
日中、ひとたび庭に出てちょとした作業をするならば、一度にどっと汗が噴出す。その汗の匂いに黒々した藪蚊が寄って来る。
耳元で羽音が聞こえても、もう少しと手を止めずにいれば、あっという間に数箇所もの攻撃を受けている。
やはり、日中はエアコンの効いた部屋の窓から庭を眺めるに限る。まるでシェルターのような安全な環境の中から、ガラス越しに見る夏の庭の草花が風に揺れるのを愛でる方がよろしい。
しかし思うに、人間という生き物はどうも生存の快適温度の範囲が実に狭いように思う。温度計の計測範囲のほんのわずかな指針しか快適に過ごせることがない。
実際、プラスマイナス5℃ほどの差しかないのではないだろうか。
それを埋めるために、衣類やエネルギーをかなり費やさざをえない。
もし、肉体独自の対応温度が0~30℃までの広範囲に可能なら、こんなにも夏が辛いこともないのにと思ったりする。
ぼーっとそんなことを思い、二重ガラスの大窓越しに庭の植物たちを眺めていると、ふと、遠い昔の夏の頃を思い出している。
子供の頃の暑い夏は、いったいどうしてやり過ごしていたんだろう。
もちろん、今のようにエアコンやクーラーなるものさえない時代。
あるのは扇風機だけ。
当然、家の窓という窓はきれいに開け放たれて、風が通るようにしていたはずだ。
網戸はあったかもしれないが、すべての窓にあったようにも思えない。いったい、当時の虫対策はどうしていたんだろうとか…。
そうだ、子供の頃の記憶には、あの軒先から下げている「簾(すだれ)」のあったのをよく覚えている。
竹や葦だろうか、そんなもので編んだものもあったけれど、新たにストローのようなプラスチックで編んだ青いものも印象深い。
あの風に揺れると、波打つ線条の模様が変化するのをよく眺めていたような気がする。
子供ごころに、こんな向こうの景色が見えなくなるものを下げて、いったいどういう意味があるんだろうと思ったものだ。こんなもので決して涼しくはならないのに…と感じていた。
そんなことよりも、全身を冷たい川の水に浸す方がとっぽど涼しいと、毎日、欠かさず数キロ先の川まで泳ぎに通っていた。
仲間と唇が紫色になるまで遊んで、お互いのそれをおかしくて笑っていた日。
まだ夏は一ヶ月もあると、きっとそんな日々を楽しんでいたことだろう。
今や、猛暑が過ぎ去るのをじっと待つばかりの今とは、まるで心持ちが違っていただろう。
巡り行く夏に想う。






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