
そもそも「堀川政略」(著者落合氏が命名)とは、どういう目的のもと想起され実行されたものかといえば、要は黒船来航以来の開国を求める厳しい外圧に対して、開国後の世界王室連合への加盟を前提とした、国體の保全と開国とを両立させる為の方策として岩倉具視が献策したものとしている。
この欧州王室連合の世界戦略の対応策の意味と同時に、開国に際して生ずる国民間の各種対立と抗争に、必ず介入の機会を狙うであろう外国勢力から国を守る為の方策でもあった。
このような世界情勢を的確に掴み、進むべき道を見極めていた人材が存在したことが救いだった。水戸・藩校弘道館の会沢正志斎だ。
烈公・徳川斉昭の幼少の頃からの学問の師であった正志斎は、一橋慶喜公に献策した自著『時務策』で、次のような要旨の上申をしている。(要約の要約)
西欧列強の強大な圧力を前に、一国で諸国の兵を引き受けることは国力が耐え難いものになる。外国全面拒絶は時勢に合わず、国家の存亡を度外視し過去の国法に固守するだけは偏ったものとなる。今や外国との通好はやむを得ない時勢となった。但し、通好を続け外患に遭わないならば、油断と慢心から外国の介入を許す事態になりかねない。富国強兵政策から士気を励まし、皇統正しき万国に比類なき日本を守っていかねばならない。
これらは憲法九条の論議につながっていくほどの見識を感じさせる。
また、帝国主義の経済的世界戦略に晒されもがく崩壊寸前の幕藩体制下の神州の姿は、基地問題や原発・TPP問題などなどで翻弄される、今日の対米従属の姿と重なり、今、さらに宿命的な存亡の危機が再来していることを実感する。

このような危機意識があって、早くも烈公は國體保持の為に、皇室を二元化した後、ウラの國體天皇を京都六条通堀川に隠すよう、秘密裏にいわゆる「堀川御所」を造営したのだという。
「堀川政略」は、孝明天皇のもと朝彦親王(青蓮院宮)と侍従・岩倉具視が考案したもので、そこに慶喜をはじめとして勝海舟や榎本武揚、小栗忠順が中枢を務め、その流れは維新後の明治中期にまで及ぶという遠大な計略だった。

しかして孝明帝は慶応2年(1866)12月25日、自ら崩御を装い堀川御所に隠れ、國體天皇となり、政体に代わり皇室外交と国際金融を担当した。
一方皇太子睦仁親王と入れ替わった南朝皇統大室寅之祐は践祚し、東京城に入り東京奠都を宣言し、政体天皇に就いた。
そして、睦仁親王・皇女壽萬宮(すまみや)・理宮(ただみや)も薨去を装い堀川御所に父と共に隠棲した。
孝明天皇は開国に関して、欧州列強に交わることになるわが国の政体のかたちとして立憲君主制の樹立の必要性には同意していた。
これを前提に、古来からの國體を護持しつつ皇室を国際化するには表裏二元化するほかにないことも理解し、それを自ら志したのである。
つまり、ここが今までの「孝明天皇弑逆説」とはまったく異なるところだ。
孝明天皇はすべての筋書きを認めた上で、大室寅之祐に表の皇位を譲ったということだ。
孝明天皇の意を受けて大室寅之祐が
入れ替わって即位した明治天皇
まとめ要約
by Martin
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