写真というものは不思議なもので、現場の風景を前にして「これは素晴らしい!」と思ってファインダーを覗いても、そこに見える風景に失望することがよくあるものだ。自分の目で見ればどれほど広大で実在感があるかと感動するものでも、四角く切り取られた像を見ると何も興が乗らないことがあるものだ。で、結局シャッターに指をかけたまま止めてしまうことになる。
これには際限なく広がる対象を小さく切り取ってしまうことでスケールダウンしてしまう理由以外に、もうひとつ、単眼の風景になることに耐えられない感覚があるからだと思われる。単眼・・・、そう片目で見た風景に変わってしまい、せっかくの感動が半減以下のしろものに減衰されてしまうことにあるからだ。カメラはもともと単眼なのだ。
試しに、今見えている光景を片目を瞑って見てみるとよくわかる。立体感が殺がれ、平板になり、しかも実在感がややうすくなる。その上写真は、特定の範囲に矩形に切り取られるのだから、おもしろみに欠ける感がある。これが実際に見えるものと、光を集めて感光させた二次元的像の違いで、写真の物理的宿命でもあるのだろう。
もちろん、この条件に強く反応するものは特定の被写体に限られるのだろうが、特に風景を撮ることの多い自分には、撮って来たものをモニターでプレヴューしたときに、大概気落ちする恒常的反応だと言える。あんなに凄かったのに、こんなものか!?と・・・。
そこで、風景画像として納得できるものにするには、そのままの生画像では物理的に無理があることがわかる。人間の知覚作用に合った表現の仕組みに翻訳し直す必要を感じることになる。自分が感じ取っていた世界の再現の為に、ただの生撮り画像を感性を盛り込んだものに変換していくのだ。しかも、サイズはblog上では500pix.以内になる。そんな小さなものの中に、現場で感じた感覚的要素を盛り込み、できれば複眼化も試みる。
それには自分は絵画的手法を選ぶ。絵画としての様々な要素の構築性を盛り込んで画像処理し、一幅の絵のような姿を取るようになる。それがこれらの風景になった。
人間の眼は案外視覚的刺激がないことに耐性がない。画面が退屈なほど感覚的拒絶の強いものはない。だから、その欲求に応えられることがまず前提条件となる。視覚が遊べる空間が多いほど、人の眼は画面の中を行き交っている。この時間こそが、脳内に愉悦信号が拡がっていく瞬間となる。これが盛り込んだ波動の伝送された結果となるのだと思うのだ。
もっと、しばし見続けていたい・・・、そういう作用が起こせる作品こそが、自然界からの波動伝送の仕組みを体得できたものとなると思っている。