滔々と流れる清らかな水を眺めていると、白瀬の奏でる轟音と共に、脳内の神経回路の交感が自然停止していくのか、脳波の起伏が平坦に落ち着いて、いつしか意識的に思考をアシストしないと頭が働かなくなるようだ。
もっとも、こんな場に来てまで脳の動きを止めずにいる必要はなく、無思考状態の心地よさが至福感を生む訳なのだが、そうは云っても、脳波のゆらぎの隙間でまた思考が復活するのを許さざるを得ないことにもなる。
これだけの水量を間断なく、常に轟々と集めて来る森のはたらきと、そのありがたさから、おのずと勇壮な自然界の水の循環の仕組みに思いを馳せることになる。
・・・雨降って地に浸み込み、水湧いて清流に落ちる。沢が集まり川となり、支流を集めて奔流となる。大河は海につながり、大海へ解き放つ。やがて水気は天に昇り、再び地を目指す。
これはまさしく自然界の輪廻だ。
我々の御魂(みたま)の行く末と同じ道だ。
水源から河口、そして大海原までの階梯は、人生の比喩である。

我々の日々の流れは留まることを知らず、常に流れ行く。
日々の刹那に、新たな知と情報と、智慧を授かり、意識の総体は順次波動の趣を変化させている。昨日の自分と、今日の自分はもう既に違うのだ。
興味の赴くところに研鑽の糧があり、追及の工程にこそ気づきがある。
ひとつのプロセスを越えると、次の階梯が始まり、常に意識の本体には重層の学びが加わっていく。
特に、気に病む「苦」が前途にもたらされるとき、解決の為に奔走する自分が、また新たな経験知を積み上げることになる。生きてあるうちの「苦」の障壁は、川でいう「堰」かもしれない。
滞って滞留し、右往左往し、考え悩んで道なきところを一気果敢に堰を越えていく。捨身の如く落下した揚句に、やっと豊かな流れに肩を抱かれる。
その繰り返しで川幅は太く動かし難いものになっていく。
源流から大海まで下る道は、案外、転生以前からある程度の青写真は決めて来ているはずだ。川筋が逆行して違う支流に行くことはない。上から下への行路は御魂の目的に適ったものにしてあるはずだからだ。
それ故に、時に川を遡行してみて、来た道を振り返って客観することが重きをなす。でなければ、流域の実像も見えず、ましてや大海に出る意味も喪失してしまうことになる。
流れを下降するなかで、様々な、そう、実に様々なドラマが準備されている。川のドラマは、それだから面白みがあり且つ、味わい深いものがあるのだ。
流れを見失ってはいけない。流れはひとつに流れている。
見失いかけることもあるが、重力は逆にはさせない。
迷ってもまたもとの川筋に戻るのだ。
確定した答えなどない。流れは常に流動する。
流動こそが波動の成長を生む。
その為に我々は、流れを流れる人生という時間を使うのだろう。
川を見つめている。
それはいつしか、己を見つめていることに変わるのだ。
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