我がガーデンは、今、つるバラ族の開花間近とあって、これからはじまる花々の美の饗宴を前に、鉢植えやプランターなどの小さな花たちが、密やかにプレオープンの前座を務めているという感じだ。そこで色や形で目を惹くものを集めてみた。
庭先やデッキのそこここに点在して咲いている彼女たちは、これから華やかな貴婦人や女王のような気品の高い薔薇族のステージを前に、脇役ぶりに自然に徹して清楚に可憐に自分らしい姿をあどけなく見せている。その奥ゆかしい感じが実に初々しく、いじらしくもあり、決して姿形や色彩のデザインにおいては引けをとらないことを、これらのショットからも感じられると思うのだ。
こんな花たちをあまりにアプリオリにあたりまえのように見ていてはならない。よく姿形を眺めれば、どれほど造形的に優れているかはわかると思うのだ。ピンポイントでクローズアップすれば、これほどピンで映るのに充分耐ええる美しさを持っていることがよくわかるはずだ。
彼女たちも、創造主のデザイン力が遺憾なく発揮された被造物である。こんな優れた創造の賜物は、勝手きままな偶然の産物では決してありえない。ひとつひとつ実に手の込んだ、精緻で絶妙なクリエイティブティが与えられてこそ、完成した植物であるはずだ。
生み出されたものは、生み出したものの意図や意志や思いがそのものに内在しているはずだ。そうやって芸術作品を普段見ているはずだが、こと、自然界にあるものはそういう見方を自然と忘れる。作者など想定していないからだ。
でも、この世に在るというのは、やはり在らせようとするものがあるから在るのであるから、きっと創り出した存在や思いや起源となる波動のもとはあったはずであろう。そういう観点から花々を見ればまた、その美しさや存在感が違うものに見えて来るはずだ。
つくりだすという視点から自然を眺めるならば、そこにどれほどの神がかった創造の奇跡があるかが感じられる。これらがまったく小さな種や苗のうちに、この植物全体の要素をすべて持っているというのだ。それが時期をみてここまでに育ち、完成を見せ、また次につなげていくシステムを持っている。
なにせ自分が生み出すとしたら、完成した姿としてだけでも、とてもここまでのものをつくり出すことはできない。デザインひとつとっても完璧な精度を持っている。それが命を持って生きているのだ。
まさに神技なのだ、花々は・・・。
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