぼーっと見つめるのだ。大方の紅葉が終わった葉が風にちぎれてわずかに枝に残るのみとなり、いっそうその姿が寒風の厳しさに絶えるように見え、初冬のなんとも言えない侘しさのようなものを感じる候となった。

a0282620_711068.jpg我が家では2階といっても、三角屋根の室内空間の片側に床を設けロフトにしただけの、部屋というよりも全体の吹き抜けの一部になった空間のことを言うのだが、それでも屋根の傾斜で天井が低くなるのをドーマーとして持ち上げて高くしている分、屋根裏部屋としては随分広く見える。
1階からの最大天井高は5.5mあるので、その底になる床で暖房を焚いても、熱気はほぼロフトの方へ昇ってしまう。なので冬の日は、そのロフトに居た方がぽかぽかで居心地がいいのだが、寝室としているそこにはなかなか長居することがない。

北に開いたドーマーの窓からは、右に箱根の外輪山の山頂、左に富士山がまるまる見える。特に空気の澄む冬の寒い日にはいっそうくっきりと眺められる。
周辺の森も未だ秋の色を残し、明るい陽光に色が映えるので、この時期は山並みの藍色や大空の淡いブルーと相まって、美しい色合いの窓越しになる。
休みの日になれば、そんな光景をほかに求めて出掛けてしまい勝ちだが、あまりに寒くて出掛ける気が失せていたこの日、あらためて自室の窓からの風景をじっくり眺めて見ることにした。
もともと一人掛けのスツールが、外の景色を眺めるように配置してある。珍しくそこに座って色の組み合わせの美しい今の風景を窓越しに眺めた。
案外、灯台もと暗しで、美しく好ましい風景はそこにあった。


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忙しく日々時間に追われ過ごしている中では、こんなにのんびり窓の風景を眺めるようなこともなく終わっている。ましてや、自宅の窓からなど見ても何かのついでの一瞬である。
外があまりに冷たい風が通り過ぎているだけに、家の内側にいるありがたさの中で、風に揺れる木々の動きに豊かな時を感じるものだ。
そして風景そのものを眺める中で、やがてそれにあいまみえる相対化した事々を思うものだ・・・。

脳裡には自ずと、窓越しに見える幸福な世界とは裏腹の過酷な現実イメージが対照的に浮かんで来る。
ひとつには、視界の前面を覆う人工物で溢れる都市景観であり、それと相似形のような情報の波が行き交う電脳空間であり、マネーや法のシステムの閉鎖系の中に絡め取られるように蠢く無数の人の群れのようなイメージがやって来る。
自然の美しいのどかな風景とはまったく異なる、人間がこの地上に生み出した近代という虚像のような人工世界だ。
いったい我々はこの地球という大地の上で、何をしようとどこに向かって生きているというのだろう?
それすらも立ち止まって考えることなく、ただ日々をいいように送っているだけではないのか?
目にする風景が豊かであるだけに、逆にそんな漠然とした疑問が湧いてくるものだ。

ネット上の情報ツールを開ければ、いくらでも今現在の世の中の問題が数限りなく溢れ出て来る。どれもこれも不誠実で欺瞞に満ち、不条理で節操のない事柄ばかりでいささか愛想が尽きるものだ。だが、ほじくっていけばいくほど不甲斐なく暗澹たる思いに陥っていくばかりのことだが、つい深みに嵌って行くのもまた自分の問題意識からだろか。

いつしか陽が西に傾き、黄金色に照らされる面と、そうでない森の影がいっそう深くなって来た。
鳥の群れが円になって空を自在に移動している。
この平穏で平和な時が、いったいこれからどうなっていくのだろうか?
こんなありがたい今があるだけでいいのに、それをそのままにしない動きをもたらすことを望む力にもぎ取られていくのだろうか?余りに馬鹿げた世界ではないか。

明るい昼が午後3時ともなると、どんどん日陰って夕に近づいていく。そうだ、冬至までもうわずかだ、昼の短さは際立っていくはず。
気がつけば、もう西の空には黄昏が迫っている。


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by martin310 | 2014-12-07 07:12 | 日々の思索ノート

自然界の寒波と人間界の寒波が吹き荒れる今。ここに在りながら、外と内を見つめていくこと・・・。


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12月に入って襲来した寒波によって、急激に大気が冷やされ、それまで晩秋の名残の秋色が一気に初冬の趣に変わっていく。
止むことなく吹き荒れていた季節風に、すっかり我が家の庭先のコナラの大木も裸木になり、線画のシルエットが青空に映えている。

爽快に晴れ渡った陽光に誘われて庭に出てカメラを向けるが、あまりに刺すように冷たい風にほうほうの体で部屋の中に逃げ帰って来るありさまだ。
夏の終わりからすっかり庭の整理も怠ったまま、そのうちにと思いつつ、動きやすい秋の快適な期間を順繰りに後回しにするうち、遂に外仕事を拒む冬の様相に至っては、さらに怠け癖が逃げ道をつくってしまうようだ。


a0282620_11404999.jpgもっともこの年末の時期、時勢も突如冬の嵐に見舞われて、まったくもってまた暗鬱極まりない情勢の推移に、精神性を根こそぎぎにされそうなほど、暗澹たる嫌な風が吹きすさんでいるようだ。
まったくもって、逆境に耐え得る精神修養を味わされているいるように、情報の窓を覗けば神経を逆撫でするようなものばかりが並んでいる。よくもまあここまで酷いものになったかと、救いのない状況がまた酷く精神を蝕んでいくようだ。
落ちたそこから如何に自分の心持ちを引き上げて行けるかが、精神安定の為の訓練と化しているような毎日でもある。現状だけを見ている分には、もう先行きが最悪の方向しか頭に浮かばなくなるほど、知れば知るほど落ちた国に成り下がっている。
もはや、裏で操る勢力のその上の支配層の雲行きの如何にしか、成り行きに変化が出る要素は期待出来そうにないほど、現状の城攻めは完璧なほどだ。周りを海に囲まれた巨大な堀の中に篭城するように隔離された我々の運命も、宗主国の意のままにある。
何も知らず、知ろうとせずに、このままの平穏が続くと思い込めば楽なものなのだろうが、そう能天気にいられない人間ほど、下手によからぬ世界を妄想しがちにならざるを得ない。

a0282620_1141772.jpgだが、この流れのままアジェンダどおりに世界が推移していくには、無理からぬ要素も多々伝えられているだけに、以前の闇の隆盛を誇っていた世界とは別のシナリオが書かれはじめているのかもしれない。一見、最悪のような奔流の只中に巻き込まれているようにしか見えないものの、そこに想定外のことが勃興して来る可能性も高いはずだ。
だがどちらにしても、そう安易な虚構のような現実で済むわけもなく、それ相応の強い現実感に意識が揺さぶられることも余儀なくされるだろう。未来は見えないだけに、今を生きる意味がある・・・。とも思うのだが、この先の不透明感の中に、不穏な胸騒ぎは止むことがない。


そんな混濁した人間界の事情とは裏腹に、自然はただあるがままに美しい姿を大空と大地のあいだに繰り広げている。天体の巡航どおりに季節の移り変わりをリズムよく刻み、生々流転、千変万化させている。
何気ない我が家の庭からの数辺のカットのうちに、大自然と人間の営みの実態を見る。ここに在りながら、外と内を見つめていくこと・・・、それ以外に意味や意義はないのだろう。


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by martin310 | 2014-12-05 11:45 | 日々の思索ノート