伊豆に住み、八ヶ岳を巡り「空と森と水」の美しい風景を求めて・・・。 自然に包まれて暮らそう!---Martinのフォトエッセイ
by martin310
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カテゴリ:風景探勝( 56 )

雨に濡れた黄金色の森。山の上の辺地にて情報の窓から世界を覗く。


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宵からずっと雨が降って、屋根裏に雨音が響いていたが、朝方少し小降りになると俄かにあがり、2階の窓からの紅葉の終わりの景色が妙に明るい黄金色に包まれていた。

写真では思ったように、ぼうっと輝く黄金色の森の感じが出なかったが、こんな雨の日のほの暗い景色に焦点を合わせるのも珍しい。もっとも、例年と比べ今年ほど紅葉の写真を多く撮った年も初めてかもしれない。

それは今まで、秋の紅葉という題材そのものがあまりに写真としての季節ものの定番に思えてしまい、変に既定路線的で、ありきたりなのを毛嫌いするきらいがあったからだ。単に自分の思い込みに過ぎないのだが、撮り貯めた画像をプレヴューしてみても、去年以前、紅葉写真はかなり少ない。
今年は思ったより、紅葉の色の冴えがよく奇麗で、しかも長い期間持続的に被写体になり得たという好条件もあったのだろう、自分ながらよく撮ったものだと思う。思いがけず行った先が紅葉の名所であったこともあり、自然とカットの枚数も増えたからだが、それにしても身近な我が家のまわりの景色などもよく撮ったもので、それだけ今年の紅葉の具合が絵になるポイントをいつもより多く生んでいたようだ。
現在のように、もう枯れ落ちる頃まで目を惹くようなことは今までなかったと記憶している。それだけよく紅葉の色彩の成分がよく保持された年だったのだろう。

雨に濡れた暗く寒い初冬の森というのも魅力的だ。
今まで色づいていた葉が、既に季節の終わりと本格的冬の始まりに、朽ちるように茶系かまたはモノクロームに色を失っていく今、そんな色のない世界への挟間の物憂い美しさがまた、鮮やかな色ばかりを追うのでないワビサビの感じとして魅力的に見えるのも、案外世代的にもそんな心境の傾向を帯びてきているからかもしれない。


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人に会うのも珍しいほどのこの高原の地にあって、雨の日の休日ほど静かなことはない。散歩する人もいず、道を行くのは僅かに宅配の車だけなほどだ。
時折、雨脚が強くなって三角の大屋根に雨音が響く。雨どいをあえてつけない軒からは、窓の外の景色が白むほどの滴が流れ落ちる。
ワンコが丸くなって眠っていさえすれば、家の中もしーんとした静寂に包まれる。

我が家の位置からは、山を下り市街地に出て、平野を貫くように走る国道に出ずとも、山合いの林道をくねくね行けば、北は箱根にも南は中伊豆にも行くことができる。行き交う車のほとんどない、山間に開かれた畑地の広がる、集落の点在する山里の風景の中をのんびり行くのは、ことのほか心地よくこころなごむ。
行楽の時節になれば、伊豆の幹線道路は他県ナンバーの車でごったがえすが、そんな世俗の煩雑な空気にいっさい触れずに、まるで別天地のようなエリアに暮らしているのをあらためて感じる。

これでもし、ネットという広大な情報の海への窓口を持たずにいたら、テレビも置かず、新聞も取らず、スマホも持たず、ラジオもめったに聞かない我が環境では、まったく世間と同様の情報空間からは見事に置き去りの、まさに情報の限界集落化していることになるだろう。
だが電話回線を通じて世界中とネットワークでつながった情報のweb(クモの巣状)を持ち得て、表から裏、中心から枠外に至るまで、探し当てて知ることが出来るツールが用意されている現代だからこそ、こんな辺地なところでも、時代の流れから取り残されることはなく、むしろ居住区はどこにいても、先進先鋭の情報にアクセスすることには事欠かない時代性を獲得しているといえる。

むしろ高密度な人間の生活圏から離れた辺地にいるからこそ、世上がよく見え、また世情の様子を感じることもある程度客観視できるのかもしれない。これはある意味、古くからの伝統的隠遁者の心性があることを示しているのかもしれない。
とはいえ、それほど高尚なこともなく、ただ多くの人の波間では息苦しく、山野に囲まれた辺地でしか憩うことが出来ないからだけなのだが・・・。
時代は一見、またもや明かりの見えない世界へ逆戻りしているかのように見えるが、裏側の奥や、次元の外縁から操作していた力は相当な勢いでそがれているようで、日々刻々とそれらが表の変化として顕れてきつつあるようだ。


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by martin310 | 2014-12-13 07:13 | 風景探勝

風景のなかに橋を渡す。橋はこちらとあちらを結ぶ次元のポータルのアナロジーなのかもしれない。


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もともと風景に対する感応度が高い感性の質なのか、撮る写真もおのずと自然風景ばかりになるのが常で、なかなか他のものへ対象が向くことが少ない。気がつけば風景ばかりを撮っている。
それも手つかずの自然の、まさに永劫の時の流れから変わらぬ美しさを保った風趣を感じさせるようなをものを求めて撮ろうとする。
というか、風景としての波動の高い場の、それをそのまま画像に取り入れたい衝動から、画面の趣を壊すような人工物は極力排除したいと思うし、逆にそうでない場所には撮ろうという反応を起こさないことから、結果そうなるのだろう。

だがそんななかでも例外がある。川に架かる橋だ。
特にトラス橋というジグザクした直線の構造体の橋には、その美観から風景に溶け込んだ美しさを感じ、つい眼を吸い寄せられ、カメラを向けることがある。人工物を画面に好んで入れるのは、橋くらいなものだ。
山深い中を蛇行した川が流れ、そこに塗装色も際立つレトロな伝統的構造デザインのトラス橋が架かっているなら、遠景から近景から、橋上からと、何カットも撮ってみたりしている自分がいる。人も車も通らず、ひっそりとそこに架かっている橋は実に魅力的だ。

思い返せば随分前から「橋」そのものが好きだった感がある。橋は渡るより遠くから眺める方が好ましく、橋とその背景となる風景とが絶妙にマッチングして溶け込んだ美しさに心惹かれたものだ。
なので、フイルム時代の写真にも橋を撮ったものが多い。ちょっとした“橋フリーク”なのかもしれない。子供の頃の記憶にも、いくつかの川がある故郷のイメージには、古めかしいトラス橋があったことを思い出す。

今でも走行中に興味を惹く橋を発見すると、わざわざ停まって眺めては「いい橋だ」と独りごちる。画像に収めるに耐えるものであったのなら、カメラを持ち出してしばらくあっちこっちでシャッターを切る。


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                         ★★★

a0282620_2037012.jpg今から15年前に描いたやはりトラス構造の鉄橋の絵だ。
これは東伊豆に実際にある伊豆急の鉄橋で、撮った写真をもとに童話の世界風に描いてみたもの。
当時はこんなほんわかした夢心地の世界を表現したいと思っていたようだが、今も頭の片隅にはまざまざとした現実世界だけに執心しない、半夢世界の風景を志向するものも残っている。人間は、リアル現実のみだけでは決して心の豊かさは持ち得ないものだ。そこに想像と創造があってこそ、存在の幸福感が加わってくる。
淡い青空に浮かぶ丸っこい白い雲は、よく実際空を見上げたとき、似たような光景に出くわすと、自分で描いたこの絵の世界を思い出す。こんな空の情景は、ひとつのある幸福な世界の象徴のようになっている。

                         ★★★

a0282620_20371164.jpgこれは八ヶ岳山麓を走る小海線の小さな鉄橋だ。
車一台が漸く通れるほどの狭い橋脚のあいだしかない、これ以上小さな鉄橋はないほどの珍しいものだ。だが、まわりの風景とのあいだで醸し出す味わいは、上の自作の絵と同様のように既に絵として出来上がっているような風景だった。
こんな夢見る風景、それも鉄橋のつくる風景に小淵沢付近で出会うとは思ってもみなかった。

                         ★★★

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上3点、下1点の大きな写真はいづれも静岡県中部の早川や安倍川に架かるワーレントラスといわれる形式のトラス橋だ。
構造上このスタイルを採用しただけで、特に意匠を凝らしたデザインを求めたものではないだろうが、この単純な三角の繰り返しの橋が、そのボディーカラーと相俟ってシンプルで美しいスタイルを見せている。

なぜに橋なるものが好きなのかをよく考えてみるが、理由づけるところは、こちらとあちら、閉ざされた世界を結ぶもの、此岸と彼岸を渡すもの、文字通り今現在のこちら側の世界とあちら側に伸びる未来とを橋渡しするもの・・・、そんな風にこじつけるのだが。
いや単に、風景のなかにあって、人工のオブジェクトとして、横軸の構図を際立たせる有効な対象物なのかもしれない。橋のある風景は、いずれにせよ絵としての構成要素として重要な役割を持ち得るのだろう。

最後の写真は吊り橋で、これも早川や安倍川の上流にはいくつも架かっている。ワイヤーによる構造体なので、線が細く写真ではあまりに存在感が出ないものだが、これですら、川の上に架かっている様子は、川からの高さと不安定感から風景をまた一味別のものに変える。

橋というものをさらに拡大妄想すれば、それは次なる世界へ渡すもの――次元のポータルとも捉えられる。結界に橋を渡したものがあるのはその為で、俗界と聖域を橋で結びつける道となる。精進潔斎、禊をして橋を渡るのは、新たな世界へ入るための先駆けの儀礼ということだろう。
この世界も、ある意味でこれから橋を渡って向こうへ行く為の通過儀礼を、今このとき混乱と混沌のなかで行っているのかもしれない。禊で穢れを払うには、あらゆる汚辱が泡と浮き上がって来るのだろう。それを大多数が認めることなしには、次への門は開かれない。そういうことなのだろうか?


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by martin310 | 2014-12-09 21:25 | 風景探勝

時間の静止した世界。あたりまえのタイムフレームから一時的に出てみてわかること。


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※我が家からの沼津湾の眺め。いつもより望遠でズームアップして撮ったので、中央左からの達磨山の先に伸びる岬、大瀬崎の細長い半島まで見える。


雨が降り続いた翌日、予報どおり朝から爽快に晴れ渡った。
大気が雨に洗われたように清々しく澄み、秋の名残の紅葉が未だ色を失わず、折からの強い陽光に美しく輝いている。

ここ、我が家からの沼津湾の眺めにも、その眺望の下段を埋め尽くすように、森の黄葉が常緑のグリーンを従えて鮮やかな彩りを見せていた。二日ばかりすっかり霧や雲で姿を見せなかった富士も、宝永山の下まですっぽりと厚化粧したように深めの雪衣を纏っていた。どうりで肌寒いわけだ、富士山に雪がかかるときは、ここ伊豆の山中でも大気がいっそう冷ややかになる。


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※我が家から車で小一時間、上の写真の岬、大瀬崎のすぐ近くから富士山を入れて撮る。


この日の超快晴になるだろうという予想が的中し、ちょうど休日にあたったので、さっそくいつもの西伊豆までの海岸線コースをまたのんびりと行った。
山の上の我が家からは、沼津湾の海景を見るまで30分もかからず行ける。三津(みと)や西浦を過ぎて大瀬崎(おせざき)までの海岸縁の細い道を富士を眺めながら行くと、もうそこは伊豆の古くからの漁村エリアだ。
ここへ来るといつもながら不思議なのだが、こんな短時間しかかからずこの地域に進入すると、今までの時間感覚とまったく違う、まさに時間の静止したような、時間の流れそのものが消失してしまったような奇妙で、いやに心地いい空気に全身が包まれる。
奥まった内海がまったく波を運んでこないようなべた凪の海になり、わずかに風の音と鴉の鳴き声がしているだけの動きのない世界に変わるのだ。陽光は静まり返った漁村の風景に、淀みなく隅々まで明るい光を漲らせている。
同じ人の住む世界でありながら、湾を隔てた向こうの沼津市の都市建築群が富士の峰の下に広がり、まったく此岸とは対照的な動的で人工的で現実的そのものの風景を見せている。まるで蜃気楼のように近代都市が対岸にあらわれたような不思議な好対照性を見せている。


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※西浦からの富士の景観。雲を隔てて天上界の富士の峰とその下界に広がる沼津の都市景観、そしてこちら側の漁船の漁風景、異なる世界が層によって分けられ、それがひとつの世界として一体化しているような不思議な構図だ。


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※沼津湾に浮かぶ海上ピラミッド「淡島」。島の頂には淡島神社があり、島を覆う樹林帯は南方系の植物群落による異色な雰囲気に満ちている。


大瀬崎を過ぎ、井田(いた)集落までのまったく人家のない森の道が、最も日常の時間感覚から遠い世界を感じさせる不思議な空間だ。
何がそうさせるのかいつも来ると考えるが、理由は解らずとも、感覚的事実は常にこの場の反時間性を実感させる。
我々が日常を過ごす、せわしなく煩雑で、流れに乗るよりも追われる苛烈さを感じる時間の世界と、このあたりで感じ取る無時間性とのあいだには、かなりの波動的な隔たりがあるように思えるのだ。いわば、タイムフレーム自体がまったく異質で、ここに居ると時間のあるかなしかの時の流れのうちに、肉体も意識も溶解していくような快感を覚える。
それは下の写真の風景に懐かしさを覚えるように、古代人が持っていた時間の豊饒な営みをこの地が磁場として保持しているのではないかとも思えるのだ。本来、人間は原初の地上ではそういうタイムフレームのもとに生きていたのではないか。そして、我々現代人は、時間という概念でさえも、感覚を麻痺され、洗脳という無意識下の思い込みによって、幻想のタイムフレームの中に閉じ込められているのではないかとさえ、思うほどだ。

せわしなく、ある種、脅迫神経症的に時間の幻想に追われて、無目的に能動されている我々とは、実際はまったく奇妙な世界の住人たちと化しているのではないだろうか。
ずっと自由に、思うがままにこの風景を眺め、無為の時を充溢して生きるのも、決して無意味なことではないだろう。むしろ、日常の閉じられたタイムフレームから離脱して、天地自然の大時間の無限の中に遊ぶことの方が、きっと本来のホモサピエンスの野生を回復させる機縁になるかもしれないと思うのだ。
あたりまえと思い込んでいる時間の流れでさえ、巧妙に操作されたマトリックスの最たるものではないか。「進歩」などという脳内幻想と同じものかもしれない。いったい何に掻き立てられているのだろうか?

そんなことをついぞ考えさせられる、時間の静止した場であった。


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※井田近くの道路脇から対岸の日本平方面を望む。いつもながら感じるとおり、ここからの樹間から海を隔て遠く見える対岸の風景は、なぜか古代の頃見ていた風景のような妙に懐かしい感覚を持つ。
by martin310 | 2014-11-28 14:09 | 風景探勝

散歩道にて。錦秋のあまりに美しい最後の輝きが魅せる世界のあらわれ。


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生後5ケ月のワンコと散歩に出るようになった。

それは、家の中で走り回るだけの箱入り娘だったワンコが、ある日、庭先でリードを引っ張るとそれまで頑として動かなかった頑なさをやめて、急にどこまでも風を切ってずんずん歩くようになったからだ。

自分の背丈からしたら6分の1しかないチビ犬が、いきなり坂を登り、疲れを知らず見晴らしのいい丘の上まで一気果敢に平気で駆け上がって行く様に、あくせく息も絶え絶えに逆にリードに引かれる身となった自分からしては、実に驚きの運動能力と絶句した。

ワンコに引かれながら眺める散歩道の木々の色の美しさに心惹かれながら、カメラを手にしてこなかったことを後悔した。
あまりの光の映し出す色彩の鮮やかな様に、あらためてこんな我が家からわずかのところの木々がまるで違う世界に変わったように見えた。

a0282620_2025653.jpg秋から冬へのちょうど最後のピークの日だなと思い、散歩から帰ってもう一度カメラを持って出掛け、画像におさめて来た。
これほどの色の輝きは、これから色醒めて、やがて落葉し裸木になり、モノトーンの冬の装いに変わっていく、もう今年は見られない今季最後のものだ。

それにしても家の近くのいつもの道で、こんなに光の美しさに感動したことはない。それは視覚を通した光以上に、注がれる波動のクリアさが際限ない高いものと直感する。

「これはもう、外世界からやって来る光には闇の要素がまったくないな」と思ったものだ。
「あとは残留している人間の意識の内部だけに限られるのではないか」
という感慨が湧いた。

外宇宙から地上の人の意識に侵入し、自在に豹変させ、意図する方向へ動かすという闇の支配の元が断たれたように、外部からまったく姿を見せずエネルギー的に介在する闇意識が、見事に消滅しているのをここに感じるのだ。
これは以前は考えられないことだった。絶望的なほどこの覆いは強力だった。誰にも知られぬうちに、大衆が、個々人がコントロールされていた。
そこには人間の意識システムのあらゆる操作法を熟知した勢力によって、自在に操つられていた事実があった。
三次元ではまったく手がかりを見せず、見えない四次元の波動コントロールの世界を隠れ蓑に、人の意識を掌握して自在に動かし、闇の世界を現実界に広げようとする魂胆たるは、それを知ればどれだけ卑劣極まりないものか。

a0282620_20254019.jpgだが今や、そんな見えない被害のうちに影響された意識の後遺症は残っても、これからも続けられることはもうない。もはや、個々人の魂の性向そのものによって培われた意識があるだけだ。つまり個々人のオリジナルなものだけが残され、コントロールされる巨大なバックアップはもう消失している。
それだけに、天から降っている光は限りなくピュアで美しいものになる。
あとあるのは人為的な闇意識を保持した人の上に立つ人間たちの群れが、どのように光の側に投じていくかが今後の世をつくっていくのではないか。

そんな風に思える我が散歩道の秋の彩の日だった。
世情の動きは緩慢なく激しくなりつつあるようだ。
愚かな為政者たちの末路を見るのも、この時代を生き、目覚めた意識で見つめる人の数が順次増えつつあることが、より時空の光の量を拡大させる為に早まることだろう。


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by martin310 | 2014-11-18 20:28 | 風景探勝

視覚は広がる視野領域の中で、物語を持つ風景を発掘しているのかもしれない。美しき樹の姿と山の図。


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どうも山を背景にした枝張りの美しい樹木の姿が好きなのか、まわりから一際映える大木の雄姿を見ると、必ず被写体としていろいろなアングルで画像におさめることになる。

a0282620_20412115.jpg安倍川沿いの閑散とした県道をのんびり風景を脇見しながら走っていて、この樹はぐっと視線を惹き付けたものだ。車を停めて撮ろうとするまでの意志を生じさせるほどに牽引力があった。
茶畑の向こうに一本だけすくっと麗しき姿で立っている樹が、折からの陽光を浴びていっそう枝と葉の密度の美しさを誇っていた。背景の三角山もまるで絵に描いたように昔話風の雰囲気をもって背景に溶け込んでいた。

物語性を含んだ風景というのが、自分の求めるひとつの異界の光景につながるものだ。ありきたりの現実感に飽きあきしている視覚には、そこからやや夢世界に逸脱したような、童話的イメージの領域に意識を引き込む力をもった風景というのが、一服の安息を与える。

眼前に実在する光景から、脳内に結ばれた像を介して、無意識の記憶の蔵にある茫漠とした過去の記憶端子につながると、そこで電磁気的な脳内反応が起こり、物語性を主体にした別のイメージ空間が拡張していく。
この空間の中に意識がたゆたうとき、そこには三次元の寒々しく無味乾燥な現実界を遥かに超えた豊かさと安逸な時間がゆらいでいる。

人が休息や娯楽に求めるものは、ある種この世界へのルートを探す行為なのかもしれない。人は機械の内部のようなメカニックな現実だけでは生きられないのだ。だから眠って夢を見る。メカニカルな世界と形象の自由闊達な創造の世界とのあいだでバランスするのだ。

いわば写実のリアルさ故の現実の図像から、曖昧模糊とした心象のドラマチックな絵世界への誘惑・・・、それが見る行為から、感じる行為への創造性のふくよかな橋渡しとあたたかな感応の歓びを与える。


a0282620_205039100.jpg山懐に抱かれた山野を分け入ってゆくのは、
自然の生み出す景観の中に
“物語”を持つ魅惑の風景を
光と影がもたらす視覚像のうちに
まるで珍しい鉱石を発掘するように
探し求めているのかもしれない。

ようやく辿り着いたその前で
一幅の絵のように像を確保し
また何度も見返すことができるようにと
ありがたく持ち帰る。
写し撮った風景はまた、
ときに見返す毎に
新たな“物語”を語りかける。



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※写真はいずれも、静岡県の安倍川のわらびの温泉付近からの風景。




こんなBeautiful Relaxing Harp Musicを聴きながらどうぞ。
by martin310 | 2014-11-15 20:51 | 風景探勝

晩秋の爽快な晴天は、不自然なまでの異界感覚がある。目に見える実在の異世界を求めて。


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9月の半ばに行った安倍川の上流梅ヶ島(静岡県静岡市葵区)へ再度足を運んでみた。
緑豊かな清流の風景が、この紅葉の秋にどんな風なのか見てみたかったからだ。
前回と同じ河原に下りて、いつもの“河原でコーヒーブレイク”を味わった。
空は雲ひとつなく晴れ渡っているが、気温は低く、北風も強かった。
紅葉ももう終盤で、かろうじて色はまだ残っているも、色はかなりくすんでいた。
それを補うように、猛然と明るい陽光が照って、黒い影との強烈なコントラストでなんとか絵にしてくれていた感じだ。

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安倍川の水量はかなり減っていて細々としていたが、それでも上流はこのように清らかな澄んだ山の水が流れていた。
厚着の背に太陽が当たると、とてもあたたかになるが、風そのものはもう冬の厳しさをすでに運んで来ているようだ。時の移り変わりは早い。
河瀬には、落葉した赤い葉がその縁に溜まっていた。木々のシルエットが目立つのも、すでに葉を失っている骨組みのみが露見しているからだとわかる。

大気がもやることなく澄み渡っているだけに、遠景の山々の細かなディテールまで浮き立つように迫って来る。強い日差しでものが際立ち、後景までクリアに彩られて空との境界を極端に断絶させる。まるで真空の世界のジオラマを見るように、ある種、別世界に変幻してしまったような感がある。

晩秋の爽快な晴天は、そんな不自然なまでの異界感覚がある。じっと眺め渡していても、どこかあの世的な架空性を持っている。
極彩色に輝き、蒼穹の底のような青い山容が聳える。谷間に深く刻まれた深い陰影との対比が生み出す、まるでソラリゼーションのような世界・・・。

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常に取り囲まれ、逃げ場のない人工のありふれた景観から、一時退避するかのように自然の只中に分け入って身を沈めたい衝動にかられるからか。
あまりにレディメイド化され、すべてがブランド化された世界からの逃避からか。
見るものすべてが人間に依って加工された既成品でしかない人工物の坩堝から、天然自然の紛うことなき人の手の入らぬ自然美の世界へ向かう意志。
そういうものが山並みを分け入り、河の流れが奥まで続く里村を遡上し、南アルプスの山塊群に連なる源流域へ誘なって行くのだ。

見回してみれば、どれもこれも既成物で溢れかえっているこの世界は、あらゆる物が記号化され、製品にまつわる既知の情報がまとわりついている混濁した情報知の集積場ではないか。
そこに居たたまれなさを思うなら、向かうのは天然の原像が宿る地であるのは、意識の正常化作用の成す技であるのは当然ではないだろうか。
人間はあまりに自らが生み出した物の世界に惑溺し過ぎ、極度の自家中毒を起こし過ぎている。しかも過度の常用から神経麻痺も甚だしく、自然と謳うものまでブランディングしなくば対象化もしなくなってしまった。
いったいこの先、これ以上どこへ行こうとするのであろうか?

異界をこの世に求める意志は、まだ見ぬ実在の未開地へとまた次なる風景を探して行くのであろうか。

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by martin310 | 2014-11-13 19:28 | 風景探勝

美しき風景との出会い・・・それは、神聖な自然界の威光を迎え入れに行くこと。


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秋の山々の装いは、それまでの緑のヴァリエーションが主体だった色彩世界を、一気に絢爛たる極彩色の豊穣な色世界に変えるところから、風景の美を嗜む者にとって網膜反応の饗宴の季節と言えるだろう。
色数とその組み合わせの妙を山と木々と空と雲に見る、映像性の豊かな被写体が溢れる山野である。それも、光あればこその、この瞬間以外にない、まさに一期一会の蓋然性と共時性にあてがわれたひとつの奇跡の産物である。

人は感動の光景を前にして、時と共に失われていくその姿を何かに託して残しておきたい衝動にかられ、画像をおさめることが可能な機器でその風景を切り取る。それさえも持ち合わせていなければ、心のスクリーンに写し込んで忘れずにおこうと、一心に見つめ続けるかもしれない。

デジタル画像はweb上では常にあらゆる箇所に配置され、ページを移動する刹那に視覚に入れるだけで、一瞬にして次のページヴューに移動しているのが日常だ。およそ画像を見ている時間は視覚の脳への伝達速度にしかならないほど短いものだろう。つまり、モニタ上に現れた瞬間に消費され、再度眺められることはほとんどない、まさに使い捨ての運命にある。
だが、物質的存在感を厳然として持っている壁に掛かった額入りの絵画であったなら、人はそんな一瞬の視覚的消費行為には至らないだろう。実在の風景を眺めるように、その場に腰掛けてしばし見つめて味わうかもしれない。
いったい、その違いは何なのだろうと思うことがある。
もちろん、絵画も画像情報としてweb上にあれば、それも写真とほぼ同じくらいに短命な扱いをされるかもしれない。

人間の視覚と行動は不思議なものである。
ただ言えるのは、最も永く、しかも感動のままに美しく人の中に残っていられるのは、きっとこのような画像や絵ではなく、心の感じた風景であろうと思う。心の琴線に触れた胸躍る光景は、生涯、さらにそれをも越える魂の記憶にすらなり得る価値がある。

自然はしかし、そのどれをも選ばず、誰に見られようとも、見られることすらなくとも、一切を拘泥することなく、ただそこに在るのである。厳然と、崇高なる美の姿を露に見せているのだ。
自然界の美しさを求めて山野をさすらう者は、それゆえに尚、儚く消え去る一瞬の美に出会おうと、また、おさめて残そうと小さな矩形のフレームの中にその像の影を写そうと試みるのだ。
息を呑む美を目前にしたとき、意識は自動的にレンズを向けさせる。美との遭遇を記録しておくかのように、自分の今を風景に託すのだ



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※写真は、山梨県・南アルプス街道から奈良田近郊の景観。
by martin310 | 2014-11-10 13:55 | 風景探勝

自然のもとに光と色彩と、先進な波動の情報を求めて。~小さな旅は続く。


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今は休日となると、晴れていれば出来る限り自然のもとに出掛けたい衝動にかられる。二人の他に新たに一匹が増えたこともあり、家の中の世界ばかりしかあまり知らないワンコを出来るだけ外の世界に触れさせてあげたいこともあり、キャリーに入れてワンデイ・アウトドアを体験させている。
思い返してみて去年と言えば、ちょうど “TOOL SHED” のD.I.Yに熱中していて、およそ出掛けることなく毎休み中作業に勤しんでいた時期だったのだが、今年はもう既にそのような1年前が遥か遠い日々のように感じるくらいに、気がつけば生活の流れも意識の地点も、いつのまにかぐっと距離を伸ばしたように感じられるものだ。

a0282620_21463123.jpg時間の流れがあまりに早く、一日が短く、思えばどんどん日数が経過していく。だからといって、日常にめまぐるしく激しい動きがあるのかといえば、そんなことはなく、至って平穏で静かな日々なのだが。
または、時事情勢が逼迫し、動乱のごとく驚天動地な事態が目に見える形で起こっている訳でもない。変化は確かだが、かなりインナーな動きでしかない。それなのに、時間は加速度的にスピードアップしているような感覚にある。
おそらくこれが、幻想としての直線的時間の、時空の固有振動数による変化をあらわすものなのかもしれない。
来るものは激しく早く差し迫って来るようで、去っていく事柄はあまりに流れに遠く運ばれている・・・、そんなまるで川瀬の中に立っているような時間の奔流に身をあずけているような気さえするようだ。

なので自ずと、流れの川原でなく、静謐な湖水を選んでバランスを取ろうとしているのかもしれないが、秋の装いに静かに移行している森と、秋空に深い紺碧を見せる湖水の魅力はやはり心を惹きつける。
a0282620_21464518.jpgそれに大きな湖ほど、空を大きく見せるものもない。青空を渡る雲を眺めることも、天からの光の微粒子のなかの波動情報を感じ取る重要な要素だ。太陽が放つ光の波の内部に、セントラルサンから送信される意識の覚醒コードが組み込まれているはずだからだ。視覚領域を超えたなんらかの振動分子が意識に微細な反応を示す。湖面に生成される風のつくり出すさざ波の細かな動きのうちにも、光の粒子が踊り、同様な言葉にならない極微な情報をもたらす。

そうやっていつのまにか受け取った「感じ」というものを、時間をかけて意識の中で反芻するうちに、閃くように「こういうことだ」という見解がやって来たりする。それをさらに、短い文面に置き換え形にすることで、一様な受信サイクルが一段落するといったような感じだ。
もちろん、それを裏打ちするようなweb上の良質な情報源もチェックしながら、自分の新たな「認識(awareness)」をつくっていく。
その為にも、出来る限り、天からの光を求めて自然界に奥深く入ろうとする。地図を広げそのポイントを探し、脳裡に地場のエネルギー地図を描き、目指す場所を目的地に据える。

これから秋の紅葉がたけなわとなる。一段と光と色を求めて出掛ける意欲もさらに高まるだろう。もちろん人が行かない、秘された好ポイントへ、日帰りミニトリップは今後もしばらく続きそうだ。

※写真はすべて本栖湖にて撮影。

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by martin310 | 2014-10-13 21:53 | 風景探勝

山上の小さな湖―四尾連湖にて。 「今」に存する感覚を得る。


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富士川沿いの道を甲府へ向かう途中、以前からその存在は知っていたが一度もまだ足を踏み入れたことのなかった山上の小さな湖、四尾連湖(しびれこ)へ行ってみた。
ここはアウトドア雑誌やネット情報で見かけて、キャンプやカヌーなどの好適地だとは知っていたが、実際、地名の読み方もわからず、どのあたりにあるのかもおぼろげにしかわからず、地図で詳しく道筋を調べてみると、その登り口は今まで何度も通っていた「本栖みち」の途上にあることがわかった。
もちろん、道路標示には至る先が「市川大門」としか出ていないので、およそこんな美しい湖がその先の山の上にあるなどとはついぞ思わない。なんでも、この小さな湖は、その昔、富士五湖ならぬ、富士八海と呼ばれたうちの、有名な五湖の残りの三湖のうちのひとつらしい。なぜか、富士八海というと、どうも古代歴史の古文書の「宮下文献」に記された世界のような、古代富士王朝の頃の神秘感を感じる気がする。字の当て方にしても、どうも秘史としての古代王朝的な雰囲気を持っている。(別名、志比礼湖(しびれのうみ)、神秘麗湖とも書かれるようだ)

a0282620_1522429.jpg登り口でさえ、こんな狭い道がそうなのかと不安に思い、Uターンしては道路標示を再確認しに行った。直後の脇道を指しているのか、その先の交差点を指しているのか、実にわかりにくい所だ。
カーナビなど敢えて装備せず、道路地図を頼りに、自分の勘を働かせて探すのが本望なので、このような見つけるまでのドラマも小さな冒険の一環なのだ。
それにしても、初めて走る道は初見の景色と相まって、とても興奮する。未知なる領域に足を踏み入れるわくわく感はいいしれぬものがある。家からの日帰りコースのほとんどを走破し尽くし過ぎているきらいがあるなかで、まだこんなところにまったく自分にとっての未開の地があるとは思いも寄らなかった。それだけに、湖を目指し、延々と登る山道の工程は実に愉しいものだった。行き交う車さえまったくなく、超低速であたりの山々の風景を堂々と脇見しながら行く道は、相当な開放感がある。思わず、あまりの心地よさに奇声を発するので、同乗のワンコがそれにいちいち反応する。連れはそれを笑う。


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標高をどんどん上げ、峠のようなあたりのすぐ下に湖の水面が木立の中に見える。湖畔は、水明荘龍雲荘が占めているようだが、対岸のキャンプ地まで歩いていけば、絶好の“湖畔でランチ”の場がある。(湖面標高880m)
こんな知る人ぞ知るような場にある湖だけに、一般の俗化からはかなり守られているようだ。湖畔の土の道は、どこか異国の湖を思わせるように魅力的だ。
周囲1.2キロしかない湖は、静まり返っている。ときおり山荘の人の声や作業の音が漏れて来るだけで、あとはまったく人気がない。湖畔の来訪者は、我らふたりと一匹だけである。
まあるい湖上の空だけが、森と山のあいだに空いている。
草地にシートを敷いて、バスケットに入れて持って来たサンドイッチや焼きたてパンなどを食べた。爽快に風が渡っていく。湖面にそれが風紋をつくる。
ワンコを放すと、草の生えた中を嗅ぎながらあっちにこっちに走りまわっている。あまり離れると恐いのか、また自分で戻ってくる。
いつものごとく、コンパクトバーナーで湯を沸かし、コーヒーをドリップして飲んだ。至福のひとときである。

a0282620_1524446.jpg何でもない休日のワンシーンだが、そこには比類のない幸福感がある。美しい自然と共に家族の一単位がそこに存すること。満ち足りた時を何にも遮られずに過ごす自由・・・。
あとで思ったのだが、この日の一連の小さな旅の中で、およそ普段のような脳内思考がまったくなかったのに気がついた。つまり日常の雑多なマインド世界から完全に自由で固定されない、その時、その瞬間に十全と自分そのものであったことが不思議だった。
今、そのもののうちに在った。自分自身ですら意識せず、およそそれは「無」のような心境、そこに在るだけのそれになりきっていた。

それも意図的、意識的にそうなろうとした訳でもない。いつしか、そうなっていたという、そのことに一日の終わりに気がついたということ。
この感覚は案外、今までにないものだった。
(この無のような心的世界の裏側には、もちろん膨大な広がりと複雑過密で、乱雑で醜悪な世界の実像が横たわっている。日々、情報探査によって知る内外の情勢をバックに、おぞましい地球の現況を知るにつけ、この日の開放された光の世界がいっそう輝くのは言うまでもない)

それは美しいものだけに反応する自由、その時、その刹那に充溢する至福・・・。そんなような心的体験がこの日に与えられたもののようだ。
「今」に存する感覚、というのはこのことなのだろう。
言葉にすると、とたんにありふれたものになるが、言いようのないそれは、体験で得るしかないものだ。

湖岸の景色を撮ることに夢中になって砂浜のあるところまで行っていると、姿が見えなくなって不安になった呼ぶ声が湖面を渡って来た。


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by martin310 | 2014-10-06 15:13 | 風景探勝

清流の河原で、二人と一匹が青い山を眺める。(安部川の上流にて)


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我が家から日帰りで行ける範囲で、未だ行ったことのない、しかも自然界の氣に満ちているような場所を、何度となく地図を広げては探していた。
というのも、長年、そういう風にあちこちと自然の場を探索するようなことをして来ただけに、住まいのある伊豆半島内はもとより静岡県内、山梨、神奈川、長野に至るまで、日帰り可能なエリアでは、もう足を伸ばそうとする宛が既に枯渇しているほど、思い当たる行く先がなくなっていた。
確かに、同じ場所でも各季節でまた違う味わいがあり、新たな発見もあるものだが、それにしてももう余りに行き過ぎているので、そんな意欲も湧かずにいるのが昨今である。

a0282620_11283231.jpgそれも単に、るるぶ的な視点で行き先を特定するのでもなく、また風景写真を撮ることが主でもなく、未だ知らぬ自然界のエネルギーの高い場を求めての小旅行であるのが、なかなかこれという場に行き当たらない理由である。つまり、波動がすべてなのであって、今の自分が求めるような理想的な波動場を探索するのが目的であり、内なるものが自然にそういう場を求めるのに従うまでである。
もちろん今までの風景画像を見れば分かるように、まずは人がほとんどいない地で、人為によって物理的に荒らされていないところで、しかも、波動的にも人の意識の破壊にあっていないような、人知れず太古からの大自然のエネルギーが奇跡的にも保たれているような場がそれなのだ。
だから、人口密集地や都市圏はまったくスポイルされる。どうしても、首都圏に向かう側は行く気がしない。実際、もう何年も東京方面へは近づいたことがない。遥かに大地をうず高く覆うように人工的建造物が密集するような、高密度な自然離反地域には、どうしても心身ともに拒絶感が強い。エネルギー的にまったく相容れないほどの隔たりがある。
なので、少なくとも人界からやや外れた伊豆の山の上に身を置いているのだ。そうでないと、身が持たないのが現状で、本当はもっと奥地のさらに奥に住まいたいくらいだ。
まあ、少食・微食を実践し不食を目指す食生活で、森の開けた空と海の見える地に、植物を庭に群らせて木の家に住む生活というのだから、もう既に仙人のはしくれになりかかっているのかもしれない。
ただ、未だに暮らしの糧を得る為の金稼ぎをする必要があるために、人界に近い地域に半仙人生活を余儀なくされているのが現状だ。そんなものに支配されない暮らしが可能なら、もっとあらゆるしがらみから隔絶されたような場で、日々を過ごしているかもしれない。


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a0282620_11232469.jpgさて、そんな訳で今回探し当てたのは、県内でしかもおよそ片道3時間位で行ける場に、こんなところがあった。
それは、静岡の代表的な大型河川、大井川と富士川に挟まれた安倍川という一級河川がある。源流は南アルプスの山塊群だ。上流には大井川のようにダムがないだけに、川の流れは自然そのままの清流である。
川沿いに延びる県道29号線を終点の梅ヶ島まで行った。梅ヶ島は温泉地であり、何軒かの温泉宿が軒を連ねているが、そこまでにもいくつかの温泉がある。そう言うとかなり魅力的な地であるのに、地方の温泉地がどこもそうであるように、ここもかなりのさびれようだ。
途中の道も、前後まったく車の影を見ないほど、貸切状態で超低速で風景の探訪が出来る。2、30㎞でのんびり脇見運転で行けるのがこういう所のいいといころで、これはと思った場所で停めてカメラを向けるという具合な開放感がある。

とりたててここという風景はないのだが、山も川も実に迫力に満ちていて存在感の強さに圧倒される。大水が削ったような川岸が、増水時の川筋の激しさを物語って、この地の自然の力の凌駕した厳しさを感ずる。1本の県道だけで結ばれた奥地の人々の生活は、洪水にあって一瞬にして陸の孤島になる。

a0282620_1125158.jpg清流が岩を削る河原に下りて、昼を食べた。
今回から連れと二人に一匹が加わった。もっとも、もう既に子犬のわんこは、6月の半ばに生まれて2ヶ月で我が家にやって来たのだが、河原のランチにまで連れて来たのははじめてだ。
まだ、川の何かもわからないが、岸辺の砂地に降ろすと、怖がらずに足を水にも着け、慣れるとゴロタ石の河原を平気で全速で走っていた。
野生のDNAというのは凄いもので、人間でさえ、足元に注意しないとこけそうになるこんな河原を、ろくによく見もせずにあらゆる足場の状況に対処して走るのであるのだから、見ている方が驚くばかりだ。


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a0282620_1128010.jpg誰もいない河原で、二人と一匹がのんびり瀬の音を聴きながら青い山を仰いでいる・・・。

向かいの森の木々が折から大風にゆらいでそよいでいる。

河瀬の石に当たった水の動きを、まるでダ・ヴィンチがスケッチしたように見つめている。

遠くの山の頂に雲がかかりはじめ、川岸に咲く野草の揺れも風に激しくなって来た。

こんな山奥の河原の石に腰をかけながらも、時は静かに移ろいで行く。

かすかに、奥地の人の住む気配に人の世のありかを感ずるだけのこんな地球の片隅でも、世界が動いているのをひしひしと感じながら、この時代のこの時を生きる。


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犬の寿命からいえば今後十数年、
一緒に暮らすことになる運命共同体の
メンバーのわんこ・・・名前は「Qoo」。
今後も登場することが多くなるので、
ここにお見知り置きください。
(ポメラニアンとチワワのミックス、
生後もうすぐ3ヶ月、メス)
※特技はあらゆるものの破壊工作。
(何でもかじってぶっ壊す)
by martin310 | 2014-09-11 11:31 | 風景探勝