自然の風景のもとで、手持ちのカメラで何を撮るかは、長年そうやって被写体を求め歩いていれば、ほとんど何に自分が反応するかはよくわかって来てしまうものだ。
視覚に感応して来るものしか、カメラを向けようとはしない。いくらフイルムとは違って、メモリーしか使うものはないにもかかわらず、無駄なショットを撮ろうとはしない。
後でプレビューしても、興味もなく撮ったものは、自分が一番無反応で使い物にならないと思うのを知っているからだ。
そうすると、撮り貯めたものはほとんどが、自分が好むようなものばかりになる。そんな枠組みからもう少し外へ出ようと試みることはしてみても、いつのまにかまたいつもの自分パターンに戻ってしまう。
そういう自分パターンの被写体のいくつかの中で、案外、樹木のシルエットというのは多いようだ。
特に天気のいい、光が溢れている日には、ことのほか幹や枝のシャドウが黒々として空を背景にして際立つ。なので、樹形がよくあらわれて樹自体の姿の美しさが目を惹くのだ。
夏の日は、そういうコントラストの強烈さがまた、樹の形が好きな自分には魅力的に見えるのだろう。
樹幹や枝葉の線画的な形が実に美しい。
自然にそうなっている樹の形に、構造的で、無駄のない合理性に富む芸術的な形象の素晴らしさを見ているのだろうか。
シャッターを切ったあと、
「・・・いい樹だ。」とひとり呟いたりしている。
惚れぼれするような美しい姿の樹木に遭った日は、それだけで満ち足りた気持ちにさせてくれるものだ。
何をどう操作したのでも、意図的な仕業があったのでもなく、ただ、あるがまま自然のままにそうなっただけで、無垢の美に溢れているのだ。
自然の中を歩くというのは、そういう出会いを与えてくれるもので、他者にはわからない自分と対自然だけのやりとりなのかもしれない。
ものの価値は、価値という概念を抱いたときに既に生の感動を消失させてしまうものだ。自分と自然、自分と大いなるなにかとの呟きこそ、意識と感性の交流のありがたさを受け取れるものだろう。
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