夕暮れのしじまに、ぽつぽつと灯りの点がともって来る。
夕凪の静かな湾はさらに静けさを増し、釣人の影もひとつふたつと消えて行く。富士にも夜のとばりが下りはじめる。
夕景から夜景に移り変わって行く黄昏時、平板なひとつながりの街から、まるで息を吹き返すように人の生存の証のような灯りが増殖していく。
冬の大気にゆらゆらと明滅する光は、やがてあたりの山裾を染めるように、暗い翳りに明かりを与えてゆくのだ。
高速の高架から夜の街を見ながら、山をくねるように登ってゆく道を走りながら、眼下の無数の光の粒を眺めるとき、そこに暮らす幾多の人々が、この夜の影の中にひとからげにまかれていくように、時代の波に呑み込まれて行くのを思う。
抗えない上り詰めた見えない力の前に、盲目に、無抵抗に、言うなりに、騙されながら、思わされながら、惑わせられながらも、集団心理に安逸に便乗しながら、他力に任せ、他者にかまけて、無目的に帰依するように、されるのに任せ、囲うように行き方を狭められ、追われるでもなく追われるように、気づかないように、気づかせないように、気づいても流れに沿うようにと、決められた場所に連れて行かれるのに甘んじるのだ。
それはどうも、野放図で居ることが不安で仕方ないし、柵であたりをつけられていた方が行き易いし、皆が行くならそれがいちばんで、抗して意志を遂げるのにはあまりに生きにくいので、それならあちらと示される方へと自然に流れる方が安心だというのだ。
何がどうなってこうなっているのか、誰がどういう狙いで事を進めているのか、この先に誰がいて、その先に誰が操っているのか、大勢は誰が動かしているのか、何を隠し、どう騙しているのか。それによって富むものは誰か。それを知ろうと思えば知れる世にあるのに、知ればどれほどからくりが馬鹿げているのか、目的が如何に下賤なものであるのか、疑問や疑念のひとつも抱かずにいるのはどういうことなのだろうか。
それは自分にも、世間にも、世界にも、関心がないからに過ぎない。
いや、おおもとは自分が自分に向ける視線を持たないことだろう。
己を見返すことに観点があれば、自ずと自分と他者、自分と外界、世の動き、世界の動向の裏側に眼は向くはずだ。
そして、行き着くところ、再び、原点の己に回帰する。
そういうことが本当の覚醒ではないのか。
そんなことを思いつつ、また、原点の己の問題に戻って行く。
冬の夜は、思索に費やす時が待っている。
だから、冬の夜は思索に耽る(更ける)のだ。
人間は生まれながらの自己を所有し続けるべきなのに、その自己を社会と権力に奪い取られ、天与の体重を吹けば飛ぶほど軽いものにされている。われわれは、奪い取られた自己を取り戻し、自分自身をオーソリティーにして生きて行かねばならない――