これは奥伊豆の仁科峠から駿河湾を眺めた光景だ。
雲間から神秘的な光が漏れている。いわゆる“天使の梯子”と呼ばれる情景だ。
金色(こんじき)に輝く光が、海面を照らしている。
空は常に多様な表情を見せるが、特に雲と陽光の織り成す生成のドラマは、ときにこのような神懸かった神聖な夢幻劇を見せることがある。
スポットライトが当たった海面のステージには、何者が現れるのであろうか。
雲の上の天上界では、何を地上に降ろそうとしているのであろうか。
ただ、この山稜でこの神威が漲る光景を目にしているのは、他にいない。
道すがら、行き交う車は一台とて出会っていないからだ。
このとき、この瞬間を得ることが出来たのも、単に連関のない偶合であった訳ではあるまい。現に、実写してここにあらわしていることが、瞬時に消え入る事象を留めたことになると思えるからだ。
伊豆をくまなく周っているといっても、未だ足を踏み入れていない枝道は数多くある。その意味で、普段通り過ぎている、その先はどうなっているのか気になる道にあえて入り込むことで、新たな発見を期待することを心がけるようになった。
ここは中伊豆の下田街道から西に折れた、大平(おおたいら)地区の山域である。
一種不可思議な形の小山に、折からの西に傾いた陽光がススキの白穂を輝かせていた。
あまりに眩しく神々しく輝く様を、見過ごすには惜しい気がして、降りてレンズを向けたのだ。
光の極微細な粒子のあいだに沿って、なにものか崇高な意志が降臨している幻影を見ている気がし、霊験の幽玄な振動が、白く輝く穂を揺らしているようにも思え、その緊迫した間合いに息をのみながら見つめていた。
姿は見えずとも、光と風が穂波を揺らし、実に霊妙な神勅が降りて来るかのような空気に包まれていた。
さらに道は山を緩く登って行った。道が終わった山上から大空を仰いだ。
森のあいだから開けているのは空だけだったからだ。
薄雲が均しく配され捲かれたように広がっていた。
人は所詮地に居て、地上の汚濁に心まみれている。
例え無自覚に人の世の汚わいに慣れ従っても、決して心の窮地は休まらない。
天はいつでも天にあり、地上の営みのそれぞれを見ていることだろう。
人は遂に空を仰ぐ段になって、はじめていつでも在る空の広さを知るのだ。
雲の美しさに心洗えば、また新たな心の旅をはじめることが叶う。
天との交感は信仰にも似て、己の心の本意を知ることに、力を貸す大意を持つのだろうから。