
窓枠に区切られた風景―
風景画を見るように…。
自作の新部屋の横型窓は、ちょうど風景を絵のように切り取れることを意識してその位置や大きさを決めて作りました。
安価なワンバイフォーの板材を窓枠にする関係上、枠より大分外が見える素通しのアクリル板の大きさが狭くなりましたが、実際、デスクの前に座って外の景色を眺めてみると、その枠の幅広さがちょうど絵の額縁のようで、まさに生の風景画を見るような感じになりました。
さながら3D絵画といったところで、冬枯れた木々の向こうに海沿いの小高い山と、その行き切れたところに海が…あるだろうと予感させる風景が広がって見えます。

「海が…あるだろう」というのは、まさに駿河湾が厳然と青くあるのですが、年々樹高を伸ばす木々が壁となってその陰に隠れているからです。
ただ、その木々のわずかな隙間からほんの少し見える海の蒼さがなかなか趣があって味わい深い景観を形作っています。
よく古い風景画を見ても、遠景の、遥かに霞んだように淡いグラデーションだけで表された海や山の方が、遠さや大気の具合や光の微妙さなど、あまりに明確に描かれた風よりも、より絵画的でそれが想像力を刺激していい感じに思えたりすることがあります。
それと似た感じかもしれません。
風景画の基本は、近景、中景、遠景とがよく描けていることで広がりや空間性が出ると言いますが、この窓からの景色はまさにその理に適ったように揃ったものです。
視線の持って行く様も、その三つを行き来しながら風景の面白味を愉しむことが出来ます。
これがいつ見ても飽きない景色・・・ということになるのでしょう。
こんな窓からの景色のことを書こうとすること自体、この新部屋に居るときの心情がそうさせるのでしょうが、この見える風景は、さらに視線を超えた想像の世界への糸口を与えてもくれるようです。
過去の記憶の中にある風景や、小説を読んで脳裡に描いた風景や、はたまた夢の中で見たおぼろげな記憶の断片など、様々なイメージを喚起させてくれます。
この脳と心象や感情などが入り混じった心の風景というようなものは、誰しもの内部にあるものだと思いますが、そういう不確かであっても意識に永く残っているものというのは、決して意味のないものとは思えません。
憶い返せば、そこに“もわっと”あたたかな心情が生まれ、何とはなしに愛おしく懐かしいものに思えて来たりします。
えてして画像や映像などで、あまりに想像を欠いたように目の前にイメージをいきなり与えられてしまい勝ちな現在、内なる世界にそうやってひっそりと居残っている風景などというもののありがたさとうれしさを、今一度思い返してみてもいいのではと思うことがあります。
そんなことをこの窓は言っているようです。
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