
今やいつでもどこでも、ポケットから情報端末を取り出し、何の気なしに指で触れれば、求める情報を簡単に入手することが出来る時代になった。便利この上ないアイテムだ・・・とされている。
だが、視点を変えれば、これは人間の能力を著しく退化させる、禁断の道具を手にしたことになるかもしれない。
一見、情報量の多さは知の増量を促すように思えるが、実は、情報の洪水に溺れるというか、情報の恒常的な放射を受け続けているということは、上層だけの脳内刺激に疑似高揚感を得る麻薬性を享受し続けているというか、得ること、獲得することが自己の向上性を満足させている錯覚に迷妄するようで、とにかく高次な精神性の修養とは逆の効能を得ることは確かであろう。
先進の、未だ知る人の希少な情報だけを渇望して、ネット上を漁って廻ることを日常としはじめると、いつしか、この情報収集癖から抜け出ることが出来なくなるようだ。ある種の中毒性に侵される。つまり、情報の、中でも特にニュース性のあるものに牽引され、特報記事探索症候群に陥るのだ。それは言うなれば、逆に自己放棄や自己放擲、自分を忘却し自分の外側だけに視点を向ける、自己喪失につながる道である。
もし、突然、外界との接触を一切断絶され、一切の情報も完全に遮断された空間に拘束されたら、いったい自分はどういう状態になるのだろうか?と、思うことがある。ようするに監獄の独房のような場にいきなり閉じ込められたとき、映像も文字も音も音楽も、人の動きも、時代の動きさえ、その一切が閉ざされたとしたら・・・。それでもそこへ居続けなければならず、生き続けなければならない。
しーんとした空虚な空間で、ただ黙想する以外にない。そんな状態をよく想像してみる。
おそらくこれが、情報から解放されたニュートラルな状態なのではないかと思うのだ。自分以外いない。自分で自分を思い、考える。
そして、眼に見えていないこと、音として、声として聞こえていないところで、はじめて自分自身の心の眼と耳で今の自分を捉える。最後には、虚空を見つめ、時空の無から理智を得る。天からのなにか?を感得する。・・・それが本来の情報となるのではないかと、そう思えるのである。
「風景を見る」・・・というのは、ひとつにはこの天からの、自然からの、大いなるなにかからの理智を受け取ることと思うのだ。それがすなわち、最新の、最善の、必然の最たる「情報」であると、そう思うのである。
その「情報」は言葉に翻訳できるものと、まったくできないもの、する必要のないものに分かれる。本来言語は、言語での表現が可能な次元のみで通用するものとして創作されたものであって、言語でない波動のみですべてを表す次元が本質の世界であるはずなのだ。
そういう意味で、ここにも、画像と付属の文によって、表せるものを表すことを試みているとしたいところだ。
目にしているものの奥に、目にしていない何かがあるかもしれない。それが、今、時空を見つめる意識の受容性が必要とされているのではないかという問いかけになる。
※写真は、沼津市西浦にて。